第58話

文字数 1,440文字

 暖かな風に視界が晴れたのが合図だった。
「ラウエルさん、雲が!」
 空を見上げたアンティが叫んだ。ぎりぎりまでサリエートを地上に引きつけていた白山羊がすぐに岸辺を目指して走り出す。記憶した退路を辿る背中からは、落ちる雨粒に反応して(つた)の種が次々と芽吹きだしていた。
 湖面から急に現れた蔦に、招来獣(しょうらいじゅう)たちが逃げる間もなく絡め取られてゆく。戸惑い荒ぶる声の中にはサリエートのものも混じっていた。

 降り注ぐ雨の中、白山羊は危なげなく蔦と招来獣とを避けながら湖の端にいるトレンスキーの側へ駆け寄った。
「アンティ、ラウエル!」
 トレンスキーが手を振りながら氷上へ足を踏み出した。
「大丈夫か、怪我はないか?」
 白山羊の上で大きく頷いたアンティは後方に視線を向ける。
「僕たちは平気です、師匠(せんせい)は早くサリエートを!」
「ここからは、君のなすべきことなのだ」
 二人の言葉にトレンスキーは安堵の笑みを浮かべながら頷いた。ここまで上手く事が運んだのは彼らのおかげだ。
「ああ、後は任せてくれ」

 トレンスキーは気を取り直したように表情を引きしめると湖へ向き直った。手に用意していた小さなガラス玉をそっと宙に放る。氷と触れた瞬間、ガラス玉は弾けるように砕けて澄んだ鈴の音を湖上に響き渡らせた。

『──()くも(たっと)四色(ししょく)四晶(ししょう)
 世界(せかい)(ひら)きし十六(じゅうろく)
 力秘(ちからひ)めたる深淵(しんえん)
 御座(みざ)(ましま)光王(こうおう)大前(おおまえ)
 (つつし)(たてまつ)りて(もう)さく……』

 トレンスキーが(りん)とした声でトフカ語を紡いでゆく。
 まだ全ての意味は理解できなくても、その音律はどこか胸の深いところを打つ。静かに耳を傾けながら白山羊の背を下りようとしたアンティは、しかしはっと顔を上げた。
 湖上から高い水笛の音が木霊(こだま)した。次第に弱まる雨の中、脚に絡まる蔦を振り切って巨大な白鳥が飛び去ろうとする一瞬が金の瞳に映った。

「──ラウエルさん!」
 アンティが白山羊の角を強く掴んだ。
 トレンスキーは既にトフカ語の詠唱に集中している。半眼に細められた薄青色の目に周囲の状況は映っていない。
「サリエートを追ってください、このままでは逃げられます!」
 アンティの声に打たれたように白山羊が湖面へと駆け出した。
 蔦を避けて走りながら白山羊がアンティに問いかける。
「何か策はあるのだ?」
(つた)の種はまだ少し残っています!」
 アンティの手が首から掛けた革袋に触れた。
「さっきは距離が遠かったせいで、もっとサリエートと近い位置で使えばきっと……!」
「では、後は君次第ということなのだ?」
 濡れた氷上を渡りながら白山羊は淡々と告げる。その言葉にアンティは大きく目を見開いた。

 詠唱を始めたトレンスキーは忘我状態に入っている。当然、その間は四精術(しせいじゅつ)を使うことができない。ならサリエートを捕らえるためにトフカ語を唱えて蔦の種を発芽させるのは、……彼女の弟子である自分しかいない。

「僕に、そんなこと……」
 しなければならないことに気づいたアンティの唇が震えた。怯むような声を耳元で聞いた白山羊は、氷を蹴る脚をわずかに緩めた。
「できるはずなのだ」
 静かに、淡々と、白山羊がアンティに言葉を伝える。
「あれのために、招来獣を”還す”手助けをする。そう決めて君はここまで来たのだ?」
「それは……」
「あれの側にいた君ならば、きっとできるはずなのだ。私はそう信じているのだ」
 その言葉に偽りがないことは、招来獣に共鳴する自分の心で十分に理解できた。
 アンティはぐっと歯を噛みしめる。白山羊の角を握り直すと、金色の視線を再び強くサリエートに向けた。

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登場人物紹介

名前 : トレンスキー・エル・デア・ルートポート

誕生日: 10月8日

誕生花: 金木犀(花言葉は謙遜、真実、陶酔)

好物 : 酒類、特に赤ワイン


 クーウェルコルトの若き女四精術師。クウェン公用語で話す時は老人口調。亡き師匠の遺品である四精術増幅装置の片割れと、表世界と裏世界をつなぐ帰還の詠を用いて招来獣を還す旅をしている。


~作者一言~

 お人好しで空回りばかりするドジっ子。なのに個性的な口調と職業のせいで、何となく格好良い人だと周囲に勘違いされているお得な主人公ですね。

名前 :アンティ・アレット

誕生日:2月23日

誕生花:ポピー(花言葉は忘却、想像力、恋の予感)

好物 :干した苺


 フィリエル領アレットで出会った記憶喪失の子ども。無垢で幼げな印象だが招来獣に相対すると攻撃的になる。身体能力が高く短剣を操るのが得意。


~作者一言~

 発展途上、可能性のかたまり。この子が自分の言葉で話して自分だけのトフカ語を操るようになった時、きっと物語は大きな転換期を迎えるような気がします。

名前 :ハヴィク・ラウエル・イル・メルイーシャ

誕生日:7月2日

誕生花:クレマチス(花言葉は精神の美、旅人の喜び、策略)

好物 :アップルパイ


 招来術の天才といわれたクウェンの招来術師シウル・フィーリス・イル・メルイーシャが創った招来獣。精巧な人型を含む七つの形態変化とクウェン語を介する能力を持つ。


~作者一言~

 パーティには語尾が個性的な子や動物系マスコットキャラクターがいた方が良いと言われてできたキャラクター。ボケとツッコミの境界にいる印象が強いです。

名前 :ゲルディーク・イアン・リレッダ

誕生日:9月18日

誕生花:アザミ(花言葉は独立、報復、人間嫌い)

好物 :ハーブティー


 カルア・マグダから来た隻眼の四精術師。カルマの学術機関を逃亡してクウェンに至った。学舎制度の下で育った四精術師を軽蔑し、招来術師や招来獣を強く嫌っている。


~作者一言~

 お花さん好き、声フェチ、被虐趣味、外見からくる劣等感と、四人の中で一番癖のあるキャラ。彼の命がけの復讐はこれから達成されるのでしょうか?

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