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文字数 3,750文字

 坂本清が社長を務める工場は、大田区の住宅街の一画にあった。
 長屋風の建物で『坂本板金製作所』という控え目な看板が出ているだけ。
 時刻は正午を少し過ぎている。
 そばの有料駐車場に車を止め、朝香たちが事務所を訪ねると、奥の方に事務員と思しき中年女性がいた。
 その女性が朝香たちを認めると、怪訝な顔でやってくる。
「何か?」
 徹が言う。
「坂本清さんという方はこちらの社長さんですか?」
「そうですが……」
「我々はこういう者です。ご主人にお話をお聞きしたいのですが……」
 徹が警察バッジを見せれば、女性は「ちょ、ちょっとお待ち下さい……」と慌てたように席を外す。
 しばらく待っていると、作業帽につなぎ姿の初老の男性が姿を見せた。
 右のこめかみにはうっすらとした傷がある。
 徹が目を向ける。
「坂本清さん?」
「はい。警察の方、だそうですが」
「警視庁未解決事件・再捜査課の吉良です。こっちは法条です。――どこか個室でお話ししたほうが、よろしいかと思います」
「……では、こちらへ」
 そうして案内されたのは、作業場に隣接した個室だ。
 ささやかなテーブルと椅子があり、そこにかけるよう促される。
 朝香たちは清と向かい会う。
 清は警察の訪問ということで少なからず緊張しているのだろう、朝香たちを窺うような視線をくれる。
「それで……ご用は?」
 徹が言う。
「1985年。青山霊園そばの道路で当時、ホテトルで働いていた女性が殺害され、遺棄されました……。名前は片桐佳子。源氏名は春菜。ご存じですか?」
 清の眼差しがかすかに揺れる。
「い、いえ。知りません」
「この女性です」
 朝香は写真を取り出す。それは現場の遺体写真だ。
 清は目を、というより顔そのものを背けた。
「……むごいとは思いますが、私には皆目見当が……」
 徹は冷静に告げる。
「実は事件の前にあなたが、片桐さんに付きまとっていたという情報が寄せられたんです。あなたのこめかみの傷――情報提供者はそれを見てすぐにピンと来たと言っていました」
「これは工場での作業中に……。わ、私は知りません……っ。その情報を提供された方は誰かと間違えたのでしょう。もう三十年以上前のことですから」
 清は絞り出すように言う。
 明らかに動揺していた。それはむごたらしい現場写真を見たからだけではないだろう。
 朝香は言う。
「片桐さんは当時、身籠もっていらっしゃいました。ご存じでしたか……?」
「え……?」
 清の目が朝香を見る。
「妊娠初期で外見では分からなかったでしょうが。犯人は彼女ばかりでなく、お腹の子どもまで殺したんです。――坂本さん。あなたがもし何かご存じだとしたら……ご協力を。私たちの為ではなく、被害者の為に」
 清は個室の窓越しの工場の方を窺い、そして恐る恐る写真を見る。
 職人の皮の分厚い手が、事切れた女性を撮影した写真にそっと触れた。
「……私は彼女を愛してしまったんです……。友人と気紛れに公衆電話に貼られた電話番号に連絡して遊んだんです……。酔いに任せて初めて、そういうホテルに行って……すっかり嵌まってしまって。その内、春菜と会ったんです。この話は家族には内密にお願いします」
 朝香は聞く。
「付きまといはされていたんですか?」
「そ、そういうつもりでは……。ただ私が本気だと分かって欲しかっただけで何度も使命を……料金もちゃんと払っていましたし。彼女を困らせるつもりなんて無かったんです」
「彼女が誰かと揉めていたという話を聞いたことは?」
 清は言い淀みながらも話してくれる。
「一度ですがホテルを一緒に出た時に同じ店の子が現れて、私と彼女に詰め寄ってきたことが……」
「どなたかは分かりますか?」
「美保子さんという方です。美しさを保つ、子どもの……です」
(美保子さん……!?
 朝香は驚きながらもそれを表面に出さぬよう押し込める。
 徹が言う。
「即答ですか。よく覚えておいでですね。三十年も前のことなのに」
 清はばつが悪そうに表情を曇らせる。
「初めて接客してくれた子ですから。それから何度か相手をしてもらったんです。とても記憶に残っています」
「確かに初めては記憶に残りますね。それで、美保子さんがあなたにも詰め寄ったと言いますが、どのような理由かは分かりますか?」
「……どうして自分から春菜に乗り換えたのかと……。そして私の目の前で二人が口論を。その時、美保子が春菜に殺してやる、と言っていました……」
 朝香は念を入れるように尋ねる。
「確かですか」
「ええ。先程も言った通り、そういう店を利用するのも初めてで、女性があれほどに感情を剥き出しにしている姿があまりに衝撃的で……覚えています」
 徹は言う。
「あなたは片桐さんへ強い想いを抱いていたにもかかわらず、彼女が亡くなった時に警察には何も話さなかったんですか?」
「彼女が亡くなったことは知りませんでした」
「でも彼女が目当てでその店を利用していたんでしょ?」
「……妻が身籠もりまして。それがきっかけになって店に通うことはなくなったんです」
「そんなに容易く忘れられたんですか? かなり入れ込んでいたのに?」
「……信じられないでしょうが本当です」
「一度もそれからは行ってない?」
「はい」
 徹は立ち上がり、朝香も倣う。
「ありがとうございます。本日はこれで。またお伺いするかもしれませんが」
「……春菜を殺した犯人を必ず捕まえて下さい」
 朝香は頷く。
「全力で捜査します」
 そうして工場を辞去した。

 運転をする徹が話しかけてくる。
「まさか情報提供者が怪しいとはな」
「そうですね……。バレないと思ったんでしょうか」
「かもな。だがまさか怪しいと指摘した相手が純情であの時のことを覚えているなんて思いも寄らないんだろうな」
 そこで朝香はあることに気付く。
「――先輩。こっちの道は庁舎とは別の方向じゃ……」
「よく言うだろ。現場百ぺんだって。かなり時間は経ってるけど、殺害現場の周辺はそれほど大きな変化はないからな」
「……は、はい」
 朝香はおずおずと頷く。
 膝の上にのせていた手をぎゅっと拳に握る。

 午後三時の青山霊園は平日ということもあって、静まりかえっていた。
 朝香達はそばの駐車場に車を止め、ファイルを見ながら現場まで歩く。
(大丈夫。何も問題ないわ)
 朝香はポケットに入れたままの左手でジッポを握りしめながら、自分に言い聞かせる。
「――ここだ」
 徹は立ち止まり遺体発見時の写真と見比べながら、六本木方面を指さす。
 朝香は相づちを打ちつつ、極力周りを見ないように徹の手元を見つめる。
「ホテルを出た片桐佳子は、何故かここで遺棄された」
(ここで殺された片桐佳子は殺された……)
 三十年以上前の痕跡などなにもないコンクリートの地面を見下ろす。
「……むごい、ですね」
「全くだ。荷物の類いはなし。通り魔的な強盗殺人……おい、法条。大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「……すみません。きっとこの日射しのせいです。少し休めば……」
「なら車に戻ろう。三十年以上前の事件だ。今さらどこにも逃げやしない」
「は、はい」
 二人で車に戻ろうとしたその時、誰かに腕を掴まれるような感覚を覚えた。
「何ですか」
 朝香は徹を見上げれば、徹は怪訝な顔をする。
「何が?」
「今、腕を引っ張りませんでしたか?」
「俺じゃない。おいおい、被害者に引っ張られたとか言うなよ?」
 朝香は思わず振り返ってしまう――と、そこに女性がいた。いくら六月といっても、あまりにも無防備過ぎる薄手で胸元の大きく開いた服装。身体のラインが露わになることはもちろん、スカートはそれこそ少しでも屈めば下着が見えてしまいそうなほど短い。女性の肌は病的に白く、顔や唇に血色はない。そして首には生々しいくらいの紫の内出血した痕が――。
(片桐佳子さん……)
 朝香は何故かそう思った。
 精彩を失った二重の眼差しがじっと朝香を見据えている。やがてその細い右腕がゆっくりと持ち上げられた。朝香はまるで目には見えない何かに引っ張られるようにその女性の元へ近づき、その手に触れた。
 刹那。目の前が眩い光に塗り潰されてしまう。
(嫌……っ!)
 その光から逃れようと身を引いたが、呆気なく絡めとられる。
(やめて! もう、見せないで……っ!)
 目をぎゅっと閉じ、心の中で絶叫するが、光は頭の中に無遠慮に侵入し、見たくない映像を紡ぐ。
 眩い光の中に黒い色が覗く。
 黒、ではない。夜空だ。そして目の前に誰かがいるが、その人はぼんやりして、目鼻立ちも判然としない。
 目の前にいる誰かが朝香の首を絞める。いや、締められているのは朝香ではない。
 被害者――片桐佳子だ。
 それでも現に窒息に瀕して苦しんでいるのは朝香に他ならない。
「あぁっ、ぁああっ……あ、あっ……」
 目の前の誰かが、ますますきつく首にかけた手に力をこめた。
 四肢から力が消え、握りしめていたライターが地面に落ち、硬い音をたてる。
 そして朝香の意識はとんだ。
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