夜も更けた頃。昼間賑やかであったピースペースは静寂の空間と化し、暗闇に覆われていた。ただ一つ伸びる廊下も同様に灯りが消されているが、管理室から灯りが漏れており、キーボートを打つ音がかすかに響いている。そこには、黒嶺結弦葉がただ一人、暗い中光る画面を凝視していた。
彼女は魔法少女のトップである。それゆえ報告と確認の書類が絶えることなく舞い込んでくる。日中は魔法少女達と触れ合っている分、毎晩書類を片付ける作業に追われていたのだ。今夜もまた、眠気と戦いながら、その作業をこなしていた。
回りくどい報告書を打ち込み、エンターキーを力強く叩く。
仕事から一時解放された結弦葉は脱力して椅子の背もたれに大きく背中を預け、はぁと大きな吐息を吐いた。
ふと、仰いだ先にあったもう一つの画面に目をやる。この画面は、魔法少女の活動状況を確認するものであった。活動状況といっても大層なものではない。起床しているか就寝しているかを判断するものである。起きていれば赤いランプが点灯しており、寝ていればそのランプは消灯している。魔法少女は小中学生がほとんどであるため、深夜になればほぼ全て消えていた。
これを見て結弦葉は顔をしかめた。魔法少女の代表である結弦葉には、少女達全員が眠らぬ限り寝てはいけないという規範があったのである。真夜中までの作業で疲弊していながらも横になることを許されなかった結弦葉は、半分苛立ちながらまだ起きている一人の魔法少女を探し求めた。
夜更かしの犯人はすぐに特定できた。その子の名は立河みどり。中学3年生になっていた彼女は、この日、夜遅くまで勉強していたのである。
結弦葉が代表の座に就いてから早7年が経過していた。結弦葉の後輩であり親友であった黄更城エリーが魔法少女を辞めてから5年、みどりもまた、エリーが辞めた年齢である15歳を目前に控えていた。
年月経てもみどりの性格はあまり変わっておらず、背も低いままであった。銀色の髪はあまり切らずにいたため、今や腰の近くまで長くなっている。会話好きで、人見知りせずに話しかけることができるため、多くの後輩に慕われていた。
そして、みどりは中学卒業後の進路に軍隊の士官学校を志願していた。その訳は給料がもらえるからである。それと共に、たくさんの人を守りたいという想いも持っていた。今まで多くの人に支えられ、守られて生きてきた分、今度は自身が皆の盾になりたいと、そう思っていたのである。しかし、入隊試験にある学力検査の推定レベルにやや届かない学力であったため、熱心に勉強しているのであった。
結弦葉は、みどりの意思も、背伸びをした受験勉強をしていることも知っていた。そして彼女が選んだ道を責めるつもりもなかった。むしろ応援の気持ちでいっぱいだった。苛立ちの気はすっかり何処かへ消えていた。結弦葉は静かに微笑むと、明日に回そうとしていた書類に手を伸ばした。
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翌日。みどりはピースペースへやってきた。この頃は勉強ばかりしていたため、訪れるのは数週間振りであった。
すぐに後輩が駆け寄って来た。みどりという名を呼ぶ声を聞いた別の子も、遊ぶ手を止めてみどりの元へ駆けていった。みどりは突然集まった少女達に袖だの裾だのといった服を引っ張られている。最初はその勢いに驚いたものの、すぐに笑顔になった。久々に後輩達の顔が見れたこと。また自身が魔法少女であることを実感できたのだった。
甲高い声に紛れて、低い声で名前を呼ばれるのを聞いた。みどりは顔を上げて声の方を見る。正体はすぐに分かった。高い背丈にスーツを纏い、肩までかかるほど黒髪を伸ばし、少女とは似つかない雰囲気を醸し出していたその人は、眠たそうな釣り目でこちらを見ていた。
久しぶり。
珍しいことに勉強漬けの日々を送っているみたいだな。
はいっ!最近もっとやる気が上がってきたんですよ~!
そりゃあいいことだ。
勉強熱心な姿を見たら、さぞエリーも喜ぶだろうな。
なんかずいぶん前に、一度こっちに戻って来たらしいな。
なんだぁ、そうだったんだぁ。
エリー先輩、戻って来る時は言ってくれればよかったのに。
あのね、エリー先輩はね、わたしの5つ上で、とってもいい魔法少女だった人だよ。
少女は目を輝かせながらぴょんぴょんと跳ねている。その光景を見て、結弦葉は立ち去ろうとゆっくり背を向けた時だった。
みどりのマスコットであるポルックスが呼び止めた。結弦葉は振り返った。
いえ、将来のことです。
今は皆に囲まれて元気にしていますけど、やっぱり私は今後が不安で…。
はい。
本人は勉強と魔法少女を両立させたいと言っているのですが、ちゃんとやっていけるかどうか…。
今ももう無理している感じがあって、このままいったらどうなるか…。
確かに無茶している感じはある。
でも、アイツだって何もできないわけじゃあない。
自分のことは自分で管理するよ。
ポルックス、お前はあまり干渉したりせずに、ただみどりを見守っていればいいんじゃないかな?
と、渋々とみどりの傍へ戻っていった。
二人の姿を見て一瞬何かを考え込んだ結弦葉であったが、やがてその場から立ち去っていった。
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それから数日後のことである。あの日以来、みどりはピースペースを訪れていなかった。学校と自宅を行き来し、帰宅すれば他の事に脇目も振らず机の前に座っていた。
みどりは一度動き出すと止まらない性格であった。何でも並行して手際良く器用にこなすのではなく、何かを一つずつ取り組んでいくことに長けていたのである。しかしその物事の一つが心の深淵に入り込むと、他の活動が疎かになり、偏りが生じるような性質であった。
ある時、みどりのもとに"依頼"が来たとポルックスが告げた。いつもであれば勉強を中断して依頼を解決するために急いで表に出ていた。だが今日に限って、みどり自身、今ここで勉強をやめるという気になれなかった。未だかつてない集中力が彼女を支配していたのである。自宅へ帰って来てからの3~4時間、片時も机から離れずひたすらに英語の問題集を解き続けていた。とてもではないが依頼をこなしている場合ではなかった。
そんな集中力などお構い無しに、横からポルックスが声をかけた。
みどりは問題集から目を離さず、英文を書きながら答えた。
忙しいって…。
今までお勉強中でも依頼やってきたじゃないですか。
うるさいなぁ。
いいじゃない一回くらい休んだって。
明日からちゃんと依頼もやるからさ。
と言って、彼女が手を止めることはなかった。
ポルックスはもどかしい思いがしたが、何も言えずに勉強している姿をただ見ていた。
みどりは過去にまだ一度も依頼を流したことはなかった。どんな時でも、どんな場所にいても、絶対に依頼人のもとへ走っていた。その時間は、結弦葉をはじめ、エリーや後輩の魔法少女との繋がりを感じられたからだ。自分が魔法少女としても役目を果たしている時が、何よりの喜びだったからだ。
一連の出来事は、みどりの魔法少女としての生活の優先順位が変わった瞬間であった。仲間と相和す喜悦より、自分自身の将来を懸念するようになったのである。勉強に楽しみを見い出し始めた半面、未来への不安と焦燥に駆られ、従来の生活と両立することができなくなっていた。
ポルックスもみどりの心情を察することができなかったわけではない。むしろ彼女の健康を心配することから始まった発言であった。今回におけるみどりの身体的及び精神的な状態が異常であったことは分かっていた。
というより、理解したつもりになってしまっていたと言うのが正しいだろう。ポルックスはみどりが幼い頃からずっと監査役として傍に居る。だからこそ自分は彼女の一番の理解者であり、彼女への配慮に全うせねばならないという、使命感とも責任感とも云えるものを持っていたのである。
この感情が起因して頭の中を曇りがけていた。みどりを見れば、勉学に勤しむことを望んでいるのだから、大いにそれを尊重してやりたい。一方で彼女の健康と安全を加えて考えるならば、休憩もかねて魔法少女としての活動に行って欲しいという思いがあった。
みどりの手が止まり、ペンをくるくると回しながら考え込む。その傍ら、ポルックスも同様に自家撞着のジレンマにやられ、部屋中をぐるぐると動き回っていた。
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その日の夜、管理室で結弦葉はたった一つ光る赤いランプをじっと見ていた。みどりの就寝時間に合わせて仕事を進めていたところ、前々から溜まっていた業務が次々に減っていった。最近は結弦葉の仕事よりもみどりの勉強の方が長引いている。
座っている椅子の後ろから、彼女のマスコットであるシャウラが声をかけた。
うむ。
だがまぁ、私としてはポルックスの方が心配だ。
さぞかし不安に思っているだろう。
だろうな。
この前もみどりの将来について相談された。
…あまり良い助言は言えなかったがな。
…それにしても、マスコットである我々が人間に対して情を持ってしまうとは。
なんということだ。
シャウラは黙ってしまった。
間もなくして光っていたランプが消灯した。
…どうやら、みどりは机の上で寝てしまったようだな。
シャウラは遠視能力を使って現場を見ていた。マスコットと魔法少女は、遠視能力を使うことによって、意識した人や物を観察することができる。特殊な方法を用いれば、その生物の視点も共有できる。
結弦葉はゆっくりと腰を上げると、靴音を鳴らしながら管理室から出ていった。
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先日の発言を裏切るような形で、あの日以降みどりは自分のもとへ来る依頼を怠っていた。依頼がある度に、今はキリが良くないからだとか、時間を計って解いているだとか、これが終わったらだとか、様々な言い訳を作っては、戸を開けることなく勉強し続けていた。
そんな彼女の態度をありありと見ても言及せずにいたポルックスであったが、遂に痺れを切らして、
みどりさん!
依頼が来ていますよ!
もう何回休むのですか!
ポルックスの叱咤を聞き流すかのようにみどりは返事した。
しょうがなくありません!
いくら勉強が忙しくても、依頼のお仕事を休む理由にはならないんですよ!
みどりはシャープペンシルを持ったままバンと机を叩くと、
今だけ忙しいからできないって言ってるでしょ!
もうすぐ試験なの!
それが終わったらやるって!
みどりさん言ってたじゃないですか!
魔法少女と両立してやっていくって。
今はそれが出来ているんですか!?
じゃあポルックスだって、ずっと勉強しろ勉強しろって言ってたじゃない!
あんなにうるさく言ってたのに、なんでわたしが大事な時には勉強させてくれないの!?
…でも、今魔法少女のお仕事が出来ないんじゃあ、きっと中学校を卒業してからも出来ませんよ!
だからやるって言ったじゃん!!
ちょっとは信頼してよ!
ずっと一緒にいたのに、なんでわたしのこと信じてくれないの!?
ポルックスは黙ってしまった。それは一番聞きたくない言葉だった。
構わずにみどりが畳みかける。
もうどっか行って!
信頼してくれないポルックスなんか大嫌い!!
またもや聞きたくない言葉であった。ポルックスは物悲しげに背を向けて、ゆっくりとみどりから離れていった。扉の前まで来ると、すうっとその姿を消した。
ポルックスが消えていくのを見終えると、みどりははぁと一息ついて、再びシャープペンシルを動かし始めた。
孤独になったポルックスは、外で先程の言動を反省した。結弦葉に言われた通り、黙って見守っていればよかったと。みどりに対し、知らないうちに口煩く言ってしまった。まるで自分の事のように、彼女のことで不安になってしまうのである。先代に監査した魔法少女にも、そしてみどりとの今までの期間でも生まれる事の無かった感情だった。しかし、行き過ぎた心配は、かえって余計なお世話になってしまうのであった。
家の中にいるみどりは勉強に集中できなくなっていた。言葉にできない何かが思考を遮り、頭の中を曇らせていた。少し休憩しようと、ペンを置き、ベッドに倒れ込んだ。
…初めてポルックスと喧嘩した。それも大喧嘩だった。魔法少女になってからの8年間、ただの一度も口論に発展したことなどなかった。
自分にとって一番の理解者だと思っていた。だから今回のことも分かってくれると期待していた。そしてこれからも、いつどんな行動を取っても、どんなに人に否定されたとしても、ポルックスだけは自分を認め、肯定してくれる存在であると、勝手に思い込んでいた。
右腕で目を覆い隠す。知らず知らずのうちにポルックスに依存していた。自分の行動はポルックスからの共感と承認に依拠していた。マスコットだけじゃない。今思えば、いつも誰かに頼りきりだった。一人では横着してばかりで何も出来ずにいた。
いつまで自分はこんな自分でいるのだろう。中学を卒業したら、社会人になったら、きっと今以上に一人で考え、一人で行動することが増えてくる。そうなっても、今の自分自身のように、ポルックスにすがるのだろうか。
暗闇の中で自分を顧みたみどりは、小さくボソッと呟いた。
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それから一週間が経った。
夜中、管理室で結弦葉は、マスコット達の活動記録書が映る画面をぼーっと眺めていた。仕事が増えすぎてやる気というやる気が消え失せている。そして頭の中は別のことでいっぱいだった。
先日、みどりと喧嘩したことをポルックスから聞いた。その声にはいつもの明るさが無く、相当参っている様子が感じ取れた。
そうしてみどりに言われたことを愚直に受け止め、距離を置いてしまっている。仕方がないのでみどりには代わりのマスコットが監視していた。
マスコットの代替なんて前例の無いことであったため、これといった制度が整っていない。それゆえ、みどりのもとに依頼があっても、連絡はポルックスの方に来ていた。しかし当の本人は別行動を取っているせいで必然的に依頼は消滅している。これが厄介なことになっていた。魔法少女とマスコットが揃いも揃って仕事を放棄するとは何事であるかと、上層部からのうるさい状況確認の連絡が後を絶たないのである。この先一体どうなることやらと、結弦葉は頭を抱えていた。
すると、お前を呼んでいる奴がいると、シャウラから聞いた。結弦葉は変身能力を使ってラフな部屋着の上からスーツをまとい、ピースペースへ向かった。
薄暗いピースペースには、みどりが一人ポツリと立っていた。
実はわたし、ポルックスと喧嘩しちゃって…。
それで、どっか行っちゃえって言っちゃったんです…。
うん、ポルックスのヤツから聞いてるよ。
色々あったんだってな。
みどりは消えそうな返事をした。
その後、一呼吸置いてふーと息を吐いた。
わたしは中学校を卒業したら士官学校に行きます。軍隊に入ります。
だから、もう誰かに頼ってばかりじゃダメなんです。
もうわたしは大人にならないといけないんです。
みどりの瞳が潤い始める。結弦葉はその瞳をじっと見つめていた。
魔法少女のお仕事は楽しいです。
最近はサボってばかりだけど、それでもたくさんの人の役に立てるのは嬉しいし、魔法少女のみんなに会えるし、ポイントでお菓子もいっぱい食べられるし…
とにかく、大好きなんです。
でも、そしたらわたしはずっとポルックスに頼りきりになってしまう。
これからは、一人で考えて、一人で行動しないといけない。
だから、わたしはポルックスから卒業しないといけないんです。
みどりは震える手に力を入れて、ぎゅっと拳を握った。
ゆづ先輩やみんなに会えなくなるのは淋しいけど、これが、大人への第一歩だと思うから。
辺り一帯が静寂に包まれる。みどりは必死に結弦葉を見上げていた。結弦葉もまた、みどりの火照った顔を見つめていた。
しばらくすると、結弦葉は膝を屈めて、みどりと目線を合わせた。
真剣な眼差しをみどりに向ける。それに応対するように、みどりも真面目な表情となった。
もちろんです。
ちょうど来月、12月15日の夜中0時、わたしは普通の人間に戻ります。
それを聞いて、結弦葉は真剣な目を緩め、いつも以上に優しい顔を見せて、わかったと言った。
魔法少女を辞めても、そこで出会い、培った人との付き合いは記憶から消えない。
ここにいることはできなくなるけど、まぁ、私や後輩のことは忘れないよ。
そして、マスコットとの記憶は一切消えてしまう。
名前も、姿形も、そして過ごした時間のことも。
では、わたし、これから勉強しないといけないので!
ゆづ先輩、おやすみなさーい。
と、手を振って立ち去っていった。感情や表情がすぐに変わり、開き直りが速い性格は、魔法少女になった8年前から何ら変わっていなかった。
結弦葉はみどりが立ち去った先をじっと眺めていた。ついにみどりもいなくなってしまうのか。魔法少女であり続けたいと聞いてから、永遠にこの時が来ないことを密かに期待していた。それとは裏腹に現実ではやって来てしまった。みどりは少女のままでいることではなく、大人になることを選んだのである。それは決して悲愴な選択ではない。むしろ悦ばしいことだ。だがあまりにも唐突すぎた。嗚呼、またこれだ。エリーの時と同じような喪失感が込み上げてきた。
しかし結弦葉が哀愁に浸ることができる時間はごく僅かしかなかった。ふぅとゆっくり息を吐くと、
と、振り向かず、背後の気配に話しかけた。暗闇からポルックスがすっと現れた。
聞いてただろ?今の。
アイツはお前のことなんて全く恨んじゃあいない。
むしろ自分に非があると思ってる。
これは人間の話だけど、親の愛情ってェのは、良い方向も悪い方向も全部子供伝わっちまうものなんだ。
お前の気持ちも、ちゃんとアイツに伝わっているだろうよ。
そのうえで、自分が過保護な環境にいると思い、自分で自分の道を決めたんだ。
魔法少女とマスコットは監視される側とする側の関係。
お前らみたく親子みたいになるのは聞いたことがないね。
ポルックスは呼び止めようとしたが、名前を言い終えるより先に、結弦葉の言葉が重なった。
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己の決意を露わにした後も、みどりの生活に変化はなく、黙々と勉強を続けていた。魔法少女を辞めるという事については、結弦葉以外の人間には誰にも伝えていなかった。皆を悲しませたくない、心配させたくないという思いから、敢えて彼女は孤独を選んだのである。
しかしその思いと打って変わって、一部の魔法少女の間ではひっそりと噂になっていた。ここ数日、誰一人としてみどりの姿を見た者はいなかったのである。心配させたくないからとひた隠しにした思いが、却って周囲の人の不安感を生み出していた。
そして、今日もピースペースでは、誰かがその話題を持ち出していた。3~4人の女の子達が、円になって会話を続けている。
輪の中には一人寡黙な子もいた。その子はどぎまぎしながら、
と、弱々しい声で返答した。すると別の子も反応する。
街の中でも見かけてないよ。
うち、前まではスーパーでよくみどりさんと会ってたのに。
そうしてみんな黙り込んでしまった。
みどりと出会うことを楽しみにしている者は少なくなかった。来る日も来る日もピースペースに来ては待っている人もいた。しかしその望みが叶わぬまま、日数だけが過ぎていった。
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時間はあっという間に流れ、12月13日、最終日の前日を迎えていた。
みどりは朝早くから起きて数学の問題を解いていた。シャープペンシルを持つ手は2時間近く止まらずに動いていた。
やがて数題解き終えると、ペンを置いて、ふぅと休憩する。最後に解いた関数の問題だった。随分と前にエリーが教えてくれた問題にそっくりであった。当時小学2年生のみどりは関数どころか割り算も曖昧であっただろうに、教わったこの問題だけはすんなりと覚え、今でも忘れずにいたのである。
みどりは背もたれに寄りかかって白い天井を仰いだ。明日が過ぎる時には、自分はもう魔法少女ではなくなっている。その実感が全く湧かなかった。
そう思うと、ゆっくりと目を閉じた。みどりの心にはいつもエリーがいた。憧れの存在であったエリーと結弦葉の背中をずっと見続けていた。エリーは温かかった。褒める時も叱る時も長い説教をする時も、どんな時にもそこには温もりがあったのである。結弦葉は輝いていた。機嫌が良い時もそうでない時も、彼女の雰囲気は明るかった。
二人とも大人だった。わたしもあんな大人になりたいと思っていた。でも二人のようにはなれなかった。いくつ年を重ねても、自分は子供だった。
みどりはため息に近い吐息をすると、立ち上がって表へ出た。
みどりは当てもなく街を歩きだした。都心であるためか、午前中から人通りが多かった。あまり人人混みに紛れる気分ではなかったみどりは、大通りを離れて路地へ向かった。
オフィスビルが並ぶ道の途中、みどりは一度足を止めた。そしてある建物の方へ体を向けた。視線の先には、豪勢な門と、その奥の煌びやかな建物があった。エリーの旧家であり、自分の旧家である。空き家となっている今、手入れの行き届いていた門には銅色の錆が付き、絢爛な灯りは一つも光っていなかった。薄暗く狭い空にビル風が吹く。都心の一等地の邸宅なんて誰もが買い住めるような代物ではないのだから仕方のないことではあるが、それでもその風は冷たく鋭かった。
もうここを離れて5年が経っている。だが長い年月が過ぎているとは思えなかった。エリーとの暮らしは昨日のことのように覚えている。そして今でも彼女の声を思い出す。あの、明るく上品で、温かみのある声を。
みどりはハッとして振り返った。しかしそこには誰もおらず、向かいのビルの自動ドアには自分の姿が映るだけであった。慕わしさのあまり空耳が聞こえた場面が、このドアに見られていたと思うと、急に恥ずかしく感じた。
はぁと息をつく。息は真っ白になって目の前に現れ、そして間断なくどこかへ消えていった。この白い息のように、美しいものは一瞬で消えてしまうのだ。後に残るのは追憶と郷愁のみ。立ち止まり体に冷えを感じたみどりは、またゆっくりと歩き出した。
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結局満員電車に乗って疲れる思いをした。その後は乗り換えを繰り返し、荒涼駅へと辿り着いた。結弦葉の故郷である。電車で片道4時間、先ほどまでのビルが立ち並ぶ景色とは一変して、ここでは山がそびえ、澄んだ川が流れていた。
駅を出て真っ直ぐ歩く。大きな丁字路を右折して、あとは道なりに進んでいくと、目の前には田畑が広がっていた。刈り入れを終えた田地は地面だけが延々と続き、奥に見える山々も裸木の群れとなっていた。道沿いにポツリポツリと住宅があり、そこの一つが結弦葉の実家だった。見渡しても人の気配はなく、雲の無いコバルトブルーの空の下に、みどりは一人立っていた。
一人の老人が近づいてきた。結弦葉の隣に住んでいる爺さんだった。結弦葉がまだここにいる時は、何度も何度も田んぼに落ちて迷惑をかけていたようだ。その正体はマスコット達の初代代表である。7年前にその座を結弦葉に渡し、以来は隠居の身となっていた。
みどりは軽く会釈をした。じいさんは相変わらず田んぼの端を沿うようにして歩いてきた。
それから二人は近くにあったベンチに腰を下ろした。爺さんは空を眺め、一呼吸置くと、
あやつらはな、見ての通り無表情、おまけに棒読み。
つまりは人間でいうところの感情がほとんど無いんじゃよ。
みどりはポカンとした。自分の知っているマスコットの姿とは程遠いと感じたのだ。
合理性と効率性を限りなく追求した星のもとで生まれたから、仕方のないことなんじゃがな。
そう、君らは特別なんじゃ。
黒嶺結弦葉、黄更城エリー、そしてお主、みどりちゃん。
マスコットがあんなに心を開くなんて非常に珍しいことじゃよ。
他のマスコットなんて、以来が来た時と、イエスとノーの返答しかしない奴ばっかりじゃ。
人間との親密的な会話は非効率とか言ってな。
そんな中、君達と一緒にいたマスコットの、シャウラ、リゲル、ポルックスは、随分と人間と仲良くやっておる。
特にポルックスな。すっかり地球の感覚に染まってしまったわい。
マスコットの機械的な対応はゆづちゃんも問題視しておった。
これからももっと表面化してくるじゃろう。
その時、ポルックスはお手本のような存在になるじゃろうな。
みどりはポルックスの自分への振る舞いを思い出していた。
誰も言わんから皆を代表して言おう。
マスコットを好きになってくれて、本当にありがとう。
お前さんのおかげで、わし等はまた先へ進める。
向かい風を全身で受けながら、みどりは急にポルックスに会いたくなった。特に話したいことは無かったのだが、ただただ、目の前に居てくれることをことを望んだ。
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翌日、12月14日。ついに最終日となった。
この日もみどりは変わらず勉強をしていた。ただ、今日は何故か時間の流れに違和感があった。いつもは矢の如く過ぎ去る一日が、一秒々々を丁寧に咀嚼して味わうようにゆっくりであった。午後になってもその感覚は残っていた。
勉強の最中、みどりはふと後輩や皆のことを思い出していた。
何も言わずに去ることを許してほしい。恐れていたのだ。エリーの時のように総出になって盛大に祝福してくれるなんてことが無かったら、わたしはきっとあなた達のことを嫌いになってしまう。だから何も言わなくていい。その代わり、わたしも何も言わず、姿も現さず、独りでひっそりといなくなろうじゃないか。それからは…、多分皆の先生が上手に言ってくれる。
決して皆に感謝していないわけじゃあないんだ。本当は言いたい。一人々々、思い切り抱きしめながら、ありがとうって何度も言いたい。
でも…、言えなかった。皆に好きだと言うことよりも、皆のことを嫌いになるのが怖かった。
ノートに残る筆跡が濃くなったり薄くなったり、またある時は殴り書きになったりと、落ち着きを取り戻せなくなっていた。目頭から熱いものが込み上げてくる。みどりはそれを必死に我慢した。しかし我慢すればするほど、皆の顔が浮かび上がってきた。視界が段々とぼやけてくる。シャープペンシルをぎゅっと握り、嗚咽が漏れないようにもう片方の手で口を押えた。
ノートに一粒の水滴が落ちた。それから2滴、3滴と落ちていき、see you tomorrowの文字が段々と滲んでいく。紙の上に零れ落ちないように頭を伏せた。
涙を耐え忍ぶ中、かすれた声で自分の思いを口にした。
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23時。あと1時間で、みどりにかけられた魔法は解け、普通の人間へと戻る。
彼女は早々に勉強を終わらせ、ピースペースを訪れた。当然だがそこには誰もおらず、静寂な空間が広がっていた。耳を澄ませると、キーボードを叩く音が微かに聞こえてくる。音の発生源は分かっていた。みどりはおもむろに歩き出した。
辿り着いた先は管理室である。そこでは結弦葉が部屋着の状態で作業をしていた。みどりは結弦葉が作業をしている姿をじっと見ていた。ずっと羨望し、追いかけ続けた背中だ。そしてその背中を見るのも最後だった。
みどりはすぅと息を吸うと、
と呼びかけた。結弦葉は一瞬ビクッとして肩を上げた。
あ、あのっ!
長い間、お世話になりました!
ありがとうございました!
深々と頭を下げた。
結弦葉はみどりに言いたいことが山ほどあった。残り1時間ではとても足りないくらい、話したいことがあった。一体何から言えば分からなくなり、混乱したため、
という言葉に収斂された。
だが次の発言は決まっていた。
お礼を言う奴が、私以外にもう一人いるんじゃないか?
疑問で返したみどりだったが、それが一体誰を指しているのかは自覚していた。
私は監督官だ。お前たち魔法少女を守ることが何よりの役目となっている。
でも、いつもお前の傍にいることはできなかった。
組織全体を見なければいけなかったからな。
…それに、安堵していたんだ。
お前には、私以外守ってくれる奴がいたおかげで。
アイツはな、ああ見えて自分から話を切り出すのは、結構気後れするタイプなんだと思うぜ?
出会った時から今日に至るまで、アイツはずっとお前を気にかけていた。
喧嘩して離れてからも、影で見守っていたよ。
悪いことを言ってしまったと、ずっと反省していたしな。
…行くなら早くしな。
私は待っても、時間は待ってくれないぞ。
みどりはぎゅっと拳を握ると、勢いよく廊下を走りだした。
走り出すと共に、みどりの脳裏には無数の思い出がよみがえってきた。
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8年前、両親を事故で亡くし、孤児であったみどりに、1通の手紙が届いたことが始まりだった。
まほう…しょうじょ…?
よくわかんないけど、ちょっとはお金もらえるかも!
こんにちは!私はポルックス!
今日からあなたのお手伝いをいたしますね!
その翌月、みどりはエリーによって街を追い出されてしまう。しかし不思議なことにその後エリーのもとに住むこととなった。
間もなくして、憧れの学校にも行くことができるようになった。
ポルックス、聞いた!?
学校だよ学校!
楽しいことがいっぱいありそう!
結弦葉、エリーと過ごす時間はあっという間だった。
気が付いたら3年の歳月が経っており、エリーが海外の地へ渡った。
居なくなって間もない頃は、エリーからの初めてのプレゼントである赤いランドセルを抱え、泣いてばかりだった。
悲しみの中でいつも慰みを与えてくれたのは、いつもポルックスだった。
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そうだ、この8年間、ずっと支えられ、共に歩んできた仲間なのだ。その繋がりは誰よりも強く、固いものだった。たった一度の喧嘩程度で破滅するものではなかったのである。
ピースペースに戻ると、そこにはポルックスがふわふわと浮遊していた。みどりは近づいて、切らした息を整えると、勢いよく頭を下げた。
ごめんなさい!
わたし、気づかなかった。
ポルックスはいつもわたしのことを見守ってくれていたのに、支えてくれていたのに…。
己に非があると思っていたポルックスはかえって狼狽した。
い、いいんですよ!
私の方こそ、少し心配症になりすぎちゃって、言い過ぎたところはありましたし…。
いいの…、謝らなくていいの…!
わたしは、あなたがいなかったら何もできなかったから。
わたしはあなたのことを絶対に忘れない!
魔法少女を辞めるとマスコットの記憶は無くなるっていうけど、わたしは絶対に絶対に忘れないよ!
どんな時でも、いつでも傍にいてくれたことが、とっても安心できたの。
だから、今度はわたしがポルックスを安心させたいの。
証明させたいの。
これからは一人でもやっていけるって。
あなたがいなくても大丈夫だって。
わたしはもう子供じゃない、大人なんだって。
両手で顔を覆い、崩れるようにしてその場に座り込んでしまった。
やっぱりいやだよぉ。ずっと一緒にいようよぉ。
これからもそばにいてよぉ…。
みどりは大声で泣き始める。これまでにないほど感傷的になったポルックスは、意図せずしてみどりの目の前まで近づいていった。みどりはポルックスを強く抱きしめると、より一層大粒の涙を流した。彼女の泣き声は広場中に響いていた。
時計の長針が12を指した。約束の0時がやって来たのだった。みどりはまるで充電が切れた機械であるかのように、ピタリと泣き止み、ポルックスをすり抜け、倒れ込んで意識を失った。
間もなくして結弦葉がやって来た。みどりの状態を確認すると、両手でみどりの赤くなった頬に触れ、目を瞑った。結弦葉の手の甲に魔法陣が浮かび上がる。魔法少女の記憶を改ざんする魔法だ。結弦葉は一瞬躊躇った。この魔法を使えば、みどりにあるマスコットの記憶は一切なくなってしまう。ポルックスのことも、そしてその思い出も、全て忘却の彼方へ消え去ってしまうのだ。
腕に力が入り、歯を食いしばる。そうして、身が引き裂かれる思いで魔法を発動させた。立河みどりは魔法少女としての能力と、その記憶を完全に失ったのである。
結弦葉は目を開けると、ゆっくりと両手を離した。それからみどりを抱え上げて、ピースペースをあとにした。
結弦葉はみどりの部屋に入り、みどりをベッドの上に寝かせた。彼女の頬と鼻の先はまだ赤く、目の周りには涙の跡が残っている。流麗な銀色の長髪からするりと手を離した。
ふと横に目をやると、枕元には1枚の写真が立てられていた。思わず手に取って写真を見る。そこには、エリーと、みどりと、結弦葉が写っていた。みどりの誕生日の時に撮ったものだった。結弦葉は写真をぼうっと見つめた。結弦葉の瞳から自然と一滴の涙が零れ、写真立ての端に落ちた。前髪をかき上げ、唇をかんで、嗚咽を我慢した。脳裏ではそこに写る2人を思い返していた。5年前にエリーが旅立ち、そして今夜、みどりもいなくなってしまった。魔法少女として集まった彼女たちに、もうその言葉は通用しないのである。
写真を枕元に戻すと、眠っているみどりに背を向けて、目を覆い、顔を上げた。
そう呟くと、ポルックスを連れて、結弦葉は闇の中へ消えていった。
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桜の花びらが宙を舞う3月。柔らかい日差しと余寒がある中で、みどりは中学校を卒業した。第一志望であった士官学校には見事合格し、過酷で理想の日々がすぐそこまで来ていた。
卒業式の前日、みどりは大胆に髪を切った。腰の近くまで伸ばしていた鮮やかな銀髪を、ばっさりと、うなじが見えるほどのショートヘアにしたのである。
卒業式の当日は勿論同級生から驚きの声が上がった。
クラスメイトの声に、みどりはにっこりと笑顔で返した。
ううん、違うよ。
中学を卒業する時に短くするって、前から決めてたんだ。
思わずみどりはえへへと照れ笑いすると、短くなった自分の髪を軽く撫でた。