第57話

文字数 1,119文字

 一人と一頭が湖上で立ち回りを演じる間、灰茶の外套(がいとう)を頭から被ったトレンスキーはぬかるむ地面を越えて湖の岸辺まで近づいていた。さくりと霜を踏みしめ、息をひそめながら湖をうかがう。

 白山羊が派手な動きで気を引いているおかげでこちらに目を向けるものはいない。気を落ち着けるようにトレンスキーが呼吸を整える。吐いた息が白く消えてゆくのを、薄青色の目が静かに見送った。

 不思議と、昨日まで強く感じていた身体の寒気が和らいでいるのを感じた。湖の様子が変わったようには見えない。なら原因は、自分の心の持ちようが変わったせいなのだろう。
 思えばこんなにも穏やかな気持ちで招来獣(しょうらいじゅう)の帰還に臨むのは初めてのことかもしれなかった。それも、対峙するのは”白のサリエート”だというのに、だ。
 アンティとラウエルを危険に遭わせていることに不安はある。安全圏から見ているだけの状態に申し訳なさも感じていた。
 しかし、それ以上に二人から向けられた気持ちが強く胸に沁みた。目を背け、隠し続けていた空白がほんの少しだけ埋められた心地がしたのだ。

 トレンスキーの視線がふと、鈍色(にびいろ)の篭手に握られた青の結晶に落ちる。
 アンティから手渡された時にすぐに気づいた。水精石(すいせいせき)第一晶──”孤高(ここう)”。それはイルルカの宿でゲルディークに報酬として支払ったはずの石だった。
「……お主も案外、お人好しじゃのう」

 本人に言えば絶対に嫌そうな顔をされるだろうが。苦笑したトレンスキーはそっと水精石を握りこんだ。きぃんと高い音を立てて篭手が石に呼応する。
 視線を上げたトレンスキーの唇から穏やかなトフカ語が紡ぎ出された。
『高く、広く、薄く、柔らに。今ここに、恐るるものは何もなし……』
 言葉の余韻が消える頃、水笛のような声が湖上から響き渡った。

 見れば(もや)を翼で()ぎ払い、サリエートが威嚇するように白山羊たちの前へ姿を見せたところだった。白く巨大なその姿を仰いだトレンスキーはポケットを探る。
 風精石(ふうせいせき)のかけらを詰めた緑の包み。それを”孤高”の結晶と合わせて篭手の上に乗せる。深く息を吸ったトレンスキーが中空に向けてトフカ語を唱えた。

晴天(せいてん)(くも)白糸(しらいと)()りつめて
 弦楽(げんがく)(えん)(かな)(まつ)らん
 雪解(ゆきど)けの()花咲(はなさ)かせ、
 三天の民(ウフェルティ)(あか)(つばさ)(ふる)わせる
 慈雨(じう)筝曲(そうきょく)(かな)(まつ)らん──』

 すい、とトレンスキーがアーシャ湖に向けて右腕を伸ばした。きらりと光を放って二色の四精石(しせいせき)が霧散する。その瞬間、サリエートの羽ばたきよりも大きく、しかし穏やかに渦を巻く風が篭手から放たれアーシャ湖全体に広がっていった。
 風は周囲の(もや)を引き連れて高く高く昇ってゆく。やがて湖の上空を包みこむように白みを帯びた雨雲が広がると、次々と大粒の雫が降り注いだ。
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登場人物紹介

名前 : トレンスキー・エル・デア・ルートポート

誕生日: 10月8日

誕生花: 金木犀(花言葉は謙遜、真実、陶酔)

好物 : 酒類、特に赤ワイン


 クーウェルコルトの若き女四精術師。クウェン公用語で話す時は老人口調。亡き師匠の遺品である四精術増幅装置の片割れと、表世界と裏世界をつなぐ帰還の詠を用いて招来獣を還す旅をしている。


~作者一言~

 お人好しで空回りばかりするドジっ子。なのに個性的な口調と職業のせいで、何となく格好良い人だと周囲に勘違いされているお得な主人公ですね。

名前 :アンティ・アレット

誕生日:2月23日

誕生花:ポピー(花言葉は忘却、想像力、恋の予感)

好物 :干した苺


 フィリエル領アレットで出会った記憶喪失の子ども。無垢で幼げな印象だが招来獣に相対すると攻撃的になる。身体能力が高く短剣を操るのが得意。


~作者一言~

 発展途上、可能性のかたまり。この子が自分の言葉で話して自分だけのトフカ語を操るようになった時、きっと物語は大きな転換期を迎えるような気がします。

名前 :ハヴィク・ラウエル・イル・メルイーシャ

誕生日:7月2日

誕生花:クレマチス(花言葉は精神の美、旅人の喜び、策略)

好物 :アップルパイ


 招来術の天才といわれたクウェンの招来術師シウル・フィーリス・イル・メルイーシャが創った招来獣。精巧な人型を含む七つの形態変化とクウェン語を介する能力を持つ。


~作者一言~

 パーティには語尾が個性的な子や動物系マスコットキャラクターがいた方が良いと言われてできたキャラクター。ボケとツッコミの境界にいる印象が強いです。

名前 :ゲルディーク・イアン・リレッダ

誕生日:9月18日

誕生花:アザミ(花言葉は独立、報復、人間嫌い)

好物 :ハーブティー


 カルア・マグダから来た隻眼の四精術師。カルマの学術機関を逃亡してクウェンに至った。学舎制度の下で育った四精術師を軽蔑し、招来術師や招来獣を強く嫌っている。


~作者一言~

 お花さん好き、声フェチ、被虐趣味、外見からくる劣等感と、四人の中で一番癖のあるキャラ。彼の命がけの復讐はこれから達成されるのでしょうか?

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