第36話

文字数 1,546文字

 静けさの漂う夜の空気の中、ゲルディークは部屋の扉を叩く小さな音を聞いた。
 薄く扉を開き廊下に立つ人物を確かめると、鳶色(とびいろ)の左目を細めて扉を広げる。
「……よう。すっかりいつも通りだな」
 廊下には深紅の術師装束を身につけたトレンスキーが立っていた。アンティとラウエルの姿はない。揺れる横髪を軽く耳にかけると、トレンスキーは静かな面持ちでゲルディークを見上げた。
「それじゃ、とりあえず入って座れよ」
「失礼する」
 短く言ってトレンスキーは部屋に足を踏み入れた。

 部屋は寝台と卓が置かれただけの簡素なものだった。少ない荷物は見苦しくないようまとめて部屋の隅に置かれている。窓とカーテンはぴたりと閉め切られていたが、暑すぎることのない室温は直前までしっかりと換気されていたことがうかがえた。
 人前では傍若無人に振る舞っているが、そういうところは意外と気を配ってくる。そんなことを思いながらトレンスキーは背の高い燭台(しょくだい)が置かれた卓へと寄った。
 煌々(こうこう)と点けられた灯に照らし出されているのは広げられた大陸地図である。それをのぞきながら、トレンスキーは用意された木椅子の片方へと腰を下ろした。

 ゲルディークはトレンスキーに背を向けたまま、閉めたばかりの扉に向かって低く何かを呟き続けている。
「お主、何をしておるのじゃ?」
 怪訝(けげん)そうに声をかけると、しばらくしてゲルディークが答えた。
「結界。少しだけ厳重なやつをかけとこうと思ってね」
「……本当に、用心深い男じゃのう」
 呆れた様子のトレンスキーに振り返ったゲルディークは小さく笑う。
「用心に越したことはないだろ、特に……」
 唇にそっと人差し指を立てながらゲルディークは言った。

「……これからの話は、他には聞かせたくないからさ」

 その言葉はクウェン公用語ではなかった。
 カルア・マグダで用いられるエマンダ語、その中でも首都標準語といわれる言葉だった。
 トレンスキーは眉間にわずかなしわを寄せると、ため息と共に答えた。
貴殿(きでん)の趣向に乗るのは業腹(ごうはら)だが、致し方ない」
 その言葉はゲルディークに合わせた流暢(りゅうちょう)なエマンダ語だった。
 ゲルディークはくつくつと笑いながら卓へと近づいた。
「お前さ、クウェン語だと謎の老人口調なのにカルマ(こっち)の言葉になると急にいかつい男言葉になるの、本当に面白いな」
「面白がられても困る。私は師から学んだ言葉を使っているに過ぎないぞ」
 トレンスキーはそう言って唇をとがらせる。使う言葉に似つかわしくない子どものような表情である。

 卓をはさんだ向かいの椅子に座ると、ゲルディークはトレンスキーに目を向けて言った。
「それじゃ、半月待ったがようやく本題に入らせてもらおうか」
「怪我が治るまで話そうとしなかったのは貴殿の方だが?」
「手負いの向こう見ずに話せるような話題じゃなかったんでね」
 トレンスキーはその言葉に眉を寄せたが、すぐに無言で装束のポケットを探った。二つの包みと、親指の先ほどの青い結晶を取り出して卓の上に置く。
水精石(すいせいせき)地精石(ちせいせき)のかけら、それから水精石第一晶、水の”孤高(ここう)”だ。これで足りるだろうか?」

 ゲルディークが手を伸ばした。
 青布の包みを真っ先に手に取ると、紐をゆるめてその中身をあらためる。丁寧に()()けられた水精石のかけらを鳶色の目に映すと、割れたガラスのような一粒をそっとつまみ上げて自身の舌の上に乗せた。

 見ていたトレンスキーが顔をしかめる。ゲルディークは気にすることなくそれを嚥下(えんか)して満足そうな表情を浮かべると、包みを置いて水の孤高と呼ばれた結晶の方へと目を向けた。
「……これ、この間のオオカミグマを”還した”時のやつだな」
 燭台の灯に結晶をかざせば、四精石(しせいせき)の内部に宿る煌遊(こうゆう)が規則的に瞬いているのが見える。ゲルディークは左目を軽く細めた。
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登場人物紹介

名前 : トレンスキー・エル・デア・ルートポート

誕生日: 10月8日

誕生花: 金木犀(花言葉は謙遜、真実、陶酔)

好物 : 酒類、特に赤ワイン


 クーウェルコルトの若き女四精術師。クウェン公用語で話す時は老人口調。亡き師匠の遺品である四精術増幅装置の片割れと、表世界と裏世界をつなぐ帰還の詠を用いて招来獣を還す旅をしている。


~作者一言~

 お人好しで空回りばかりするドジっ子。なのに個性的な口調と職業のせいで、何となく格好良い人だと周囲に勘違いされているお得な主人公ですね。

名前 :アンティ・アレット

誕生日:2月23日

誕生花:ポピー(花言葉は忘却、想像力、恋の予感)

好物 :干した苺


 フィリエル領アレットで出会った記憶喪失の子ども。無垢で幼げな印象だが招来獣に相対すると攻撃的になる。身体能力が高く短剣を操るのが得意。


~作者一言~

 発展途上、可能性のかたまり。この子が自分の言葉で話して自分だけのトフカ語を操るようになった時、きっと物語は大きな転換期を迎えるような気がします。

名前 :ハヴィク・ラウエル・イル・メルイーシャ

誕生日:7月2日

誕生花:クレマチス(花言葉は精神の美、旅人の喜び、策略)

好物 :アップルパイ


 招来術の天才といわれたクウェンの招来術師シウル・フィーリス・イル・メルイーシャが創った招来獣。精巧な人型を含む七つの形態変化とクウェン語を介する能力を持つ。


~作者一言~

 パーティには語尾が個性的な子や動物系マスコットキャラクターがいた方が良いと言われてできたキャラクター。ボケとツッコミの境界にいる印象が強いです。

名前 :ゲルディーク・イアン・リレッダ

誕生日:9月18日

誕生花:アザミ(花言葉は独立、報復、人間嫌い)

好物 :ハーブティー


 カルア・マグダから来た隻眼の四精術師。カルマの学術機関を逃亡してクウェンに至った。学舎制度の下で育った四精術師を軽蔑し、招来術師や招来獣を強く嫌っている。


~作者一言~

 お花さん好き、声フェチ、被虐趣味、外見からくる劣等感と、四人の中で一番癖のあるキャラ。彼の命がけの復讐はこれから達成されるのでしょうか?

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