第30話

文字数 1,545文字

「生活の、足し……」
 カップを手に取ろうとしたアンティはその言葉にリタを見上げた。
「大変、なんですか?」
「そりゃあ楽じゃないわ。だって宿屋なのに、泊まってくれるお客さんが全然来なくなっちゃったんだもの。初めの一、二年なんて本当に大変だったのよ」
 顔をしかめて言ったリタは、アンティの表情を見るとすぐに安心させるような笑みを見せた。
「大丈夫よ。なんたってうちには金払いの良いお得意様がいるんだから」
「それは、師匠(せんせい)のことですか?」
「うん。最初は私の命の恩人だったけど、今はうちの宿の恩人でもあるのよね」

 アンティの向かいに座ったリタは、小さく咳払いをすると両手の指を組み合わせながらぽつりと言った。
「……ねえ、アンティ。ラウエルさんの好きな食べ物、アップルパイ以外で何か知ってる?」
「え?」
 アンティはカップに落としていた目を上げる。
「甘いものだったら何でも好き、……ってわけじゃないわよね。お料理を出した時とかいっつも反応薄いんだけど、何を出したら喜んでくれると思う?」
 (だいだい)の瞳が期待するような視線を向けている。それを受けたアンティは困ったように首をかしげて言った。
「分かりません」
「……そっかあ」
 リタはがっくりと肩を落とした。
「まあ、そうよね。アンティだってエルたちと会ったばっかりなんだもんね」

 エル、というのはトレンスキーのことである。
 アンティはイルルカに来た初めの頃、どうして師匠(せんせい)のことをエルと呼ぶのですか、とリタに尋ねたことがあった。
「だって、命の恩人のこと、あんな変な名前で呼べないじゃない」
 その時のリタは、声をひそめてアンティにそう答えたのだった。

「ラウエルさんの好きなものなら、師匠(せんせい)に聞いてみたら分かるかもしれません。聞いてみましょうか?」
「え、い、いいのいいのっ!」
 アンティが言うと、リタは慌てたように手を振った。
「ちょっと気になっただけだから。今の話、絶対にエルたちには内緒にしておいて!」
「どうしてですか?」
 アンティはきょとんとした。澄んだ金色の瞳がリタを見つめる。

 リタは困ったようにぱくぱくと口を動かすと、やがてうつむきながら小さく呟いた。
「……だって、狙ってるみたいに誤解されたら嫌だもの」
「ねらう?」
「エルとラウエルさん、恋人同士でしょ?」
 アンティは金色の目を丸くした。
「そう、なのですか?」
「だってすごく親密だし、危険な旅でもずっと一緒にいるのよ。お互いに好き合ってなかったらそんなことできないじゃない」
 早口でまくし立てるように言うと、リタは小さくため息を吐いた。
「私だって二人がお似合いなのは分かってるし。エルも大事な友達だから、そこに割り込んで邪魔をしたいわけじゃないの。……面倒な子だなって思われて、この町に二度と来てくれなくなっても嫌だし」
 だから内緒にしておいて、と固い面持ちでリタは告げる。アンティは不思議なものを見るような目でリタを眺めた。

 そこへ、噂の主であるトレンスキーが姿を現した。
「おはよう、二人とも」
 気だるげな声と共に食堂へ入ってきたトレンスキーは柔らかな萌黄色(もえぎいろ)の服を着ていた。宿に来てすぐに、リタが外出着の中から貸したものだ。トレンスキーの方が上背(うわぜい)があるので袖やスカートの丈はやや短い。いつもは結っている金の髪も下ろしたままだった。

「おはよう、エル」
 ぱっと顔を上げたリタが明るい声色でトレンスキーと挨拶を交わす。
「やだ、その顔。また夜ふかししてたんでしょ?」
「ああ、ちょっと四精石(しせいせき)()り分けと調合をしておってのう。気づいたらあっという間に夜が明けていた。……食事の準備をするならワシも手伝うぞ」
「ありがと。じゃあ、みんなでお昼の用意をしましょうか」
 リタは立ち上がると、大きく三つ編みを揺らしながら厨房(ちゅうぼう)へと向かった。
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登場人物紹介

名前 : トレンスキー・エル・デア・ルートポート

誕生日: 10月8日

誕生花: 金木犀(花言葉は謙遜、真実、陶酔)

好物 : 酒類、特に赤ワイン


 クーウェルコルトの若き女四精術師。クウェン公用語で話す時は老人口調。亡き師匠の遺品である四精術増幅装置の片割れと、表世界と裏世界をつなぐ帰還の詠を用いて招来獣を還す旅をしている。


~作者一言~

 お人好しで空回りばかりするドジっ子。なのに個性的な口調と職業のせいで、何となく格好良い人だと周囲に勘違いされているお得な主人公ですね。

名前 :アンティ・アレット

誕生日:2月23日

誕生花:ポピー(花言葉は忘却、想像力、恋の予感)

好物 :干した苺


 フィリエル領アレットで出会った記憶喪失の子ども。無垢で幼げな印象だが招来獣に相対すると攻撃的になる。身体能力が高く短剣を操るのが得意。


~作者一言~

 発展途上、可能性のかたまり。この子が自分の言葉で話して自分だけのトフカ語を操るようになった時、きっと物語は大きな転換期を迎えるような気がします。

名前 :ハヴィク・ラウエル・イル・メルイーシャ

誕生日:7月2日

誕生花:クレマチス(花言葉は精神の美、旅人の喜び、策略)

好物 :アップルパイ


 招来術の天才といわれたクウェンの招来術師シウル・フィーリス・イル・メルイーシャが創った招来獣。精巧な人型を含む七つの形態変化とクウェン語を介する能力を持つ。


~作者一言~

 パーティには語尾が個性的な子や動物系マスコットキャラクターがいた方が良いと言われてできたキャラクター。ボケとツッコミの境界にいる印象が強いです。

名前 :ゲルディーク・イアン・リレッダ

誕生日:9月18日

誕生花:アザミ(花言葉は独立、報復、人間嫌い)

好物 :ハーブティー


 カルア・マグダから来た隻眼の四精術師。カルマの学術機関を逃亡してクウェンに至った。学舎制度の下で育った四精術師を軽蔑し、招来術師や招来獣を強く嫌っている。


~作者一言~

 お花さん好き、声フェチ、被虐趣味、外見からくる劣等感と、四人の中で一番癖のあるキャラ。彼の命がけの復讐はこれから達成されるのでしょうか?

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