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文字数 3,454文字

 翌日の昼過ぎ、朝香たちは有野修司(ありのしゅうじ)が入院している病院を訪ねた。
 事前に連絡を入れておいたお陰か、スムーズに案内してもらえた。
 朝香は先導してくれる看護師に声をかける。
「有野修司さんはどんな方ですか?」
「あまり感情を露わにはされない方ですね」
「怒りっぽいですか?」
「いえ。寝ている時以外はお一人で映画をご覧になってますよ。集団生活はあまり肌に馴染まないようで……」
「喋ったりは?」
「ほとんど喋られませんね。――こちらです」
 看護師は部屋の扉を開ける。個室だ。
 部屋のそこかしこでビデオテープが何本も積み上げられていた。
 朝香たちが部屋に入った時もちょうど白黒の映画を鑑賞している所だった。
 物音に、有野修司が振り返る。どんよりとした眼差しだった。
 健一郎と比べると、二回りは上に見えるくらい老けてしまっている。とても五十代間近には見えなかった。
 男性従業員が腰を屈め、修司の目を見る。
「有野さん。警察の方ですよ。少しお話しがしたいそうです。何かあれば声をかけて下さい。外にいますので」
 朝香たちは頭を下げる。
「ありがとうございます」
 看護師は、部屋を出て行く。
 朝香は尋ねる。
「それ、何の映画ですか?」
 白黒の画像には、『ROSEBUD』と書かれたソリが映っている。
 しかし修司は答えず、テレビに向き直ろうとする。
 徹がわざとらしい咳払いをするが、無関心。
 徹は構わず尋ねる。
「有野さん。辻美喜子という女性を覚えていらっしゃいますか?」
 無反応。
 徹は肩をすくめた。
「ダメだな」
 朝香は、唇を尖らせる。
「諦めるのが早いですって」
「ボケちまって、何も覚えてないんだな」
「言葉がダメでも映像があります」
 朝香は持参したノートパソコンをローテーブルに置き、朝香は辻美喜子の映像を再生する。
 すると、さっきまで生気の無かった修司の眼差しに変化が。
 椅子から腰が浮かせたかと思うと、パソコンの中でクルクルと回る可憐な女性を食い入るように見つめる。
 雪の舞い散る中、警戒にステップを踏む美喜子は、雪の妖精のように無邪気だった。
 朝香はそっと尋ねる。
「この女の人を知ってますか?」
 修司がそっと右腕を伸ばし、画面に触れる。まるで彼には真紀がそこにいて、その肌に触れるかのようにおっかなびっくりした感じだった。
 と、修司の潤んだ右目から頬をつっと涙がこぼれ、指先が小刻みに震え、かさかさの唇が開かれる。
「……美喜子、さん」
 その声は、ひどく嗄れていた。
「そうです。辻美喜子さんです」
 修司が瞬きすると、睫毛に涙の雫がつく。
「約束……」
「約束?」
「守る……あなたを、守る……そう、言ったのに……」
 修司は語っていた。しかし朝香や徹にではない。
 画面の中の女性に向けて言ったのだ。
「……守る?」
 朝香がそう独りごちた次の瞬間、眩映に襲われた。

 青年の顔があった。若かりし頃……大学生の修司だ。
 真剣な顔に、朝香――美喜子は胸の高鳴りを覚えていた。
(ここは……どこ?)
 それは年季の入った部屋の一室。
 畳は日に焼け、窓は汚れている。がらんとした室内には、家具はない。
 修司は言う。
 ――あなたを守ります。美喜子さん。今はこんな場所しか用意できませんが……。
 ――しゅ、修司さん。こんなことをしてもらうなんて。私はあなたに何のお返しも出来ないのに……。
 ――僕のことは気にしないで下さい。これは僕が勝手にやっていることですから。ひとまず落ち着くまで、こちらで娘さんと一緒に生活を……。
 ――修司さん……。
 真紀は確かに修司に想いを寄せていた。
 ――あなたの旦那様は度が過ぎています。あなたの綺麗な顔に、痣をつけるなんて……。
 修司の手が、美喜子の青紫色に腫れた右頬に、触れる。かすかな痛みが走った。
 それでもその手をずっと感じていたい、愛おしい気持ちの方が美喜子の胸の内で、膨らんでいく。
 修司は美喜子の夫、秀康の暴力に気付いて、美喜子母子の保護を名乗り出たようだった。
 修司ははっとして、手を引っ込めた。
 ――あ、すいませんっ。
 ――いいえ……。
 美喜子は微笑むと、修司も照れくさそうに口元を緩める。
 ――娘さんには僕のことは?
 美喜子は目を伏せた。
 ――まだ……です。
 ――中学生でしたっけ? 難しい年頃ですよね。分かります。俺もそうでしたから。無闇に親に逆らったり……。
 ――真紀も修司さんの優しさを、喜んでくれるはずです。
 ――俺のことは話さない方が良いと思います。
 そこで眩映が終わる。

 光の明滅が途切れれば、朝香の意識は“今”に戻ってくる。
 修司と目が合えば、彼の手が、朝香の右頬に触れていた。
 眩映の中で、美喜子にするかのように……。
 徹は間に割って入った方が良いのかどうか、判断がつかないまま戸惑ったように見守ってくれている。
 朝香は修司に言う。
「修司さん。真紀さんの為に国分寺にアパートを借りたんですね。国分寺に。……いつでも様子を見に行けるように」
 修司の涙は止まらないまま、口を開く。
「……美喜子さん……ごめんなさい……私が、勘違いさせてしまったから……」
 修司は、まるであの頃に戻ったかのようだった。
 その言葉に、朝香の胸の奥が痛んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 朝香は眉を顰めた。
「修司さん、何を謝っているんですか」
 しかし修司は説明しないまま、まるで子どものように嗚咽を上げて泣きじゃくってしまう。
 その声を聞きつけ、看護師が部屋に飛び込んでくる。
「何をされたんですかっ!?
「い、いえ、私は何も……」
「それじゅあ、どうしてこんなことになるんですか!」
 そこに徹が割って入る。
「おい、待て。うちの仲間が有野さんに、酷いことをしたと本気で言ってるのかっ。えっ!」
 徹に凄まれた看護師は「そ、そうは言ってませんが」と口ごもった。
 その間も修司は「美喜子さんっ……」と子どものように声をしゃくりあげ続ける。
 それ以上の聞き込みは無理と諦めざるを得なかった。
 
 病院を出ると、徹は苛立ったように舌打ちをする。
「ったく。邪魔しやがって……」
 朝香は礼を述べる。
「吉良さん、庇ってくれてありがとうございました」
 徹はじろりと朝香を見た。
「庇ってない。事実だろ」
「……そうですが」
「で、何が見えた?」
 朝香は、改めて徹に自分が見たものを伝えた。
 徹は腕を組んだ。
「――そういうことか。お前は気付かなかっただろうが、あのままキスでもするんじゃないかって実はハラハラしてたんだ」
「そ、それは大袈裟じゃ……」
「傍からはそう見えたんだよ。――話は戻すが、修司の力を借りて被害者は娘共々避難するつもりだったのか」
 朝香は修司のやりとりを思い出しながら、気になることを言う。
「修司さんは何を謝っていたんでしょうか」
「余計なことをしちまったって自責の念があるんだろうな」
「余計?」
「有野修司は恋心もあいまって辻母子を助けようとした。しかしそうしたが為に、クソ野郎を怒らせて最悪の事態を招いた。妻の裏切りに夫が気付いて……容疑者死亡ってのは胸くそ悪いが、この部署じゃ珍しくはないな」
「……本当にそうなんでしょうか」
「だったら他に誰がいる? 有野本人ってのはありえないぞ。暴力夫に見つかりかねない危険を冒してまで、守ろうとしたんだから名」
「もちろん、私も……以前だったらその結論だと思いました。でも」
「でも? 何だ。はっきり言ってくれ」
「私の中にまだ美喜子さんがいらっしゃるんです。それを感じて……」
「つまり、無念はまだ晴れてないっていうことか?」
「……はい」
 徹は眉を顰めた。
「これまで犯人が、すでに死んでいた場合はどうなっていたんだ?」
「そういうのは初めてです。今回がもしそうだったら、ですけど……」
「そのうち消えるんじゃないのか? これまではどうだった?」
「これまでは犯人が分かってから気付くと、消えてましたけど」
「だったら今回もその内、消えるさ。暴力クソ亭主を豚箱に入れられないのは不本意だが、仕方が無いだろ」
 徹はさっさと歩き出す。
 朝香は、それでも腑に落ちなかった。
 しかし、自分の中にあるモヤモヤをうまく言葉に出来なかった。
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