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文字数 5,231文字

 警視庁庁舎の組織犯罪対策部の入ったフロア。その小会議室に朝香や真誉、そして最上信太郎警部補がいた。
 朝香は頭を下げる。
「クマさん。ご協力頂きありがとうございます」
「良いさ。だが、このクマを持ってこいってのはどういうことなんだ?」
 信太郎はあのクマを小脇に抱えていた。
 朝香は言う。
「それについては後ほど……。それで、もう一人のSについてですが」
 信太郎は、眉間にシワを刻んだ。
「そのことだが、さすがにそれは俺も分からないんだ。情報源ってのは捜査員の命だ。それは上司にだって明かさないんだ」
「クマさんがSにしたのは五木勇作だけですか?」
「もちろん」
「駿河尚武会の捜査には、かなりのプレッシャーがあったとお聞きしましたが」
「どんな捜査にもプレッシャーは付きものさ。お前さんだって、捜査一課だったんだから分かるだろ?」
 朝香は苦笑する。
「ご存じでしたか」
「調べたんだよ。唾を付けておくには、相手のことを深く知らないとな」
「確かに。被害者遺族の方々からはもちろんですが、何より上からの重圧が……」
 信太郎は大きく頷く。
「上は人数を投入しさえすれば、どんな事件もたちどころに解決できると思ってるんだからな。全く困ったもんさ。現場じゃみんな、ヒイヒイ言ってるのによ」
 朝香も同意する。
「組織犯罪が相手なら尚更ですね」
「そうだ。向こうの弁護士は、人権だの何だのととやかく言って来やがる。全く不愉快この上ない」
「だからこそ、Sによる蟻の一穴(いっけつ)は貴重なんですね」
「そうだ」
 朝香は信太郎の目を見る。
「クマさん。伊達さんは、あなたのSだったんじゃないですか?」
 信太郎は眉を顰め、その目をかすかに鋭くさせた。
「今、違うと否定したはずだが?」
「事件が起きる前に、伊達さんは何かを思い悩んでいると語った人がいました。そして、お子さんともう一度会う為に全てを捨てるつもりだとも……」
 信太郎は一切動じない。
「つまり伊達は、ヤクザをやめようとして殺されたってことか?」
「でももし組織的なものだったら、路上に放置しておくのもおかしいです。誘い出して遺体ごと消すことだって出来たはずです。それから伊達さんはこうも言ってたそうです。オヤジに顔向けできないことをやっている、と……」
「辞める決心がつかなかったんだろ。宙ぶらりんのやくざもんさ」
「私はこう思いました。伊達さんはSだったんじゃないかって。警察への情報提供者。そういう意味で組長に対して、後ろめたさを……」
 信太郎は煩わしそうな顔をする。
「そんなことはいちいち説明して貰わなくても良い。それよりあいつが私のSだっていう証拠はあるのか?」
「いいえ。しかし事件が起こる二、三年前から、Sでなければ分からないような内部情報による摘発が行われています。その際の責任者は、クマさん……いえ、警部補。あなたでした」
「それが何の問題が? 私は駿河尚武会撲滅の責任者だったんだぞ?」
「他の捜査員の方に話を聞いた限り、あなたから持ち込まれた情報だったと」
 信太郎は小さく息をつく。
「私は容疑者なのか?」
「お聞きしているだけです」
「……Sがいた。だがそれは伊達じゃない」
「では、誰ですか」
「上司にも言えないんだ。他部署の人間にはもっと言える訳がない。それに全て終わったことだ」
 信太郎の眼差しは揺るぎない。
「あいつがヤクザから、足を洗おうとしていたと言っていたかな、ヤクザもんはどう足掻こうがヤクザだ。五木を見ただろ? あの男は一度足を洗った。だが、性懲りもなく戻った。社会がどうのこうのという問題じゃない。社会に適応出来るかどうかは、才能の問題なんだ。一部のバカがヤクザに身を堕とす」
「伊達さんもそうだと?」
「そうなるのは目に見えてる」
「……伊達さんは絶命の直前、何かを犯人に奪われていました」
「お前はやれる刑事だと思ったが、見込み違いだったようだな。私は捜査に参加してたんだぞ?」
「私が思うに……クマのぬいぐるみです」
 信太郎は鼻で笑う。
「ぬいぐるみ?」
 真誉が頷いた。
「娘さんの為に、伊達さんが購入したものです」
 すると信太郎は苦笑した。
 真誉は表情を曇らせる。
「何がおかしいんですか」
「まさかこのぬいぐるみが、私が奪ったものだとでも言うのか? これは孫娘から……」
 真誉が言う。
「奥様に話を聞かせてもらいました。あなたと娘さんは没交渉で、あなたは孫の顔も見たことがないそうですね」
 信太郎は目を剥く。
「勝手に妻と話したのかっ!?
 真誉は、気圧されながらも言葉を続ける。
「このクマは本当はどうされたんですか」
 じっと見つめ合い、最初に折れたのは信太郎だった。
「……分かったよ。あれは娘との和解の為に購入したんだ。だが結局望みは叶わず、孫にも渡せないと突き返された。周りにも、妻にもそんなことは言えない。だから……」
 朝香は口を挟む。
「ではぬいぐるみを検査させて下さい」
「何故だ」
「伊達さんは背後から何度も刺されています。犯人は当然、大量の返り血をあびているはずです。そのままクマのぬいぐるみを取っていったんだとしたら、ぬいぐるみには被害者の血液が付着している可能性があります」
 信太郎は吐き捨てる。
「下らんっ。ぬいぐるみだと? 奪われたものがそれだと、どこにそんな根拠がどこにあるっ!」信太郎は立ち上がると朝香に迫る。「良いか。そんなふざけた憶測を、二度と口にするな。もし調べたかったら、それだけの証拠を持ってこい。私は忙しいんだ。お前らの下らない捜査とも言えないものに付き合ってられるか!」
 その睨み付けてくる信太郎の眼差しを目の当たりにした瞬間、目の前を光が覆った――。

 光の中から輪郭が浮かび上がる胃。それは信太郎の顔だった。しかしその顔は“今”よりも若い。だがその眼光の鋭さは変わらない。いや、目の中に憤りの感情がある今、その光は怖ろしいほどだ。
 清直と信太郎は、殺害現場であるあの路地にいた。
 信太郎は告げる。
 ――やめたいだと? 誰かにバレたのかっ!?
 ――いいや。だがバレる前にやめる。それは今しかない。落ち目の俺がやめても、誰も気にする奴はいない。
 ――志村との仕事は?
 ――それならもうとっくに辞めてる。使ってる女どもが、娘の未来を見ているようで……。
 信太郎は吐き捨てる。
 ――何を馬鹿なことを……っ。
 ――俺は大真面目だ。
 信太郎は清直が小脇にかかえている袋に目をやる。
 ――……それは?
 ――娘へのプレゼントだ。
 ――貸せ。
 ――どうして。
 ――良いから。
 直は渋々袋を渡せば、信太郎は乱暴に袋を空け、ぬいぐるみを引っ張り出す。
 ――お、おいっ。
 乱暴なやり方に清直は声をあげるが、伸ばした手は信太郎には届かない。
(これが二人の力関係だったのね)
 朝香は息を呑みながら、過去の情景を見続ける。
 信太郎は、口の端を持ち上げた。
 ――ぬいぐるみ? お前の娘は何歳だ。
 ――七歳と四ヶ月だ。
 ――そんなに娘と会いたかったら、俺が口添えしてやる。お前は全うだとな。だから辞めるなんて言うな。
 ――駄目だ。中途半端ことはもう嫌なんだよ。娘と会う時には胸を張って、真っ当な人間として会いたい。
 信太郎は鼻で笑う。
 ――これまで散々、他人の血で拳を濡らしたお前が? 偽善にも程があるだろ。
 ――何を言われても弁解はできない。だからこそ変わりたいんだ……。
 ――忘れたのか。俺がこれまでどれだけ裏で助けてやったのか。そうじゃなかったらとっくにお前は、長期刑(ナガムシ)食らって、娘に会うなんて夢物語なんだぞ!
 ――それは感謝してる。だが、その恩は十分返してきたろう。こっちは殺される危険を冒して、情報を流してきたんだ。
 信太郎はぬいぐるみを乱暴に掴みながら、貧乏揺すりをする。
 ――おい。あまり乱暴に扱うな。それは娘へのプレゼントだ。
 ――娘なんてロクでもない。今さら父親がいようがいまいが、関係あるかよっ。これは実体験だぞ。
 ――あんた、娘がいたのか。年は。
 ――もう十四歳だ。男親をゴミでも見るように……たまに家で会うと嫌な顔をしやがる。ただの恩知らずだ。
 ――確かにあんたの言うことも分かる。だがそれならそれで良い。俺はただ何もしないことが嫌なだけなんだ。自己満足でも構わない。
「ヤクザもんの分際で……」
「ヤクザだろうが何だろうが、俺はもう決めたんだ」
 清直は信太郎からぬいぐるみをふんだくると、それを守るように小脇に抱えた。
 高圧的なやり方では無理だと察したのか、信太郎は態度を変え、馴れ馴れしく清直の右肩を撫でながら、泣き落としにかかる。
 ――後、半年で構わん。お前の組の力はかなり衰えてきてる。後もう一押しなんだ。もうすぐ何もかも終わるんだ。なのに、上は何も分かっちゃいない。いくら賭場を潰しても、本部が残ってるうちはまるで何もしていないみたいに、こっちの尻を叩くだけだ。俺の身にもなってくれ。長い付き合いだろ?
 しかし清直の信念は固かった。
 ――悪いな。あんたも、自分の家族のことを心配した方が良い。仕事だけが全てじゃない。
 ――なんだと?
 ――じゃあな。
 ――ヤクザモン如きが俺に説教を垂れるなっ! 大きなお世話だ!
 信太郎は声を荒げるが、清直は構わず背を向けて歩き出す。
 ――おい、待て! 伊達!
 それでも清直は振り返らない。清直が信太郎に対して強い恩義を感じていることは、間違いのよう無い事実だ。そして組長と信太郎の間で板挟みになった結果、出した結論がこれだったのだ。
 しかし次の瞬間、清直は背中に重たい衝撃を受けた。
 その感覚もまた、朝香に直接的に流れ込んでこんで来る。
 清直は目を動かす。信太郎がタックルをしてぶつかってきていた。
 背中に熱を覚えた。
 信太郎が握っていたナイフを、何度も何度も立て続けに直の背中めがけ刺していた。
 清直は膝から崩れ落ちた。
 血が溢れると同時に、血圧が下がり身震いし、目がかすむ。
 これまで幾度となく修羅場を乗り越えてきたが、今回のこれはその比ではなかった。死が寄り添うのをひしひしと感じていた。そしてそれは抗いがたいもの。
 清直は俯せに倒れた。クマが地面を転がる。
 息を切らせた信太郎が、クマを拾い上げた。
 自分の指紋のついたクマを……。
 虫の息の清直が震える腕を懸命に伸ばすが、届かない。
 ――か、返して……くれ……
 その言葉が最期だった。

「――っ」
 我に返った朝香は、自分が涙していることに気付く。
 朝香は涙を流したまま、信太郎を睨み付ければ、信太郎はたじろぐ。
「警部補。あなたが伊達さんを刺し殺したんですね。Sを辞めると伊達さんから告げられ、あなたは説得出来なかった。挙げ句、伊達さんに家族を大切にしたほうが良いと言われて逆上した」
 信太郎は目を瞠った。朝香はたたみかける。
「このクマを持ち帰ったのは、あなたの指紋がついているからだったんですね」
 真誉は置かれたぬいぐるみを手に取れば、信太郎は「おいっ」と声を荒げ、取り返そうとするが朝香がそれを阻んだ。
 真誉は動じることなく言う。
「伊達さんの遺留品の中で唯一、見つかってないもの……それは、まだ赤ん坊の頃の美和さんと奥さんとの家族写真です」
 信太郎は顔を顰めた。
「写真だと」
「警部補。これは何だと思われますか?」
「ぬいぐるみが、どうしたっていうんだっ」
「これ、ぬいぐるみではないんです」
「は? 何を……」
「これはバックなんです。見て下さい。ここに背負う時に腕を通すヒモがついてますよね。そしてバックなら当然……」
 真誉はクマの腹にあるチャックを空け、慎重に手を入れ、そして一葉の皺だらけの色褪せた写真を取り出した。それは紛れもなく美和たちの家族写真だ。
 真誉は信太郎の目をじっと見つめる。
「この写真をどう説明されるんですか」
 目を伏せてしまう。
「……頭に血が上った。そうとしか言えん」
「そんな理由であなたは一人の女の子から父親を奪ったんですか!?
「真誉。落ち着いて!」
 昂奮する真誉を朝香はどうにか(なだ)め、信太郎を見る。
「どうして、そのクマを取って置いたんですか。処分することだって出来たはずなのに……」
 信太郎は自嘲げに口元を歪めた。
「処分? 出来る訳が無い。あいつが娘の為に買ったものなんだぞ。何度も処分しようと思ったが、そのたびにあいつを思い出した。殺したくて殺したんじゃない。あれは事故だったんだ。あいつが、やめたいなんて言い出したから……」
 信太郎はうな垂れた。
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