第15話 堕天使の初夜
文字数 6,205文字
寝室の天蓋に囲まれたベッドの上で、孔雀になんとも落ち着いた様子で見据えられて翡翠は少なからず面白くなく思った。
あの妹皇女がそうさせたのか、白鷹がそう振舞うように教え込んだのか。
恐らく、どちらもだ。
緊張も感じられないし、嫌悪も、恐怖も、敬慕も。
感情がまるで凪いでいるかのように、目の前の少女は穏やかに微笑んだ。
そうではない。感情を冥い淵に沈めているのだ。
自分を嫌って?いや、違う。
ただ、見ているのだ。
見ているつもりで見られているのは、こちらか。
皇帝である自分に対する人間の状態として正しくはない。
しかも正しくは家令など人間ではない。かつては宮廷の美品であり皇帝の持ち物だ。
こういう反応をされるのは、いささか以上に不敬ではないか。
こんな少女に。と考えて、翡翠は思い直した。
家令というのは、人間である前に、家令という生き方であるのです。
白鷹がそう言っていた。
とすれば、目の前のこの小さな大人の姿をしたものは、他の何でもなく家令として存在しているのだ。
「孔雀」
はい、と孔雀はそっと会釈を返した。
その様子は全く愛らしいものであるが、それは様式美でしかない。
「この度は式典においてもまことに見事であったよ。思った以上だった。急な事であったし、まだ小さいと思ったけれど」
正直、意外な程な出来であった。
何かと不平不満を口にするのが美徳で得だと思っている宮廷の人間達が、若き総家令と、家令達の振る舞いには口を慎んだのだ。
宮廷を放逐されていた家令の多くが舞い戻っていたその姿にも、声高に異議を唱える者は居なかった。
彼らの復位は、孔雀が総家令になるに当たって、翡翠が赦した事の一つだ。
「陛下の御心に叶いましたようでしたら、これ以上の安堵はございません。ですけれど、これは、家令でしたら当然の事ですので、年齢でありますとか状況によって出来ないということは、我々には無いお話ですのでどうぞお気に留め遊ばされませんように」
白鷹は、断れない立場の継室候補群の家の娘を追い詰めて無理矢理召し上げてここまで家令に洗脳したか。
大したものだ、と翡翠は正直ぞっとした。
「翠玉皇女の恋人というのは本当の話かな」
どこかで外国の血が混ざったのだろう、青菫色の双眸が初めて少し潤んだような気がした。
外国にも多く拠点を持って経済活動をするギルド筋の人間には珍しくないが、遺伝子の話と考えても、この色の瞳は多くはない。
家令達の庭園で会った時は、陽の光をさんさんと瞳に取り込んで透き通った宝石のようだったが、今は深い湖のようだった。
「ご興味がございますか」
「興味しかない。だから呼んだのだもの」
孔雀は頷いた。
「・・・そのご興味を私が満たせるのならよろしいのですけれど」
改めて孔雀は顔を上げて翡翠をじっと見つめた。
灯りが目に入り、青菫色の虹彩が収縮して濃度が増した。
大の男が思わず見入ってしまったのを、孔雀が可笑しそうに笑った。
「后妃は着飾って出迎えるものだけれど、総家令の伽姿というのは随分と地味なものだね」
漆黒の家令服を脱いだだけ、薄い肌着のようなもの一枚という有様なのだ。
「これが慣例であって、正しいのだそうです。・・・家令は、実用品ですから」
そう言うと、孔雀は音もなく薄衣を脱いで見せた。
薄明かりに、紛れもない生身の体が浮かび上がる。
思ったよりもしっかりとした骨格で、柔らかな関節な動きが、甘やかで官能を感じさせた。
孔雀の周囲の温度が下がり湿度が上がったように感じる。
翡翠はそのひやりとした肌に触れた。
女の肌というのは、男のそれより肌目が細かく温度が低いものだが、こんなにしっとりと冷たいのは異常だ。まるで全身が粘膜のようだ。
翡翠が肌をなぞり上げて、孔雀の頬から促されるように唇に触れた。
その指を孔雀は促すようにして柔らかく噛んだ。
「翠玉はなんと言って、こうしたんだい」
他人の閠房の話など悪趣味と分かっていながらも、翡翠は尋ねなくてはいられなかった。
「・・・真鶴お姉様は、可愛い孔雀、私を愛してと言って、いつも私をお求めになりました。陛下も同じように言ってくださる?」
甘い吐息で答えると、視線を合わせたまま微笑んで、翡翠を柔らかく押し倒すと、腰にのしかかった。
現実的な女の重みに翡翠はちりちりとした欲情を感じた。
妃が複数いて、更には恋人にも事欠かない身の上であるが、このようにされる人間には初めて出会った。
不思議な香りに包まれた。
意識が溶けていくような樹木と甘い香辛料の香り。
すっかり、この女家令のペースに呑まれている。
ああ、これはとんだ小悪魔、いや悪徳を知った堕天使か。
翡翠は予想外にこれから自分が溺れるであろう事を予感して、身震いをした。
天蓋の向こうから、妹弟子の自分を呼ぶ声がして、黄鶲ははっとした。
あまりにも不敬とはわかってはいたが、たまらず、布を持ち上げて払った。
「失礼仕ります!孔雀、どうしたの!」
末の妹弟子がめそめそ泣きながら顔を上げた。
「黄鶲お姉様・・・」
葡萄色の目が大洪水。
黄鶲は、きっと翡翠を睨みつけた。
「何したんですか!」
狼狽している様子の翡翠が、何って、と口籠った。
「何なの、孔雀。泣いてちゃわかんないわ。もう、イライラさせないで。心配なの!どうしたの?」
不安のままについきつめに問い詰めると、孔雀がやっと顔を上げた。
「黄鶲お姉様・・・、怪我したぁ・・・。このままじゃ病気になると思うの・・・」
と、また泣きべそをかく。
黄鶲はさっぱり訳が分からず、翡翠を見た。
翡翠もまた困り果てたように、黄鶲に抱きついてべそをかく孔雀を見ていた。
「つまり」
翡翠の執務室で、苦虫を噛み潰した後さらに青汁でも飲んだかのような表情で梟が溜息をついた。
「・・・首尾よくいかんかったと」
いくつもの陰謀めいた兄弟子の指示に従って、報告を上げてきたが、これほどに苦々しい表情の梟を初めて見た。
「いえ。まあ、生物・・・物理的には事は済んでおりますね」
黄鶲が言った。
「なんだ。物理がOKなら問題ないじゃないか。・・・万事滞りなく済み誠におめでとうございます。さすが陛下でいらっしゃる」
慇懃ではあるが、「面倒事済んで清々した。はい、終わり終わり」と顔に書いてある。
翡翠は椅子に深く身を沈めた。
「・・・・大問題だよ・・・・」
「は・・・?」
梟は首をかしげた。
「・・・梟お兄様。孔雀、未経験だったの」
「はあ?何の冗談だ。家令は十五で成人。年若い成人家令に非熟練者はいても未経験者はいないだろ。俺たちは実用品だぞ。大体、白鷹姉上が孔雀の一切は真鶴に任せたと言ったじゃないか」
そもそも家令は十代も半ばになればそれぞれ色気付いてあちこちで勝手に・・・とまで言って、さすがに皇帝を前に、あけすけだったかと少し反省した。
「・・・君達の素行が悪いのは知ってるよ」
翡翠が言った。
黄鶲がそうでしょうとも、と頷く。
「それがね。孔雀に聞いたら。真鶴、自分に都合のいいことしか教えていかなかったみたいなの。真鶴お姉様と違うって言ってたもの。だから男は未経験なの」
「・・・・都合のいいって・・・」
梟は唖然した。
「失礼致します。金糸雀が参りました」
礼をして、金糸雀が入ってきた。
「孔雀は?」
黄鶲は泣いてどうしようもない孔雀のお守りを金糸雀に任せて来たのだ。
気がかりそうに翡翠も眉を寄せた。
金糸雀は我慢していたが吹き出した。
「べそかいて、リュックに荷造りして傘挿して、実家帰るって言ってます」
「・・・・勘弁してくれ・・・」
梟は頭を抱えた。
「・・・そんな・・・」
翡翠は慌てて立ち上がった。
信じがたいが彼なりに責任を感じているらしい。
「陛下。どうぞそっとしてやってくださいませ」
黄鶲がそう言った。
「・・・いやでも・・・」
黄鶲が首を振った。
「だから。余計な事するともっと嫌われるって言ってるんです」
皇帝相手にぞんざいな言い草だが、まぎれもない事実。
今現在そんなに嫌われているのか、と翡翠はかなりショックを受けたようだ。
梟が立ち上がった。
「陛下。もうこうなったら面倒です。差し替えで行きましょう。雉鳩か金糸雀で良いですね?孔雀は神殿に行かせます」
若き総家令はあれだけ話題になったのだ。
突然の人事交代は騒ぎになるだろうが、神殿に呼ばれたとかそれらしい事で押し通せば誰も文句は言えないだろう。
「・・・いや、だめ」
翡翠が梟の提案を拒否した。
この男から、嫌だの駄目だのなんてついぞ聞いた事がない。と家令達は少なからず驚いて皇帝を見た。
ふーん、だの、好きにしてだの、(どうでも)いいよ、と、ばかり聞いて来た。
梟は溜息をついてから、金糸雀を見た。
「・・・金糸雀、孔雀は、今、何やりゃいい?」
何を与えれば機嫌を直す、交渉できる、と尋ねた。
翡翠も、何でも好きな物を与えなさいと言った。
王室が所有する宝飾品や美術品や有価証券や土地や離宮や邸宅。
梟が食指を伸ばそうとしたが、金糸雀は肩を竦めた。
「やっぱりあれよね。ドーナツね」
梟が舌打ちした。
「またか・・・。あそこ最近事業縮小して店がないじゃないか。・・・この辺だと駅前だな。何時までだ、あの店。砂糖かかってるやつだな」
「あと四十分ね。パウダーシュガーのは砂糖だけ舐めちゃうから、グレイズドのやつよ」
「・・・・翡翠様。少々お時間を賜りたく存じますので」
梟は、翡翠に礼をすると、出かけてくると言って部屋を慌ただしく出て行った。
ドーナツで誤魔化すのか。
黄鶲が肩を竦めて兄弟子を見送った。
「・・・梟お兄様が走るとこなんて見たの久しぶりだわ」
「そう?結構、ドーナツだのたぬきのケーキだの買いに走ってるわよ。孔雀、宝石とか土地とかゴールドとか有価証券とか使うとこないから、結局食い物」
言う事をきかせるために、代わりに好きなものを言え、でもなるだけ持ってるやつにしてくれ、と言いながらも、絶対に梟が溜め込んでいるプラチナの類が欲しいとは言わない孔雀に言う事きかせる為にあちこち買い求めに行くのだ。
「まあ、呆れた話だこと」
まだ子供の孔雀に、あの兄弟子は何させてきたもんだか・・・。
「・・・参ったなあ・・・。梟、間に合うかな・・・」
時計を見て、閉店時間を気にしている様子で翡翠が呟いた。
皇帝は、黄鶲が見た事も無い何ともおかしな表情をしていた。
知恵熱が出て頭に冷たいシートを貼られた孔雀がドーナツを食んでいた。
甘味に気持ちが落ち着いたのか、少し表情がやわらいだようだ。
孔雀はソファに座り、その横に傘を挿したリュックが置いてある。
「・・・お前、本気か・・・?」
梟に聞かれると、砂糖だらけの口で孔雀が頷いた。
「皆さん、お世話になりました・・・」
泣いて大福のように腫れた瞼でぺこりと頭を下げる。
緋連雀、金糸雀、雉鳩、白鴎が大笑いした。
燕だけがハラハラと姉弟子を見ていた。
梟は気を持ち直してソファに向かい合って座った。
孔雀がドーナツの砂糖を舐めながら小さな声で話し始めた。
「・・・ガーデンに帰ったら白鷹お姉様に怒られるし・・・いろいろ、知らなかったから、やっぱり私には無理だとわかりました・・・」
「いや、だから、それは真鶴が悪いんだろうが・・・」
あの皇女は何と面倒なことをしてくれたもんだか。
「まあ、こっちも食え」
ドーナツをさらに押し付ける。
どうしたもんか。
知らなかった、失敗したというショックと、帰ったところで、出戻り家令なんて結婚も就職も出来ない。白鷹と鸚鵡による個人教育では進学すら社会的に通用するのか不透明、と緋連雀が以前脅した事を気にしているのだろう。
「あんたこれからどうするのよ?実家のお菓子屋やるの?」
「・・・でも世間体が悪くて就職も難しいんでしょ。・・・おじいたまが漁師だから、そっち手伝おうかなって・・・。素潜り得意だし・・・」
「あの爺さん、遠洋の底引き網じゃない。・・・まあアンタ、アワビだのウニだの採れるもんね」
「こいつ素手でカレイ採ってたぞ」
「孔雀に紐つけて鵜みたいにしたらいい小遣い稼ぎになりそうだな」
と、兄弟子姉弟子は全く相談に成らない。
燕はさすがに孔雀が気の毒になった。
様子を見てくるように翡翠から言いつかったのだが、これでは何のいい報告も出来そうにない。
「孔雀、とりあえずこれサインして。翡翠様が甲、あんたが乙のとこね」
金糸雀が、おもむろにファイルを孔雀に渡した。
甲の場所に翡翠のサインと印が押してある。
「なんだこれ・・・?」
ぎょっとした梟が金糸雀から書類を取り上げてページをめくり仰天した。
「お前!これ・・・?!」
孔雀に関する労働条件だ。
「家令の成年と本来の成年に差がある事は法律上は違法である。よって、満一六歳未満の年少者を一日のうち八時間、週三十時間を超過して労働させる事は労働基準法によって禁じる事。また、午後十時から翌日午前五時までの深夜労働もまた禁じる」
金糸雀が諳んじた。
「バカを言え!子役じゃないんだぞ。それで家令業が務まるか。大体、それではまともに軍属につけない。家令は軍属の度にで二回死んで四階級上げてこいってのが信条だぞ?」
ふん、と金糸雀が鼻で笑った。
「・・・また、年少者の健やかな心身の発達や健康を阻害する恐れのある勤務は禁止する?」
はっとして、梟は金糸雀を見た。
「そう。翡翠様がお約束して下さったわ。孔雀が二十歳までは強制的なお召しはなし。さっき鷂お姉様と私でまとめたの。これでダメなら、国際人権団体と、あとは、子どもの健やかな成長を見守る会、女の子の為のこことろからだを守る会、国際性犯罪者を未然に拘束する会ってのに鷂お姉様が駆け込む事になってると言ったら、翡翠様は全部この条件飲むって」
なぜか家令にしては人権派の鷂が金糸雀と謀ったらしい。
「・・・お前、皇帝を強請ったのか?!」
なんと恐ろしい。
「孔雀、ほら、もう泣かなくていいのよ。ああもう」
お召しとの事で金糸雀が腕によりをかけた化粧も全部落ちてしまった。
金糸雀がテーブルにあったタオルで孔雀の顔を拭いた。
「それ台拭きですよ、金糸雀姉上・・・・」
燕が言うと、まあ汚れ具合はこっちがひどいわよ、と、さらにぐいぐい孔雀の顔を拭く。
緋連雀といい、金糸雀といい、鷂といい。
そして、孔雀。
女家令め。
梟は頭を抱えた。
面白おかしく緋連雀が話を終えた所で、大嘴が鵟にジュースが注がれたグラスを手渡した。
「というわけで。孔雀の宮廷家令としてのスタートは惨々たる有様。君もプレッシャーを感じる必要はないわけだ」
兄弟子姉弟子達がまた大笑いしていた。
まあ、美味しそう、楽しそう、なんて入ってきた孔雀が、耳に入って来た自分の過去の話題に短く悲鳴を上げた。
「・・・大嘴お兄様、最低!なんでそうデリカシーないの!」
「もう時効・・・。にしても、今思い出しても、おかしくて・・・」
大嘴が吹き出し、さらに火に油を注いだ。
「アンタがねえ、妹弟子に話すのに、そこだけすっ飛ばしてうまくまとめようとしてるからよ」
「そうそう。あの長ったらしいセレモニーのハイライトはやっぱアレよねー」
「・・・わざわざ話す事ないじゃない・・・」
孔雀は泣き出さんばかりだ。
「・・・孔雀お姉様かわいそう・・・」
鵟が呟いた。
大笑いしている方がどうかしている。
「え?これウケるとこじゃない?やだ、いい年しておっかしいー」
しかし、銀椋鳥もまた顔を真っ赤にして笑っている。
「銀椋鳥はやっぱり家令の才能があるな。俺の見る目の確かな事!」
そう言って、大嘴は胸を張った。
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