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文字数 2,914文字

 翌日の午後四時。朝香と徹が向かったのは、北品川にお駅近くにあるビルだ。
 ビルには幾つものテナントが入っている。目標は四階にあるIT関連企業だ。
 私服の多い企業らしいが、それでも落ち着いたモノトーンの洒落たデザインに、ワンレンボディコン、さらにここに来る途中に購入したピンヒール姿の朝香の姿はかなり異質だ。
 これから会うのは、事件当時も聞き込みを受けていた運転手の大野好也だ。
 当時は十九歳の大学生。今はもう五十始め。
 事件調書をひっくり返し、当時実家住まいだった彼の実家の電話番号を探し当てた。そこに真誉が電話をかけ、今もまだ彼がそこに住んでいることを突き止め、アポを取ってくれたのだ。

「大野の方はもうじき参りますので、会議室でお待ち下さい」
「ありがとうございます」
 二十人は入れそうな立派な会議室に案内されてしばらく経つと、白髪の目立った中年太りの男性が現れた。
 朝香たちは立ち上がり、自己紹介をしようとしたが、それよりも先に好也が朝香を見るなり、「春菜さん!?」と目を剥き、後退った。
 朝香は微笑み、「私は法条朝香です。春菜さん……片桐佳子さんの事件を担当しています」と言えば、好也は唖然として呟く。
「そ、その格好は……一体……」
「当時のことをより思い出してもらおうと思いまして。そんなに片桐さんに似てますか?」
「ええ……。本人かと本気で思いました。もう三十年以上も前になるんですね……」
 朝香の向かいに座る好也は、佳子の格好をした朝香の姿を目の当たりにして、落ち着かない様子だった。
 朝香が話を促す。
「片桐さんとは親しかったんですか?」
 好也は寂しそうに首を横に振る。
「親しいなんて……。ホテルに送る途中、車内で少し話をする程度です。年も近かったせいか、春菜さん……片桐さんが僕をよくドライバーとして使ってくれたので」
「それ以上の関係はない?」
「当然じゃないですか。片桐さんには恋人がいましたから」
「恋人がいる事はご存じなんですね」
「その程度の世間話はしましたから」
 徹は言う。
「あなたは事件当夜、車で片桐さんの帰りを待っていたんですよね」
「そうです。春菜さんの時間が来るまで、何人か別の人の送迎を行って……。それで待機場所に連絡があったので、迎えに」
「どうして片桐さんは、青山墓地なんかに?」
「その日は道も混んでいたので、遅れてしまったんです。当時はケータイなんてありませんでしたから、痺れを切らしたのかもしれません」
「でもタクシーもあったでしょう」
「あの時代、タクシーなんてとても捕まりませんよ。それに自腹を切ってタクシーを使っても店が補填してくれる訳じゃありませんし」
「彼女が誰かと揉めていたという話は?」
「私の知る限り、無かったと思います」
 好也の瞳には切ない色が滲んだ。
「坂本清という名前に覚えはありますか?」
「さあ。知りません」
「おかしいですね。坂本さんという方は、片桐さんを何度も指名して、あなたの店では有名だったそうですが」
「そんなこと言われても。もう三十年も前の話ですから、細かい記憶は忘れていますよ」
「でも片桐さんのことは覚えていた。うちの相棒の姿を見るなり、すぐ片桐さんを思い出されたのに」
 好也は表情を曇らせた。
「すいません。これは尋問なんですか?」
 朝香は控え目な笑みで首を横に振る。
「いいえ。申し訳ありませんでした。お時間を割いて頂いてありがとうございます」
「……犯人を早く捕まえて下さい」
 好也は立ち上がり踵を返そうとするのを朝香は呼び止める。
「大野さん。こちらは私の番号です。もし何か思い出したことがあれば連絡を……」
 好也が振り返った。目があった瞬間、脳裏で眩い光が弾けた。
 意識した時にはその光に目の前が塗り潰されていた。
 蘇る光の世界。その先に映像が浮かび上がる。
 
 室内……いや、それは車の中。
 佳子の視点で語られる、意識の断片。
運転席にいたまた若く、大人しそうな青年――好也が身体をひねり、後部座席の佳子を見る、という構図。
 ――片桐さん。いい加減、あんな男と別れるべきですっ。
 佳子は面食らう。
 ――突然、どうしたの?
 ――頬にアザが。あいつに殴られたんですよね。化粧で隠してても分かります。
 ――あいつって……あなたには関係無いでしょう。美保子ね? あなたに告げ口したんでしょう? 二人とも、勘弁してよっ!
 ――違います! 美保子さんは関係ありません! ぼ、僕は……!
 ――良いから、早くホテルに連れてって! 店長に言うわよ!?
 好也は口を何か言いかけるが、諦めたように俯き、前を向く。
 佳子から伝わってくるのはそのきつい言葉とは裏腹な、切ない気持ちだった。
 車内にたれこめる沈黙。そして映像は終わる。

 朝香が目を開ければ、徹と好也が心配そうな眼差しを向けていた。
 小さく咳払いをした朝香は愛想笑いする。
「す、すいません。ちょっとぼーっとしていました」
 
 課に戻った朝香は、倉庫で大野好也と対面した際に見た映像について教えた。
 すると真誉が昂奮して、目を輝かせる。
「さすがは眩映ですね!」
 後輩の言い出した謎ワードに朝香と徹は顔を見合わせる。
「げん、えい?」
 元気いっぱいな後輩は語る。
「朝香先輩の見ている映像の名前ですよ! ただ映像だと味気ないですから、名前つけたほうが特殊能力っぽいですもん。目映い光の中で映るもの――眩映、です!」
 朝香は苦笑してしまう。
「私って何かの能力者? 超人みたいな?」
 徹は呆れたように肩をすくめる。
「こいつが見てるのが本当かどうかも分からないのに、よくそんなに昂奮できるよな」
 真誉はニヤニヤする。
「そんなこと言って、朝香先輩が話してくれたことを黙って聞いてたじゃないですか」
 徹は後輩に指摘されて慌てる。
「あ、あれはとりあえず参考程度に聞いてただけだ。別に頭から信頼してる訳じゃ……」「はいはい。そもそも私たちは人手が足りないんですから、朝香先輩の見たものにはある程度耳を傾けても良いと思うんです。だからこそ眩映って言った方が通じやすいんじゃないかっていう話です」
 朝香は苦笑しつつ、「それじゃ話を進めましょう」と続ける。
「吉良さん。眩映の中の大野さんは、かなり熱心に片桐さんのことを心配していました。心配の余り、頑なに、恋人と別れようとしない片桐さんにかなり苛立っている様子で……。片桐さんは大野さんを撥ね付けましたけど胸中は、複雑なようでした。片桐さんが首を絞められる直前に感じた切ないような、嬉しいような……あれに近い物です」
 真誉が顔を曇らせる。
「つまり大野さんが?」
 朝香はかぶりを振る。
「そう言えるだけの証拠はないわ」
 徹は腕を組んだ。
「DV夫とそれに尽くす健気な妻。そしてその妻を必死に説得しようとする大学生、か。まず二人の関係について探りをいれよう」
 朝香は頷く。
「分かりました」
 真誉も言う。
「私も調書をもう一度チェックします」
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