第56話

文字数 1,229文字

 次第に伸びる日の光がトーヴァの山肌を染めてゆく。
 温められた空気は鮮やかな緑の匂いを含んで広がる。それは凍りついた湖上の(もや)を揺らめかせ、冷ややかな空気と混ざり合い、夏とも冬ともつかない香りを漂わせていた。

 四精術(しせいじゅつ)が作り上げた氷の大地は半日以上過ぎてゆるやかに溶けだしていた。残る薄氷の下からは水に浸された夏草がのぞく。周辺の地面は大きくぬかるみ、雨上がりとはまた違った、雪解けの湿地のような様相になっていた。

 その上を、真っ直ぐに白い姿が駆け抜けてゆく。
 大きな巻き角を備えた白山羊だった。ぬかるむ足場にも跳ねる泥にもその脚は鈍ることがない。背中には巻き角にしがみつくように一人の人間が乗っていた。
 帽子からこぼれる黒い毛先と、短剣を腰に()いた黒い術師装束。口元は固く引き結ばれ、金色の瞳は真っ直ぐにアーシャ湖を見据えている。

招来獣(しょうらいじゅう)たちが気づいたようなのだ」
 脚を緩めることなく白山羊が告げる。アーシャ湖の方角から四つ足の獣たちの影が見えた。空を飛ぶツバサヘビの姿がないのは、昨日ゲルディークの茨が全て仕留めてしまったせいだろう。
「予定通り、あれらを全て湖上まで引きつけるのだ」
 白山羊が普段と変わらぬ抑揚でアンティに声をかける。
「追いつかれる心配はしなくていい、君は私の背から落ちないようにだけ気をつけるのだ」
 小さく顎を引いて頷いたアンティは、左手を角から離すと短剣を鞘ごと外して利き手に持ち替えた。その首からはゲルディークから預かった革の袋が揺れる。
「──お願いします、ラウエルさん!」
 白山羊が着地する瞬間、アンティは鋭く言った。

 牙を見せて迫る招来獣たちを踊るようにかわして白山羊は進む。しつこいものはアンティが短剣を振って払った。ぬかるむ大地から霜の降りる地面へ、さらには厚く凍りついた湖面へと白山羊の蹄が踏み上げてゆく。
 ひやりとした空気が全身に押し寄せた。白にまかれて視界は急激に狭くなり、周囲からは獣の唸り声が反響するように聞こえてきた。
「サリエートは?」
「まだ姿を見せていないのだ」
 白山羊は視界の悪い氷の上を他の追随を許さない軌道で駆け抜ける。追ってくる招来獣を全て引き離すと、アンティは短剣を白山羊の角に重ねて握り、空いた手で革袋から(つた)の花の種を掴んだ。
「種を撒きます、場所の記憶を!」
「心得たのだ」
 アンティが氷の上に種を落としてゆく。白山羊の背に揺れる息は弾み、顔を打つ風にその頬は紅潮していた。

 袋の中身をあらかた落とした時、水笛のような音色と共に周囲の靄が散らされた。冷えた風から目を庇ったアンティに白山羊が短く告げる。
「サリエートが現れたのだ」
 晴れた氷の上に巨大な影が踊った。その本体は青空の中からこちらを狙っている。一度サリエートを見上げた白山羊が跳ねるように身を翻した。
「……あとは、あれの放つ術次第なのだ。もう少しだけ持ちこたえるのだ」
 白山羊の言葉に、白い息を吐き出しながらアンティが大きく頷いた。
「はいっ!」
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登場人物紹介

名前 : トレンスキー・エル・デア・ルートポート

誕生日: 10月8日

誕生花: 金木犀(花言葉は謙遜、真実、陶酔)

好物 : 酒類、特に赤ワイン


 クーウェルコルトの若き女四精術師。クウェン公用語で話す時は老人口調。亡き師匠の遺品である四精術増幅装置の片割れと、表世界と裏世界をつなぐ帰還の詠を用いて招来獣を還す旅をしている。


~作者一言~

 お人好しで空回りばかりするドジっ子。なのに個性的な口調と職業のせいで、何となく格好良い人だと周囲に勘違いされているお得な主人公ですね。

名前 :アンティ・アレット

誕生日:2月23日

誕生花:ポピー(花言葉は忘却、想像力、恋の予感)

好物 :干した苺


 フィリエル領アレットで出会った記憶喪失の子ども。無垢で幼げな印象だが招来獣に相対すると攻撃的になる。身体能力が高く短剣を操るのが得意。


~作者一言~

 発展途上、可能性のかたまり。この子が自分の言葉で話して自分だけのトフカ語を操るようになった時、きっと物語は大きな転換期を迎えるような気がします。

名前 :ハヴィク・ラウエル・イル・メルイーシャ

誕生日:7月2日

誕生花:クレマチス(花言葉は精神の美、旅人の喜び、策略)

好物 :アップルパイ


 招来術の天才といわれたクウェンの招来術師シウル・フィーリス・イル・メルイーシャが創った招来獣。精巧な人型を含む七つの形態変化とクウェン語を介する能力を持つ。


~作者一言~

 パーティには語尾が個性的な子や動物系マスコットキャラクターがいた方が良いと言われてできたキャラクター。ボケとツッコミの境界にいる印象が強いです。

名前 :ゲルディーク・イアン・リレッダ

誕生日:9月18日

誕生花:アザミ(花言葉は独立、報復、人間嫌い)

好物 :ハーブティー


 カルア・マグダから来た隻眼の四精術師。カルマの学術機関を逃亡してクウェンに至った。学舎制度の下で育った四精術師を軽蔑し、招来術師や招来獣を強く嫌っている。


~作者一言~

 お花さん好き、声フェチ、被虐趣味、外見からくる劣等感と、四人の中で一番癖のあるキャラ。彼の命がけの復讐はこれから達成されるのでしょうか?

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