第12話 離れゆく愛
文字数 4,305文字
家令は皇帝の財産であり、備品である。
しかし、その価値を高めるためなら、価値を損ねない為なら、何でもするということだ。
それを我々はまざまざと見て育ってきた。
家令と言えども、属する者しか立ち入れない。
狐に摘まれたような話というのは昔からあるが、
まさに触らぬ神になんとやら、だ。
姉弟子に手を引かれて参道の階段を降りてくる末の妹弟子の姿が無事なのに、
二人の会話の唇を読むと「お腹すいたら帰り道で
それに
自分だって、下戸だから一日中甘いものを食べているくせに。
何か無茶をさせた、というのが納得できる妹弟子の様子が痛ましかった。
「
と礼を尽くそうとした
医局で、戦場で、そして宮廷で見慣れたものだ。
「大丈夫。自分の経血だよ」
家令の体調管理をしているのは自分だ。
女家令の体の周期は当然把握している。
だとしたらなぜ、この姉弟子はこの時期の妹弟子をこの場所に連れてきたのだろう。
参道から先は自分は入る事は許されないからこの場で待っていたが、
神への信仰は美で表現するものだ、と教わって来た自分にとって、
「
しょっちゅう熱を出す上に、毎月の月経痛がことのほか
妹弟子の顔が白い。唇もかさついて、血が滲んでいた。
何度も瞬きをしては目をすがめているのはよく見えないからだろう。
すぐに目で確認出来たのは、貧血と脱水。
「・・・とりあえず鎮痛剤と水飲みなさい。着替えは途中で何か買ってやるから」
黄鶲が孔雀の口に即効性の糖衣錠を押し込んで、ペットボトルの水を渡した。
「
「潔斎もせずに入り込んだから、一仕事してから離宮に戻る。・・・大変だろうけどしばらく離宮の面倒も見るように
明らかに妹弟子に対する所業が不服であるという表情をした黄鶲に孔雀を預けた後、本殿に戻った白鷹は呆れてため息をついた。
獲物を与えて無理やり引き剥がしてやったのだから、どれだけ荒れてるかと思ったのに、なんという浮かれっぷりだ。
池はこんこんと水を湛え、最近ついぞ見かけなかった色とりどりの鯉まで泳いでいる。
季節でもないのに、蓮の花が次々と咲き、蝶やら蜻蛉が舞っていた。池に亀までいるのはご愛嬌だ。
明後日の方向に二重に虹まで出ている浮き足立った様子に、
「・・・何だよ。アタシが六十年やって、花なんか咲いたことなかったじゃないかよ」
と、つい、口調が荒くなる。
「白鷹お姉様!」
階段から転げ落ちそうになりながら鷂が駆け寄ってきた。
背後でも、神官達が、慌てふためいていた。
潔斎無しで乗り込んできた神官長である白鷹の為に、用意が整えられていた。
あまりの変化にすっかり混乱しているようでおかしかった。
「お花畑に蝶々が飛んでたよ。明日は熱帯魚でも泳いでそうな勢いだ」
「・・・・なんなの、これ、気持ち悪い・・・。ここ三十年、花なんか咲いてるの見た事ないし、鯉なんか居たの見た事ないって言うのに。どっから来たんだよ、この魚・・・」
あまりの異常さに家令の内でも肚の座った鷂が動転しているのに笑い出したかったが気持ちはわかる。
「さて。ここはまあいいよ。勝手にさせてりゃ。・・・奥の院が当然ざわついてるから、あっち何とかしなきゃあ。ほら、行くよ」
鷂は神妙な顔で頷いたが、はっとして地団駄を踏んだ。
「もう!私今晩で上がりのはずだったのに!明日こそ焼肉食べるんだって決めてたのに!」
「そんなの私だって食いたいよ。お前、今、国に居ない事になってんだ。ありがたく仕事しな」
鷂が唇を尖らせた。
「私いつまでお尋ね者なのよ」
「お前があの
「そもそも梟お兄様がやれって言ったのよ!」
「はん、女家令がなんてザマだい」
ミイラ取りに嵌ったわけだ。
奥の院の方向から、気配を感じた。
ざわつく手を何とか孔雀に伸ばそうと、扉を突き刺した短刀を溶かそうとしているようだ。
鷂は改めて肌が泡立つのを感じた。
「・・・孔雀は次のお勤めから神官長だよ」
「また入らせるの?」
あの、奈落の底みたいなところに。
「・・・大丈夫だよ。入って出て来たんだもの。・・・全く」
白鷹が孔雀を引っ張り出した時に感じたのは、屠ろうとする感情ではもはやなかった。
欲求、いや、愛着。
孔雀が、荒ぶる獣に手を伸ばし、自分が苦労して縛り付けた鎖を一輪づつ外して、はらわたを食い破られながら、侵されながら、それでも寄り添ったのか。
手を伸ばして引っ張り出そうとした自分に、孔雀はとんでもないザマで、お姉様、もうちょっと待って、と返してきたのだ。こっちが焦った。
落ち着いた頃、両手に何かを握りしめていたのに気付いて開かせてみると、赤い蓮の花びらが何枚もこぼれ落ちた。
手の中になど収まるはずなどない程の量の花びらで足元が埋まった。
出会いと、それから一時的にしろ
白鷹はため息をついた。この妹弟子を生贄に。自分の思惑通りではあるけれど。
ああ、お前、すっかり目をつけられたね。もう逃げられない。なんて強烈な求愛だろう。
孔雀はそれを見て、分かっているのか分かっていないのか、おかしそうに笑ったのだ。
手品みたい。次は鳩でも出てきそう、そう言って。
・・・やだやだ、頭おかしいよ、あの子。
白鷹は、腹を抱えて笑った。
そんな姉弟子を見るのは初めてで、気味悪そうに鷂は目を逸らした。
金糸雀は黄鶲に呼ばれてガーデンに戻っていた。
孔雀を見るとホッとしたが、それでもその様子に違和感は拭えない。
思った通り、発熱して孔雀は寝込んだ。
「・・三九度九分・・・」
体温計の液晶を眺めて金糸雀は言った。
「ああ、だいたいどこのメーカーもそこまでしか表記できないのよ。この感じだと四二度くらいじゃないかしらね」
「・・・発酵して納豆になっちゃうわ・・・」
金糸雀が孔雀の口に氷と缶詰の桃を突っ込んだ。
孔雀はぐったりしながらも、嬉しそうに目をぱちぱちさせて桃を飲み込んだ。
金糸雀は事の次第を黄鶲から聞くと真っ青になった。
潔斎もしないままの生理中の孔雀を奥の院につっこんだというのだ。
なんて、野蛮。あの野獣は、檻に放り込まれた血を滴らせた雛鳥に舌なめずりをした事だろう。
金糸雀にオリュンポスの儀式のあれこれを指導したのは鷂だ。
海外帰りの金糸雀には理解出来ない事の方が未だに多い。
そういうものだと言われてやってはいるが、納得しているわけではない。
鷂は、慎重すぎるくらい慎重だった。
『軍に行く後では無く、その前にオリュンポスに入るようにしなさい。命取りになる。小さな切り傷だって治らないままで上がってはダメ。指に傷でもあってごらん。腕ごと食いちぎられるよ』
一歩づつ、相手との距離を測りながら、そっと。自分が安全地帯にいるのを確かめてから、また一歩つづ身を守りながら。
それなのに、白鷹はいきなりライオンの檻に、生肉を体にくくつりつけたような孔雀を蹴り落としたのだ。
「黄鶲お姉様」
孔雀が金糸雀に薬の説明をしていた黄鶲に話しかけた。
「白鷹お姉様、怪我してるから、行ってあげてね。手、火傷したの」
黄鶲は首を傾げた。そんな様子は無かったが、そう言うのなら確認してくるべきだ。
「分かった。私はオリュンポスには上がれないから、白鷹お姉様が離宮に戻ったらすぐに行くわね」
孔雀が頷いた。
「・・・・行かなくていいんじゃない?」
金糸雀がむっとして言った。
「・・・自分が悪いんだもの。白鷹お姉様、ひどい」
「仕方ないわ。白鷹お姉様は、怒ったのよ」
ぶすくれた金糸雀を、黄鶲がなだめた。
「いつも怒ってるじゃない」
「まあそうだけどさ」
孔雀が心配そうに目を開けた。
「私が、また泣いてばっかりだったから?」
「違う違う。今回は、あんたにじゃなくて。真鶴によ」
金糸雀と孔雀がきょとんとした。
なぜ、今、居なくなった姉弟子なのか。
「私は、物心ついてから、三人、王を見てきたけれど。誰もが決して総家令をお離しにならなかった。・・・真鶴が皇女なのは聞いたね」
金糸雀が驚いて目を見開いた。
孔雀が小さく頷いた。
「真鶴はね、琥珀様がお産みになった最後の子なの。離宮で生まれたし、いずれ家令にと育ったからその実存在を知る人間はそんなに多くないけど」
金糸雀が驚いて姉弟子を見上げた。
「王族が何で家令やってんのよ・・・・」
男の皇帝が女家令に産ませた子は家令だが、女皇帝が生んだ子は全て王族に列せられる。
「そんなのわかんないわよ。琥珀様と白鷹お姉様の考える事なんてわかりゃしない。ただ、私にわかるのは。お前にするわと孔雀に粉をかけて。どんな事があったにせよ、孔雀から離れたなら、それはもう致命的よ。琥珀様はどんな時も白鷹お姉様を遠ざけたりはしなかったから。まあ、だからいついかなる時も距離を取らないからこっちにはトバッチリだったけども。・・・だから白鷹お姉様は怒ったのよ」
またべそをかきそうになったのをぐっと堪えて桃の半身をシロップごと飲み干して女神のように美しく、悪魔のように何でも出来る皇女を思った。