第117話 未入宮の寡妃《レディ・ウィドー》
文字数 5,816文字
椅子やベンチもあちこちに置かれ、会食をしたり、子供達が庭を走り周ったり、テントや噴水のある水場で遊んでいる。
園遊会とはまた違う家庭的で自由な雰囲気。
以前の姿を知る世代はあまりの変わりように驚くばかりだ。
今、庭に出れるテラスのある場所は以前は巣箱と呼ばれ、仕切られたいくつかの部屋では様々な階級、様々な思惑の人々によって権謀術数が繰り広げられていたのだ。
不適切な関係を結ぶ者、それがゴシップとなり陰謀や足の引っ張り合いになる事も多かった。
それをネタに
今や、本人はご婦人に囲まれて気取って微笑みながら、いい天気ですね、日差しの下で拝見しますと今日は特段お美しいですね、等と口から出まかせを言っているのだから呆れる。
天ぷらでも食べたのか、油が入りだいぶ口の回りもがいいようだ。
孔雀と緋連雀と梟が何事か話していたのに、「いやぁまるで下々の花見の宴会ですな。実に庶民的だ。ご覧なさい、貴婦人方が地面に座り込んで実に遠足のように楽しそうだ。以前はもっと薄暗い場所でしたな、よく前総家令殿が潜んでいらして、なぜかいろいろとよくご存知だった」と誰がが梟に嫌味を言って雰囲気が悪くなったのに、総家令が笑いながら「ほら、お兄様は梟ですからねえ。暗闇の方がより目が利くのでしょう」と機知に富んだ返しをしその場を収めた。
最終的に面白い話、楽しい話です事ね、として、小さな
隣では、飛び抜けて美しいが常に喧嘩腰の緋連雀が噛みつき損ねてつまらなそうな顔をしていた。
孔雀本人よりも、姉弟子や兄弟子があちこちのテーブルで、人々に情報提供をしていた。
「ええ。本当ですのよ。第二太子殿下と、ウチの末の妹弟子が。天河殿下、ほら、負傷されたでしょう。実は大変ご重篤でらしたの。その時、孔雀はじっと耐えて千羽鶴を十個ぐらい折ってたんですの。きっと思いが通じたのでしょうと思います」
「もちろん陛下は反対ですよ。特に孔雀は、陛下のご寵愛も深いですからね。天河様がいかに心配とあっても、なかなかこの行く先は難しいのではないでしょうか」
矛盾に満ちた有る事無い事を女優俳優のように吹聴するからには、またいくらか賭け金が動いているからだろう。
いつもは全く食の進まない皇帝が、自分が勧めた、目の前の小さなフィンガーフードを平らげているのを見て、彼女は嬉しく思っていた。
やはりこういった雰囲気の状況だと、翡翠はリラックスしているのだと、彼女はとても喜んだ。
総家令がもっとこういう場を設けるべきなのに。
そもそもあまり社交が好きではない翡翠だが、立場上そういうわけにもいかないのだ。
きちんと自分を正室に身分を上げて、不安定を解消するべきではないだろうか。
春には、いよいよ皇女が隣国に次の王の正妃として嫁ぐ準備に入る。
孔雀が用意する持参する物品の目録はきっちりと目を通し、不備があれぱ厳しく詰問するつもりでいた。
侮られてはいけない。
あの特殊な宮廷のシステムを聞いた時に、めまいと
まるで大昔のハーレムではないか。
潔癖な彼女は嫌ったが、次の皇太子の正室にいかがかと問われて、考えを変えたのだ。
隣国の宮廷での、正室の牽制の確かさを実際に目にして。
どれだけ力のある出自なのかと思えば、元は戦災孤児なのだと正妃の彼女は少しも怯まずに言った。
「そういう者も後宮には多いのです。母后様と宰相様が、招き入れて育てて下さったんですよ。お優しい方なのですよ」と誇らしそうに笑ったのだ。
勿論、戦争で親を亡くし、飢えて死ぬのに比べたら、かなりましだ。
そもそもそんな出自の怪しい女達が王のいる後宮に存在するという事が不敬なのだ。
そこに真に正しい身分の自分の娘が行く。
彼女も、自分も、もちろん夫たる翡翠も正しい評価を得たからこそ。
しかし、まるで家令のように黒い服ばかり着ている喪服の母后の姿を思い出す。
同じ色の服ばかり着ているから気が合ったのか家令達とも親し気に話していたのがまず気に食わない。
姑どころか大姑がいる宮廷だ。
いかに夫が好青年であろうが苦労するのは目に見えている。
隣の皇女が、年の近い友人の娘達とその結婚の話を嬉しそうにしている様子に、三妃は満足感を感じなつつ気を引き締める思いを噛み締めて、お気に入りの女官にそっと囁いた。
孔雀が三妃に優雅に礼をした。
三妃様がお話があるそうです、と女官に言われ、孔雀が人混みから少し離れて、人々の死角になる茶室を指定したのだ。
園遊会や設宴でたまに使用されて、雉鳩が亭主として客人をもてなすことが多い。
彼が和服姿で茶を点てる姿に、男も女も惚れ惚れするものだ。
つまりここはあの毒蛇の巣。
ここに連れ込まれたら、誰もがあの兄弟子の毒牙から逃れる事は出来ない。
孔雀は、嫌になっちゃう、とたまに来ては掃除片付消毒をしている。
よろしかったらどうぞ、と、抹茶と菓子が用意してあった。
菓子器の上の
目につく場所に小さな赤い椿がそっと生けられていた。
風を通すために窓を開け放ったので、風が心地よいが、三妃はその窓を全部閉めるようにと言った。
「お一人?総家令」
「はい、三妃様」
いつもはそばに兄弟弟子達がいるのに、姿が見えない。
ひとりの方がいいのだろうと察するあたりは、宮廷生活が長いからそれはさすがと言おうか。
この茶室の設えも見事なものだ。
悔しいが、自分の女官ではこうはいかない。
自分が実家に言って手配させた人員ではあるが、どうも打ったら響かない者が多くなった。
女官長がよく総家令に珊瑚宮の女官の振る舞いの愚痴を言っているが、その気持ちもわからなくはない。
女官長あまりにも嘆くので、「素質は別として、素行は家令よりはマシです、女官長様」と孔雀が
確かにこの総家令が優秀なのは認めるところだ。
女官達が言われた通り窓を閉めてしまって、部屋が薄暗くなり、孔雀が何度か瞬きをした。
孔雀が茶を進めると、三妃が首を振った。
「いえ。すぐ済むわ」
さようですかと少し残念そうに孔雀は言った。
「先程の騒ぎは本当なのね。第二太子様と通じているというのは」
孔雀は少し困ったような顔をしたが、頷いた。
「本当でございますよ。天河様が私をお
「やはりお前は家令ね。なんてだらしないの」
美しく、賢く、強く、淫らな生き物。
家令は嫌いだ。
「同じ事を天河様にも言われました。家令はだからダメなんだ、って。まあ皆さんそう仰いますけど」
孔雀はおかしそうに笑うのだ。
この神経。
金糸雀なら軽くいなすか。
緋連雀なら大層な嫌味でも言うところか。
この総家令は、楽しそうに笑うのだ。
家令など、皆、頭がおかしい。
そしてこの娘は一番おかしい。
三妃はため息をついた。
「
孔雀はそっと息を吸った。
そう言われるとは思ってはいた。
「・・・お前は皇太子殿下のお申し出を受けるべきでした」
孔雀は驚いて三妃を見た。
「お前、何様のつもりなの。王族の意向を損ねたのよ。お前に拒否権なんてあるものですか。それを何ですか。不遜というものです」
孔雀は困惑して、また微笑んで、首を振った。
「・・・私が望むのは王族の方の幸福です。藍晶様がご自身の幸福のために私をお望みでないのはわかっていることです。また、ご正室様もそんなことお望みではございません」
幸福、と来たか。
三妃はため息をついた。
「総家令。貴女、いくつにおなり」
「二十六です」
もう、というか。まだ、というか。
「何年家令なんて
「ええと、今年で十六年目でございますねえ」
早いものですねえとにこにこしているが、その異常さに紅小百合は呆れを通り越して、嫌悪と畏怖を感じる。
「・・・どうせ知っているのだろうけど。私はね、今のお前より若い時に真珠様の二妃として入宮する予定だったの」
女官達が驚いて主人を見た。
知る者は少ないが、事実だ。
「私も継室候補群の家の娘だもの。誰もがそうであるようにいつか継室としてお城に上がるように育てられてきたのよ」
わかります、そうでしょうとも、と孔雀が頷いたのを三妃が
「・・・お前の家は別でしょう。不敬、いえもう罪悪です。一緒にしないでちょうだい。廷臣が、それも継室候補群の者が四半世紀も城にご挨拶にも上がらないなんてどうかしてる」
孔雀が、まあ、確かにもっともでございます、と頷いた。
紅小百合がため息をひとつついた。
「本来、その家に産まれたんだもの。私もまだまだ若かったけれど、たくさんいる妻の一人なんて嫌だったけれど、二妃ならば、とね」
元老院でも王室に近い旧家の
敵うわけがない。けれど、それでもよかった。
幼い頃から、真珠に憧れを抱いていたから。
「私、嬉しくて。父と母から、当時の総家令が家を訪れたと聞いて、すぐにお返事するように言ったの」
当時の情勢からしても、元老院の力が強く、議会派は新興勢力であった。
皇帝が議会派の継室を望んだと、議会派からは新しい皇帝はリベラルな革新派であると、喜びをもって受け止められたのだ。
「・・・でも、その秋にね。真珠様がお亡くなりなった。皇帝が亡くなったら、継室は喪に服さなければならない。未入宮の
女官達は主人の話を聞いていないそぶりでうつむいていたが、少なからず衝撃でもあったのだろう。
いたたまれない様子だ。
「・・・二妃様はご病気で亡くなったと聞いたけれど、あの正室様に殺されたのでしょう。そんなの誰でもわかる。新しいご継室探しは難航。それは誰もが二の足を踏むわよね。けれど、あの梟が私ならとでも足元を見たのでしょう。梟が当家に来たの。真っ黒い格好で、私も喪服だから真っ黒だった。私、喪服って嫌いなのよ。だから家令も大嫌い」
三妃が孔雀の黒い衣装をじっと眺めて首を振ったのに、孔雀はちょっと微笑んだ。
「紅小百合様を妃殿下にお迎えになるとお決めになったのは、梟お兄様ではありませんよ。そんなわけありません。翡翠様ですよ」
本当です、と孔雀は念を押した。
「翡翠様が、継室に入る事が決まっていただけで、一生喪に服す生活なんてしなくていいのにと仰ったそうです。梟お兄様が言っていました。それから、例えばこの先皇帝が御隠れになっても、お
「・・・そんなこと。聞いたことありません」
「ではぜひ、お尋ねになってください。お召し物の事も。ご入宮の時の事も。・・・梟お兄様は、まあ、あの調子ですから聞いたところでアテになりませんけれど。翡翠様はお聞きになれば、何でもお答えになってくださいますよ。おおらかな方ですものね」
紅小百合は訝し気に目の前の女家令を眺めた。
あの、血統書付の猫のように神経質な男の話か。
別の誰かと勘違いしているのではないだろうか。「あの状況で紅小百合様をお救い出来るのは翡翠様だけですもの。陛下は妃殿下を愛していらっしゃいますわ。何よりも嬉しい事です」
にこやかに言う。
ああ、この、神経。
この娘は本当にそう思っているのだ。
そして、そういう彼を愛しているのだろう。
先程の
あの異常者の白鷹や梟に育てられたからなのか、それともこれが家令として当たり前なのか。
紅小百合はしばらく黙っていたが、笑った。
どうせ何時間話していたって、家令、特にこの女とは決して思考も感覚も交わることはないのだ。
私がいくら
「本当でございますことよ」
「・・・ええ。そうなんでしょう」
この女が言うからにはそうなのだろう。
自分のドレス姿がいいとか着物姿がいいとか、本当にそう思っているのだろう。
翡翠が自分を愛している、それも、本当にそう思っているのだ。
まるで何かの現象のように。
「・・・それでも、あの方、お前がいいのでしょう。・・・もういいわ。わかったわ」
どう話しても、この娘にどうせ話など通じない。
だから家令は嫌いなのだ。
「皇女の輿入れの件はお前に任せます。どうせ総家令の事。あちらの母后様とでもすでにあれこれ根回し済みなんでしょう。ただ。私の娘を惨めな目にするのは許さないわ」
「心得ました。私は望むのは、王族の方の幸福でございますもの。・・・あの、やっぱりお召し上がりになりませんか」
孔雀が勧めたが、三妃は頑なに拒否した。
「結構よ。・・・・お前もね。後宮に住む者から出されたものなんて口にするべきではなかったのよ」
この総家令が正室に毒を盛られた事等、知っている。
驚くほど若い総家令が城に上がって数日で倒れ、やはり子供、知恵熱だ、と誰もが嗤ったが、自分はわかった。
正室が、総家令が慣例通りに毒を盛ったのだ。そして、総家令は、それを受けたのだ。
なんと恐ろしいのだろう、ほらやっぱり。
ここは戦場、地獄と、あの時震えが止まらなかった。
宮廷の誰かに新しい総家令はどうしました、姿が見えませんが、と問われる度に、お気遣い痛み入ります。あの末妹は体が弱いんです、などとしれっと答える家令達にも嫌気がさした。
「絶対に、あの子をおまえのような目には合わせたくない」
「もちろんお約束致します。・・・それに紅水晶様は皇女様でらっしゃいますよ。私が知る皇女様方は、とってもお強い」
三妃は答えず