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文字数 2,827文字

 十二月に入り、気の早い『クリスマス』の文字を見かけるようになり始めた非番の日。
 朝香は千葉県船橋市にある、とある雑居ビルに顔を出していた。
「先輩。ご無沙汰してます」
 朝香は目の前の人物に、頭を下げた。そこには車椅子が窮屈に思えるような広い肩幅とガッチリした体格の中年男――東英吉元巡査部長がいた。
「よぉ。元気そうで何よりだ」
 英吉は、人懐っこい笑顔と共に言う。
 朝香は事務所内を見回す。
 ここは、応接室のようでソファーセットに観葉植物、そして風景画が飾られていた。
「本当に探偵をやられてたんですね。私は冗談だとばっかり」
 彼は日頃から「警官を辞めたら探偵をやろうと思うんだ」と言っていた。日頃から冗談しか言わない英吉(えいきち)だから、聞き流していた。
「決まってるだろ。有言実行だからな。それに元警察官ってのを掲げてるから、仕事はまあまあ入ってくるんだよ」
「でしたら良かったです」
「その辺に適当に座ってくれ」
「これ、つまらないものですけど……お菓子です」
 英吉は目を輝かせながら受け取った。
「変なモンじゃ無いだろうなー?」
「東京ばな奈です」
「サンキューなっ!」
 東京ばな奈は英吉の大好物。昔から甘い物をデスクに、常備しておくほどの大の甘党であることは捜査一課でも有名だ。
「お茶淹れますね」
「おぉ、悪いな」
 給湯室でお茶を淹れる。
「どうぞ」
「いやあ、すまんすまん。お前さんは客人なのにな」
「良いんですよ。これくらいやらせて下さい」
 英吉は朝香をしげしげと見る。
 朝香は、視線に気付いて顔を上げる。
「何ですか?」
「お前、良い顔になったな。今の部署が合ってるみたいだな」
「はい。先輩も良くしてくれます」
「俺の助言も役に立った訳だなぁ。今度何かおごれよ?」
 相変わらずな先輩刑事に苦笑しつつ、朝香は言う。
「安置所」
「んん?」
「そう呼ばれてたのは初耳でしたけど、ね」
 英吉は鼻で笑う。
「そんなの気にするタマか? 捜一だって所轄からしたら、テメエの縄張りを引っかき回す厄介な奴さ」
 朝香は驚いてしまう。
「そう思われてたんですか?」
「所轄の刑事課にいたころはな。捜一なんざ死んでも行くかって思ってた。まあ、捜一打診の話が来たらすぐに飛びついたけどな」
 英吉はおどけて、肩をすくめた。
「ふふ。ほんと相変わらずですね」
「嬉しいだろ?」
「はいっ」
 久しぶりのやりとりで、胸がほっこり温かくなる。
「でも、マジでお前のことは高く買ってるんだ。今の部署で早くも事件を解決したんだって? 最高じゃねえか」
「でも捜一の方々には恨まれてると思います」
「気にするな。お前の価値も分からないで追い出すような連中だ。いつも言ってるだろ?」
「――自分の心に従え、ですね」
「そうそう。俺が応援を待たずに、犯人追跡を強行したのも心に従ったからだ。お陰で犯人は捕まえられたし、俺は気楽な一般人になれた」
「……そうですね」
 英吉の眼差しが柔らかくなり、諭すように告げる。
「俺が行けと言ったんだ。お前に拒否権はない。犯人を逮捕できた――その結果だけを見るんだ」
「はい。先輩」
「いいねえ。美人の女刑事に尊敬されるってのは。ありがてぇ、ありがてぇ」
「先輩ってば。その美人の女刑事をメール一つで呼び出したのはどこの誰ですか?」
 突然、非番の日を指定して、『来い!』といきなりメールを送ってきたのだ。
「もし私がデートだったらどうするんすか?」
「もしそうだったらなぁ。お前はデートの間中、何度も何度も車椅子に乗ったデブ中年を視界に入れることになるだろーな。まあその可能性は限りなく低いと踏んでの、メールだったんだけどな」
 朝香は苦笑する。
「はいはい。どーせ、こんなデカ女、モテません。良かったですね。後輩がモテなくって。でも現役の刑事に堂々とストーカー宣言はいけませんよ?」
「そうだった。肝に銘じておきますよぉ」
「よろしい」
 芝居がかったやりとりを交わし、笑いあった。
 と、冗談もそこそこに、朝香は気を取り直す。
「先輩。こんな冗談を言い合ってるうちに時間がなくなっちゃいますから」
「相変わらずクソ真面目な奴だ。――実は、一週間くらい前に依頼があってな」
 英吉はローテーブルに丸い缶を置く。『S60 12』というラベルが貼られていた。
「これ、何ですか?」
「8ミリフィルム。まあ、知らないのは当然だな。昔はこれをどでかいビデオカメラに入れて撮影してたんだってよ」
「へー」
 感情のこもっていない相づちに、英吉はむっとして顔を上げた。
「お前、もっと興味を示せよ」
「……すいません」
「まあ、いい。依頼人は東都美大の学年で、映画研究会に所属してる清野竜治」
「待って下さい。探偵の守秘義務は?」
「依頼主の了解は取ってある。――で、このフィルムに映ってる人物ってのを特定してもらいたいって話だ」
「人捜しって本当に探偵みたいですね」
 英吉は苦笑する。
「本当の探偵なんだよ。――で、この8ミリをDVDに落とし込んでもらったんだ」
 英吉はDVDをノートパソコンに入れると、画面を朝香に向けた。
 白黒の映像が再生される。
 朝香は、小首を傾げた。
「……音が聞こえませんけど」
「8ミリは音声がないからな。黙って見ろ」
 映像の中でブラウスにロングスカート姿のセミロングの髪の女性が、両手を真っ直ぐ伸ばし、空を見上げながらくるくると回り、軽やかなステップを踏んでいる。
 時間帯は夜で、ちらちらと白い雪が降っている、とても幻想的な映像だ。
 音声は元より色もついていないけれど、それでも朝香は知らず知らず引き込まれてしまう。
 映像は動きを止めた女性がカメラを向いて、はにかんで笑う――そこで締めくくられている。
「……綺麗な方ですね。女優さんですか?」
「俺も最初そう思ったんだが、違う。主婦だ」
「あ、身元が分かってるんですね。でもそれじゃあどうして私を……?」
「これを見てくれ」
 寄越してきた分厚いフィルを開けば、そこに白黒写真が収められていた。ワンピース姿の女性が路上に横たわり、辺りに流血があった。
「辻美喜子。三十四才。1986年2月10日に殺害されてる。当時の見立てによると、通り魔の犯行らしい。犯人は分からず、未解決だ」
「つまり、この撮影の二月後ということですね」
 朝香は缶に貼られている『S60 12』のラベルを見る。
 英吉は頷く。
「コネを使って報告書を見せてもらったんだが、このフィルムの存在は漏れていた。つまり新証拠だ。悪いが、捜査をしてもらえないか?」
「分かりました。真相に漕ぎ着けられるかはお約束できませんが」
「分かってる。それからこれは依頼人の情報だ。何か聞けるかも知れない」
「ありがとうございます」
 朝香は書類を受け取った。
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