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文字数 3,902文字

 朝香たちは再び真紀の会社を訪れた。
 真紀は朝香たちを見るなり、「ここまで捜査して下さってありがとうございます」と頭を下げる。
 今回、名目上は証拠の返却と言うことになっていた。
 朝香は証拠品を入れたケースをテーブルに置く。
「実は真紀さんが通われていた施設に出向いてきたんです。真紀さん、寄付をされているそうですね。職員の方がとても感謝されてましたよ」
「お世話になりましたから、当然のことです」
「勝手に申し訳ありませんが、当時の真紀さんの記録を読ませて頂きました。古いものは地下の倉庫に保管されてて、探すのが大変でしたけど……」
 笑顔だった真紀の表情が曇る。
「どうしてそんなものを調べる必要が? すでに事件は解決したんですよね」
 朝香は、真紀の言葉を遮った。
「――記録にはこうありました。夜によくうなされる。母親の名前を呼ぶことが、ほとんど、だと……」
 真紀は自分の言葉が無視され、少しむっとする。
「だから何なんですか。あなた方もご承知の通り、私は父に暴力を受けていました。だからです。唯一の見方は母だけだったんです。不思議なことはあません」
「でもかなり長い間、続いていたようです」
「弁護士を呼ぶべきですか」
「どうしてですか?」
 真紀は朝香を無視して、徹に告げる。
「刑事さん。事件が解決したというのは嘘だったんですか?」
 徹は「あぁ、ひとまず話を聞いて下さい」と、真紀を宥める。
 朝香は真紀を見つめる。
「真紀さん。あなたはお母様が殺害された当日、地元の荒川にて深夜徘徊で、補導されてますよね。事件の捜査記録の中にありました。あなたは歩道当時、ひどく取り乱していたそうですね。私はこれを見た時、家庭内暴力の影響だと思いました。でもあなたそれまで一切、歩道の記録がない……」
「だから何だと言うんですか? 深夜徘徊なら、それまでもしていましたけど、たまたま補導されなかっただけです」
「では、どうして補導されて、ひどく取り乱していたんですか?」
「……補導されたんだから当然でしょう?」
「そうでしょうか? あなたはお父様を怖れていた。深夜徘徊がばれれば、どんなことをされるかも分からないのに?」
「し、知ったような口を……」
「あなたとお母様は同じ境遇におかれていた。そしてお母様は外の人の力を借りて国分寺にアパートを得た。お母様はあなたにそれを話そうとしたけど、煙草を腕に押しつけられ、恐怖に駆られる余り、あなたは聞かずに部屋に籠もってしまった」
 真紀は驚きに目を瞠り、腕を押さえていた。
「……ど、どうしてそれを……」
「あなたのお母様を撮影し、アパートを用意した方はあなたが乗り込んできた、そして外に出て行くあなた方を見送る事しか、出来なかったと悔やんでおられました」
 真紀は顔面蒼白。デスクの縁に右手を添え、それで辛うじて姿勢を保っている。
「お母様の……」
「もう、やめて……っ」
 絞り出すような声を漏らす。
 上げられた顔。その瞳は涙で濡れていた。
 その眼差しに朝香のああ間の中を、光の粒子が駆け巡る。
 眩映がやってくる――。

 美喜子は制服姿の娘の真紀とアパートからほど近い路上で向かい会っていた。
 真紀の目は涙で濡れ、声は震えている。
 夕闇が迫り、二人の姿を真っ赤に染め上げていた。
 ――どうしてお母さん……っ。どうして!
 ――真紀。話を聞いて。
 ――あの人と二人で暮らすつもりだったなんて! 私を置き去りにするなんてぇっ!
 真紀は涙で顔をぐしゃぐしゃにし、身体を小刻みに戦慄かせる。
 そんな娘を、ハハハ必死に落ち着かせようとする。
 ――あなたを置いていく分けないんじゃない!
 ――嘘、嘘よ! ママは私のことなんてどうでもいいのよ! あの男と一緒に死ねって思ってるのよ!
 ――真紀、話を……
 ――来ないでぇっ!!
 近づこうとする美喜子に、真紀は拾い上げたコンクリ片を振り上げ、母の頭目がけ振り下ろす。
 目の前が真っ暗になる。

 そして再び視界が開けたかと思えば、美喜子は仰向けの格好で倒れ、夜空を見つめていた。
 娘を苦しめてしまった深い罪悪感は、自分が死に瀕してしまっていることよりも、美喜子の胸を締め付け、心をうちのめしていた。
 ――……ごめん、ね……。
 声になるかならないかの声は、誰に聞かれること無く虚空に消えた。

 意識が戻れば、朝香はゆっくり目を開ける。
 眩暈を覚えながらも、真紀に話かける。
「……お母様はあなたを置いていくつもりなんてなかったんです」
「あ、あなたに母の何が分かると言うんですかっ!」
「分かります。少なくとも、お母様のことから、顔を背けているあなたより」
 朝香の揺るぎない言葉に、真紀は言葉を失う。
「お母様はあなたのことを本当に心配していたんです。最後の言葉は“ごめんね”でした。真紀さんには、この言葉の意味する所が、分かるんじゃないですか?」
「……仕方なかった」
 ぽつりと呟いた真紀は、その場に膝を突き、顔を手で覆う。
「怒りで頭の中が一杯になって……母の言葉なんて入ってこなかった。ただ、母があの男と一緒に逃げて、私一人が置いてけぼりにされるって、今考えればそんなことあるはずがないって分かるのに……!」
 肩を震わせ、真紀は嗚咽を漏らした。

 それから一ヶ月後。年が改まり、その日は底冷えしていた。
 朝香は徹と共に、真紀と会う為に栃木刑務所を訪れていた。
 逮捕後。裁判に立った真紀は全面的に罪を認め、一審判決を受け容れて収監される。
 事件前後の家庭事情が、かなり考慮された判決だった。
 朝香の前に現れた真紀は髪を短くし、作業を抜け出した来たのだろう。作業服姿だった。
 分厚いアクリル板ごしの再会である。
 普段、面会室は刑務官の立ち合いが原則であるが、こちらに配慮して席を外してくれている。
 朝香は頭を下げる。
「真紀さん。お久しぶりです」
 真紀は薄い笑みを見せ、朝香と徹とを見る。
「刑事さん。どうされたんですか?」
 今回は徹は付き添いで、見守る係だ。
 朝香は切り出す。
「実は最後に一つだけ、聞きたいことがありまして」
「私がまだ何か隠していると?」
「これが最後です。それに答えるかどうかは、あなた次第です」
「なんでしょう」
 真紀はあくまで自然体だ。
 むしろ朝香の方が緊張してしまう。
「辻秀康さんが殺されていたと知っていたんですか?」
 真紀は怪訝な顔をする。
「何のことでしょう」
「あなたは以前、お父様が殺されたと仰いました」
 真紀は、小首を傾げた。
「そうでしたか? 刑事さんが教えてくれたんだと思います。私は知りもしなかった。興味もないですし」
「私どもはお父様が亡くなられた、と言っただけです」
 真紀は苦笑する。
「でしたら勘違いしたのかもしれませんね。刑事さん方が殺人の捜査をしていたから。あの男も殺されたとばっかり……」
「本当にそうなんですか?」
 真紀が怪訝な表情になる。
「どういうことでしょう」
「あなたの会社の従業員の方に話をお聞きしました。すると、辻秀康のことを覚えていた方は多かったです。何せ、あなたの親だと社内で広言していたそうですから。警察に通報しようかという報告をあなたは断っていますよね。自分で対処するからと」
 真紀は失笑する。
「だから殺したと? 刑事さん。それは短絡的すぎるのではありませんか? 私は現に、母親に手をかけた罪を償っているんです。裁判では争いもしませんでした」
「そう、あなたはお母様に対しては、深い罪悪感を抱かれている。それは分かります」
「あなたは不思議な方ですね。あなたと話しているとそんな訳ないのに、まるでその場にいたかのような気さえしてくる……」
 すでに朝香の中に、辻美喜子はいない。
「辻秀康さんが亡くなられる一ヶ月前。あなたの口座から二百万円のお金が下ろされていました。あなたの資産を調べさせてもらいましたが、あなたが何か大きな買い物をしたという記録は見つかりませんでした。二百万円ものお金を何に使ったんですか?」
「そんな昔のこと覚えていません。もしかしたら会社で急な出費があったのかもしれません。それで……」
「そのような記録はありませんでした」
 真紀は小さく肩をすくめる。
「だったら分からないわ。引き出したんですから何かに使ったんでしょうけど」
「そう、何かに使った……。辻秀康さんの殺害当時、一緒にいた人は外国人が言いがかりをつけてナイフで刺したと証言しています。あなたの貿易会社は当時、中国との取引を頻繁に、行っていましたよね。外国人に殺害を依頼し、犯人が一度出国してしまえば日本の警察はほとんどお手上げです」
 真紀の眼差しからは一切、その心の内を計ることは出来ない。
「協力したい気持ちは山々ですが、分からないことには答えられません」
「真紀さん。私はあなたが辻秀康さんを殺害するために人を雇ったと考えています」
「お話出来て楽しかったです」
 真紀は薄く笑むと立ち上がり、踵を返す。
「真紀さん!」
 朝香は声を上げるが、彼女の足が止まることはなく、部屋から出て行ってしまう。
 背後で徹が小さく息をつく。
「……諦めろ。証拠がない以上、俺たちには何も出来ない。今はな」
「吉良さん」
「辻秀康殺害はうちの管轄として解決されるまであの倉庫で眠り続ける……。チャンスはこれから幾らでもある」
「……はい」
 朝香は静かに頷いた。
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