第26話

文字数 1,682文字

 今度こそ身動きを封じられたオオカミグマの側まで寄ると、トレンスキーは術師装束のポケットからゆっくりとガラス玉を取り出した。荒い息を飲み下すと、それを小さく真上に放る。
 地面に落ちた瞬間、静寂を命じるような鈴の音色が辺りに響き渡った。気まぐれに吹く風さえも、(こずえ)を揺らす音を止めたようだった。

『──()くも(たっと)四色(ししょく)四晶(ししょう)
 世界(せかい)(ひら)きし十六(じゅうろく)
 力秘(ちからひ)めたる深淵(しんえん)
 御座(みざ)(ましま)光王(こうおう)大前(おおまえ)
 (つつし)(たてまつ)りて(もう)さく
 地底(ちてい)(つな)がれ()(かた)もなく
 ()るう(うで)すら(とお)のく()ての
 (あい)嘆願(たんがん)()(とど)(たま)
 その門扉(もんぴ)()れる非礼(ひれい)
 (ひろ)御心(みこころ)(もと)に、(ゆる)され(たま)え──』

 深く身を委ねたくなる抑揚と音律。怪我の気配など全く感じさせない余裕のあるトフカ語が染み渡るように広がってゆく。
 茂みの側に座りこんだままそれを眺めていたアンティは、不意に強く胸元を押さえた。
「……あ、」
 驚きに見開いた金色の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 伝う涙を拭うことも忘れ、アンティは傷を負ったトレンスキーの背中を見つめた。その膝に、白鼠に姿を変えたラウエルがそっと乗る。
 ゲルディークは既にその場から離れ、乾いた地面の上に敷布と治療道具を広げているようだった。

「……ラウエルさん。

は、何ですか?」
 アンティは声につまりながら白鼠に目を落とした。
「この気持ちは、何でしょうか? とても暖かくて、安心して、懐かしいような……」
「君にも、そう感じるのだ?」
 白鼠はアンティを見上げて小さく首をかしげた。
「あれは招来獣(しょうらいじゅう)を”還す”ための(うた)なのだ」
「かえす、うた……?」
 白鼠は若草色の瞳をトレンスキーへと向ける。
「……本来であれば、四精石(しせいせき)のはたらきで半永久的に動く招来獣は、核を砕くことでしか消滅させることができない。それは死と同義なのだ」
 しかし、と白鼠は長いヒゲを揺らす。
「原理は不明なのだが、あれは何故か四精石も使わず、トフカ語だけで裏面界(あちら)とこちらを繋ぐことができるのだ。おそらくこの世界において、あれにしかできない技なのだ」
師匠(せんせい)にだけ、どうして……?」
「私も尋ねたことがあるのだが、あれは答えてくれなかったのだ」

 見つめる一人と一匹の前方で、トレンスキーが軽く両腕を広げた。
 裂けた装束と血に染まる背中。アンティの位置からでは彼女の表情まで見ることはできない。ただ普段とは異なる雰囲気と、空気の揺らぐ気配が伝わるだけだった。

『……帰りたいのだろう?』
 トレンスキーがトフカ語で語りかける。声は普段と変わらないのに、まるで別人のような語り口で。
『創られ、追われ、辛い日々を送ったことだろう。頼れる者も姿を消し、独り世界に放り出されて……』
 トレンスキーが一歩進む。細く声を上げるオオカミグマに近づくと、臆することなくその巨体に優しく触れた。
『道は拓かれた、──君は”還れる”』
 トレンスキーの抱擁(ほうよう)に、オオカミグマの姿がゆらりと溶けて消えてゆく。同時にその身体を構成していた四精石がささやかな音を立てて草の上に散らばった。

 腕を下ろしたトレンスキーがゆっくりと振り返った。
 普段とは違う光を湛えた薄青色の瞳が、アンティの膝にいた白鼠を眺める。
 トレンスキーは小さく首をかしげた。
『君はまだ、”還ら”なくても良いのかい?』
 白鼠は答えない。
 トレンスキーは鷹揚(おうよう)に頷くと、その視線を上げてやや不思議そうな顔をした。
『……君は』
 ゆるりとした歩みでトレンスキーがアンティの側まで寄る。白鼠が逃げるようにアンティの膝から離れた。

 ほつれた金の髪を揺らしながら静かに膝を折ると、トレンスキーは篭手をつけた右手で涙の跡が残るアンティの頬に触れた。
『君は、

のものだね?』
「……あなた、は。誰、ですか……?」
 目を見開いたアンティが上ずったクウェン語で問いかけると、トレンスキーはくすりと笑った。
『……君には”私”の名残がある。君を”還す”ことはできないけれど、そちらでの君の多幸を願っているよ』
 それだけ告げると、薄青色の瞳が静かに閉ざされた。

 赤い術師装束が揺れる。
 意識を失ったトレンスキーがアンティにもたれかかるように倒れ込んだ。
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登場人物紹介

名前 : トレンスキー・エル・デア・ルートポート

誕生日: 10月8日

誕生花: 金木犀(花言葉は謙遜、真実、陶酔)

好物 : 酒類、特に赤ワイン


 クーウェルコルトの若き女四精術師。クウェン公用語で話す時は老人口調。亡き師匠の遺品である四精術増幅装置の片割れと、表世界と裏世界をつなぐ帰還の詠を用いて招来獣を還す旅をしている。


~作者一言~

 お人好しで空回りばかりするドジっ子。なのに個性的な口調と職業のせいで、何となく格好良い人だと周囲に勘違いされているお得な主人公ですね。

名前 :アンティ・アレット

誕生日:2月23日

誕生花:ポピー(花言葉は忘却、想像力、恋の予感)

好物 :干した苺


 フィリエル領アレットで出会った記憶喪失の子ども。無垢で幼げな印象だが招来獣に相対すると攻撃的になる。身体能力が高く短剣を操るのが得意。


~作者一言~

 発展途上、可能性のかたまり。この子が自分の言葉で話して自分だけのトフカ語を操るようになった時、きっと物語は大きな転換期を迎えるような気がします。

名前 :ハヴィク・ラウエル・イル・メルイーシャ

誕生日:7月2日

誕生花:クレマチス(花言葉は精神の美、旅人の喜び、策略)

好物 :アップルパイ


 招来術の天才といわれたクウェンの招来術師シウル・フィーリス・イル・メルイーシャが創った招来獣。精巧な人型を含む七つの形態変化とクウェン語を介する能力を持つ。


~作者一言~

 パーティには語尾が個性的な子や動物系マスコットキャラクターがいた方が良いと言われてできたキャラクター。ボケとツッコミの境界にいる印象が強いです。

名前 :ゲルディーク・イアン・リレッダ

誕生日:9月18日

誕生花:アザミ(花言葉は独立、報復、人間嫌い)

好物 :ハーブティー


 カルア・マグダから来た隻眼の四精術師。カルマの学術機関を逃亡してクウェンに至った。学舎制度の下で育った四精術師を軽蔑し、招来術師や招来獣を強く嫌っている。


~作者一言~

 お花さん好き、声フェチ、被虐趣味、外見からくる劣等感と、四人の中で一番癖のあるキャラ。彼の命がけの復讐はこれから達成されるのでしょうか?

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