第122話 パンドラの匣《はこ》
文字数 2,951文字
「お姉様。私は、家令で生きて死んでいく。家令と何かはなれるかもしれないけど、家令でない別の何かになんてなれない。それは家令の他の誰でもです。目白お兄様にお会いした事はないから、私は本心なんてわからないけれど。目白お兄様は別の誰かになんかなってない。家令である以上、本人がどう思おうが、どう書類に記載されようが、生きてる限り、家令よ。目白お兄様もそれはわかっていらしたはず」
そう決然と孔雀は言った。
孔雀は今や骨の髄まで女家令だそうですよ。
修道院長の巫女愛紗がそう言っていたのを思い出して、真鶴は舌打ちした。
「家令の一生というものは、そりゃめちゃくちゃで苛烈なもの。自分は死んでも、兄弟姉妹を死なせない為よ。だからこそ群れで飛ぶ。それを理解したら、家令をやめるなんて言えない」
理解してなんて言わない。
でも、それを否定しないで。
泣きそうな顔でそう言われて、真鶴はため息をついた。
「そんなの。適当に合わせときゃいいじゃないのよ・・・・。ああもう・・・。洗脳教育が生きちゃってさ・・・」
孔雀は口元を押さえた。
珍しく興奮したからか、孔雀はしゃっくりが止まらなくなっていた。
子供の頃から、あまりにもびっくりしたり興奮したり悲しくなるとしゃっくりが止まらなくなるのだ。それから、あまりにも怒られると眠くなるので、余計怒られる。
その上、ショックな事があると熱を出したり風邪まで引いたり、蕁麻疹を出したりする。
昔よく、なんなのこの子?!どういう事なのこれは?!と白鷹が頭を抱えていたものだ。
危機に陥ると仮死状態になる狸や虫みたいなもんじゃない?と真鶴に言われて、白鷹は呆れていたが。
あのババアのせいで、ひよこがとんでもない怪鳥になったもんだ、と毒づく。
真鶴は、子供の時のように孔雀に水を飲ませて、口の中に甘いゼリー菓子を突っ込んだ。
一向に収まらないしゃっくりに、孔雀が目を潤ませていた。
真鶴は孔雀の髪を解くと、優しく編み直した。
「・・・ねえ。プロメテウスは天界から火を盗んで人類に分け与えたって言うじゃない」
はい、と孔雀が頷いた。
神話とはどれもこれもすんなり納得できないものではあるが、神の王であるゼウスの息子のプロメテウスが、ゼウスにより火を取り上げられた人間に、新たな天界の火を分け与えたと言うものだ。
「人間は火がなくて寒くて可哀想だということで、火があればあったかいというのがそもそもの動機ですよね」
「そう。でもそのプロメテウス。そもそも人間にどんな義理があるっていうのかしらね」
孔雀は首を傾げた。
「その後、
それまで神の世界には男女の別が存在していたが、人間には女性はいなかったということになる。
孔雀が、そんなわけないだろという顔をした。
「まあ諸説あるようだけれど。そもそもフィクションだからね」
大いに盛りだくさんの諸設定、かつ、さまざまな無理な人間関係と特殊事情とトリッキーな超能力でどんどん味付けされた結果出来上がったごった煮が神話である。
出来上がったものを並べてみたら首を傾げざるを得ない物になってしまうが。
「その女性が、パンドラですね」
パンドラの
ゼウスに命じられた女神達によってあらゆる女性としての技能と、美貌と、狡猾さを与えられて生まれた。また、火と炉の女神でもある。
絶対に開けるなと言い含められて匣を持たされた、プロメテウスの弟であるエピメテウスの元へ送り出される。
兄に父からの贈り物は絶対に受け取るなと言われていたが、エピメテウスは、彼女を見て美しさに心を奪われてしまう。
「そして最後に、彼女は開けちゃダメな匣を開けて、世界中にいろんな災厄をもたらし、最後に希望を与えたというお話よね」
孔雀はいよいよ困惑して姉弟子を見上げた。
その様子が面白かったのか、真鶴は孔雀の頬を突いた。
「まず、プロメテウスがなんでそんなに人間贔屓だったのか。どう思う」
「・・・神様の考えることなんて人間になんてわからないでしょう・・・」
「この神話の神様は皆、異常に下世話で人間っぽいじゃない?神様を理解しようとする努力が理解する為にできる唯一の事よ。ヘンなの、バカみたい、と思いながらもね」
確かに、と孔雀は考えを巡らせた。
「・・・人間が好きだったからじゃない?寒いの可哀想と思うんだもの。・・・神様だから、人間に対してはちょっとペット感覚の視点だったのかもしれないけど」
雨の中震えている野良猫が可哀想とか、そういうものかもしれない。
「・・・・そうかもしれないけど。その後、プロメテウスは、父親によって三万年も化け物に肝臓毎日食われる拷問に合うのよ。自分の父親のイカレっぷりを知らないわけがないじゃない。だとしたら、どんな子猫ちゃん相手にそこまでするのよ」
「・・・・人間に好きな人がいたってこと?」
「それでもおかしくはないじゃない?大体、ほら、みんな、火だよー、と言うよりは、たった一人に火をあげたっぽくない?」
「でも、人間には男性しかいなかったんでしょ」
「今更、家令が何言うのよ」
真鶴が笑った。
「そっか。そうかも・・・」
孔雀は感心して姉弟子を見た。
「だからね。私は、お前のためなら、三万年でも肝臓食われてもいいわよ。・・・まあ、それはまあ回避するけど。そのくらいの気持ちがありますよ、ということね。それは覚えておいて」
孔雀は驚いて目を見開いた。
こんな告白を真鶴から聞く事になるとは思わなかった。
「・・・お前は私の可愛いパンドラ。火と炉の神に、なんてさ。総家令みたい」
総家令は、国のエネルギーを支える炉であるキルンの管理者でもあるから。
私の可愛いパンドラ、と呼ばれて孔雀は頬を染めた。
「王に命じられてヘーパイストスはパンドラを作ったわけだけど。やっぱり仮にも女性を作るのにオッサンだけのイメージではまずかろう、おかしいだろと言う事で、パンドラは女神達にも能力を与えられて、愛された。だから、とんでもない災禍の末も、希望が残ってたのよ、きっと」
押し黙った孔雀を真鶴は抱き寄せた。
「お前達家令の愛情深さはよく知ってるよ。大丈夫、あのワイバーンが今にやってくるよ。大丈夫、ひっぱたかれやしないから」
孔雀は思わず顔を覆った。
しばらく泣いて、真鶴を抱き締めた。
兄弟姉妹弟子と対立した事のない孔雀には今回の猩々時との一件は、内心殊の外堪えていたのだ。
王族と家令というのは物理的にも精神的にも距離が近いが、本来、心理的には遠いものだ。
間違いなく存在する確固たる身分の差。
だからこそ、そこを超えずにも心を寄せてくれる王に、家令達は尽くしてきたのだ。
しかし、翡翠と真鶴はやはり、特別だと思う。
ここまで、家令に歩み寄る王族とは、存在しなかったはずだ。
「・・・・私達、あなた方には、救われてばかりです」
あなた方、というのは、翡翠の事だろう。
真鶴は面白くない顔をした。
「私達、貴女にお仕えは叶いませんでしたけれど。兄弟姉妹である事がこれほど嬉しい事はありません」
「いいのよ。今から、翡翠殺して、私に乗り換えたって」
そう冗談でもないように姉弟子が言うのに、孔雀は笑った。