2-4

文字数 3,838文字

 翌日。朝香たちは神田川に面した秋葉原近くの公園にいた。
 時刻はお昼。
 昼休憩で街に繰り出した会社員たちが、忙しなく朝香たちの傍を通り抜けていく。
 と、朝香は背後に気配を感じて振り返る。
 そこにスーツ姿の男性が立っていた。
 事件が起きたのが、彼が小学六年の頃、二十年近くが経っている。
「――刑事さん、ですか?」
「そうです」
 朝香と徹は立ち上がり、警察バッジを見せる。
 朝香は男性を見た瞬間、胸の奥がキュンとなるのを感じた。
(な、何、今の感じ……)
 徹が頭を下げる。
「突然お電話を差し上げて申し訳ありません。誠さん」
「いえ」
 誠さん――そう、目の前の人物こそ叶子の兄の誠だ。
 昨日片っ端から誠の同級生たちに連絡をかけ、どうにか連絡が取りたいと要請したのだ。 結果、友人の一人が根負けして連絡先を教えてくれたのだ。
 そして誠が都内でIT企業で働いていることを知った。
 朝香は言う。
「お座り下さい。でも本当にここで良いんですか? どこか別の……」
「いえ、ここで大丈夫です」
 誠が薄く笑み、ベンチに腰掛ける。
 朝香と徹は、誠を挟むように座った。
 朝香は誠の顔から目が離せず、安心感に似た感情を覚えていた。
(これも、叶子ちゃんの影響?)
「おい、法条。何やってるんだ」
「え?」
 朝香は誠のすぐ右隣に座っているのだが、今にも身体が密着しかねない、それはまるで恋人のような近距離で。
「……し、失礼しました」
 朝香は言ったが、それでも距離はそのまま。
 誠は苦笑する。
「いえ、大丈夫です。こんなに綺麗な刑事さんがそばに……すいません。今のはセクハラですね」
 朝香は申し訳なく目を伏せてしまう。
「……わ、私が悪いので」
 徹は咳払いをし、改めて誠と向かい会う。
「誠さん。妹さんのことは……」
「友人から聞きました。妹の亡骸が見つかったと」
「このようなことを聞くのは非常に不躾ですが、確認としてお聞かせ下さい」
「構いません。嫌ならお会いしませんから」
「ありがとうございます。――向井が妹さんに近づいたのを見たことは?」
「いいえ。ありません。事件の後にそういうことがあったという話を聞いた程度で……」
「向井があなたのおうちの傍を徘徊するようなことは、ありませんでしたか?」
「覚えている限り、なかったと思います」
「妹さんが事件の前に、何か不安を口にしたことは?」
「それもなかったと思います」
「妹さんが発見された場所に心当たりはありますか? ご自宅から二十分ほど先にある廃屋ですが」
「知りません。そんなものがあるのも初耳です」
 徹はメモを取る。
 と、誠が言う。
「――こちらからもよろしいでしょうか」
 徹は笑顔で応じる。
「ええ。何なりと」
「両親に話は?」
「聞きました」
「事件当夜は何をしていたと?」
 朝香は言う。
「お母様は気分が悪く早くに眠って、お父様はお仕事で、夜遅くに帰宅されたと……」
 すると、誠は失笑した。
「やっぱりそうですか」
 朝香は眉を顰めた。
「どういう意味ですか?」
「それは嘘ですよ」
「どうして嘘だと?」
 その日。誠は空手の合宿で、不在だったはずだ。
「どうせあの二人、恒例の夫婦喧嘩をしていたんですよ」
「夫婦喧嘩?」
 昨日会った時には考えられない言葉だ。槇村夫妻は本当に仲睦まじそうだった。
「両親は叶子が行方不明になる一年前から、喧嘩が絶えませんでした。父が酔って帰ってきて、僕たちの弁当にするはずのおかずを勝手に食べたとか、そういう下らないことでね……。それも怒鳴り合いだけじゃない。父は酔うと母に対して手を上げたり、物を壊したりと暴力的な行為に走る人ですからね」
 誠は厳しい表情で、そう吐き捨てた。
 徹は表情を曇らせる。
「でも昨日お会いしたお二人は本当に仲が良かったのですが……」
 誠は鼻で笑う。
「傷の舐め合いですよ。叶子の行方が分からなくなって、夫婦で会見をしたり、何かと一緒にいることが多くて……皮肉なことに喧嘩はなくなりました。容疑者の向井が二人にとっての共通の敵になったせいでしょうね」
「あなたは今はご両親とは没交渉なんですよね。それは、その幼い頃の状況のせいですか?」
「……二人がまるでずっと仲が良いように振る舞って、叶子の無事を祈っている善人面にうんざりしたんです」
 誠の憤りはかなり深いようだった。
 朝香はさらに尋ねる。
「お父様は、叶子ちゃんに暴力を振ったことは?」
「……僕が知る限りはなかったとは思いますが、失踪した日は知りません」
「暴力は振りうる、と……?」
「そうは言いませんが……可能性がゼロだってことはないと思います」
 誠の目には痛みがあった。考えるのも辛いのだろう。当たり前だ。

 朝香は、かなり後ろ髪を引かれながら誠を見送った。
 正直、かなり別れがたさを感じてしまう。
「叶子ちゃんの影響とはいえ、頼むからストーカーにだけはなるなよ」
 徹は溜息まじりに言った。
「……それは大丈夫だと思います……」
 言いながら、誠の消えていった方面をいつまでも見る。
 と、徹が聞いてくる。
「で? 何か見えたか?」
「いいえ。見えませんでした。でも昨日見た眩映のことを考えると、家庭内暴力という線も考えなくてはならないかもしれません。吉良さんはどう思われますか」
「叶子ちゃんの損傷は頭蓋の後頭部だけだ。つまり日常的な暴力はなかったんだ」
「でももしあの日だけ、起きてはいけないことが起きたとしたら……」
「ありえない。犯人は向井だ」
「吉良さん、今仰いましたよね? 損傷は頭蓋の後頭部だけって。少なくとも今の段階では性的暴力の痕跡は見出せません。であるならば、もっと客観的に見る必要があるんではないのですか?」
 徹は渋面を作る。
「向井には前科がある」
「確かに。でも槇村悟さんのことも調べるべきです」
「……分かってるさ」
 徹は不本意そうに言った。

 朝香たちが課に戻ると、課長の席の前に背広を着た一人の壮年の男が立っている。
 男は鷲鼻に鋭い眼光に、引き結ばれた口元が印象的だった。
 アアカはその男性に覚えがあった。
 警視庁捜査一課の課長、笠智明(リュウ トモアキ)警視正だ。
 無論、向こうはいち巡査の朝香のことなど、知らないだろう。
「うちの捜査員です」
 愛一郎が紹介しても興味なさ気。
 そんなことよりもと言いたげな智明は言う。
「――課長。君が弁護士達の口車にのせられたとは、驚きだよ」
「それが未解決・再捜査課の務めですので」
「連中はどんな手を使ってでも被告人を無罪にしたがる。そんなものをいちいち取り上げることなどあり得んと思うが」
「しかし被告人を尋問したのは頭山警部です」
「だからどうした。確かに警部は無茶な尋問を行ったし、担当事件の内の幾つかは再審が行われている。だが、これだけは違う。被害者を手にかけたのはあの変態だ。ハゲタカ弁護士が何と言うと!」
「警視正。ですが、向井は叶子ちゃんの居場所を最後まで言おうとしませんでした。検事が遺体の場所と引き替えに便宜を図ることを申し出ても、です」
「それがどうした。最後まで被害者家族を苦しめたかったただけだ」
 徹が一歩、前に出る。
「――警視正。私も犯人はあの変態と確信しています。ですが我々が何もしなければ、それはそれで問題になるでしょう。我々が捜査を行い、警察に落ち度がないことを証明します」
 無茶苦茶なことを言い出す徹に朝香は驚くが、彼は気にした素振りは見せない。
 智明は満足げに微笑む。
「安置所にも優秀な人間がいるようだ。君、名前は?」
「吉良徹警部補です」
「覚えておこう。――では、課長。失礼します」
 智明が部屋を出て行く。
「吉良君」
 愛一郎が何か言おうとするが、徹はそれにかぶせるように告げる。
「――捜査の手を抜くつもりはありません。しかしながら真実は明らかだと申し上げたまでです。今日は失礼します」
 徹は頭を下げると、止める間もなく部屋を出て行ってしまう。
(吉良さん……)
 と、朝香は、真誉が熱心にパソコンを見ていることに気付く。
 パソコン画面にはおどろおどろしい書体で、『秋の夜長に湧きあがる火の玉と啜り泣きの幽霊廃屋』と題し、その建物の外観写真が掲載されている。
 叶子ちゃんの遺体が発見された廃屋だ。
 そこの情報には行方不明の女児発見、というトピックが加えられていた。
 本当にふざけてる。
 朝香は表情を曇らせる。
「……真誉。何見てるのよ」
 真誉は慌てる。
「今回の事件につながるヒントがあるかなって思いまして……。決して興味本位じゃありませんから!」
「そんなサイトで何が分かるの?」
「これを見て下さい。あの廃屋で目撃された人魂。ここ何年も十月の終わりに見られてるらしいです。十月の終わりと言えば……」
「……叶子ちゃんが失踪した日?」
「やっぱり叶子ちゃんが、自分の存在に気付いて欲しくって……?」
 しかし朝香には何とも言えない。
「それは……分からない。私もいわゆる人魂っていうのは見たことがないし」
「そうですか……。ところで吉良先輩、ヒートアップしてましたね」
「そうね……。でも我を忘れた感じではないから、今は見守ることしか出来ない」
 朝香は肩をすくめた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み