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文字数 4,120文字

 法条朝香が未解決事件・再捜査課のある大森庁舎に出勤すると、課に一番乗りらしい真誉がデスクを拭いていた。
「真誉。おはよう」
 朝香が声をかけると、真誉は可愛い笑顔を向けてくれる。
「朝香先輩。おはようございますっ!」
「そんなことしなくても良いわ。自分でやるから……」
「いえいえ。先輩方に気持ち良く仕事をして頂くのも私の重要な任務と思っています!」
「そ、そう?」
 デスクを拭き終わった真誉は、次に花を生け始める。
 小さなピンク色の花びらだ。
「綺麗な花ね」
「コスモスです。出勤した時にお花屋さんで見かけて、可愛いって衝動買いしちゃいました」
「花って衝動買いするものなのね」
「はい!」
 真誉は上機嫌。
(あぁ……可愛い花をもってるの、画になるわねぇ……)
 朝香は真誉をしみじみ思う。
 小柄で童顔な真誉だからこそ、だ。
 それこそ自分がコスモスを持って立っていても、誰もコスモスになど目が向かず、あそこにデカい女がいるぞ!としか思わないだろう。
 実際、高校二年の文化祭の時に演劇部に頼まれて役者をやったことがあった。
 内容は童話のシンデレラを現代風にアレンジした、結婚後のシンデレラという嫁姑問題にフィーチャーした怪作。朝香は王子役。休憩中、どうしても王女のドレスが着たくって、こっそりお願いして着たのだが、そもそもサイズが小さすぎてつんつるてん。ドレスを飾っていた可愛いフリルが何か得体の知れないものが絡みつき、垂れ下がっているようなグロテスクなものにしか見えない。
 それを見た部員たちに大笑いされ、その時は朝香はふざけて周りを笑わそうとしたかのようなフリをしたが、乙女心はかなり傷ついた。
(……憂鬱になってきた)
 花子を思いだし、朝香は溜息を漏らしてしまう。
 真誉は朝香の顔を覗き込んだ。
「先輩? どうかされたんですか」
「……現実を噛みしめてる所」
「え?」
「もう! 本当に真誉は可愛い。私も真誉みたいになりたかった……」
「でも私なんて何の取り柄もありませんし……。私は朝香先輩みたいに格好良い女性になりたかったです」
「格好良い?」
「そうです。私の同期の中で朝香先輩って人気があるんですよ。捜査一課の女刑事ってドラマみたい!って」
「その同期って男?」
「……え? 女性ですけど」
 思わず、あははは、と朝香は乾いた笑いを漏らしてしまう。
「嬉しくないわけじゃないけど、同性に好かれるのはもうお腹いっぱい、かなー?」
「あー、やっぱり。朝香先輩。モテそうですよね……女の子から」
「どうせ身長が伸びるんだったらもっと高くなりたかったし、でなきゃ真誉くらい華奢になりたかったわ……」
「そうなんですか?」
「中学はバレー部でね、高校でも続けたかったんだけど、中途半端な所で身長が止まっちゃってね。あのままぐんぐん伸びてくれればねぇ」
「それでソフトテニスを?」
「そ。手足が長いからバンバン打ち返せるし。実際、人よりも歩幅も大きいから、結構強かったのよ?」
 しかし真誉も真誉で言いたいことがあったらしく。
「でも私はスマートなスタイルに憧れます。こんなちんちくりんじゃなくって……。でもうちの両親はどっちも背が低くて。今の身長でも御の字って思わないと」
「お互いに無い物ねだりってこと?」
「ですね」
 笑いあう。そうこうするうちに徹や、課長の愛一郎が出勤してきた。
 
 前回のように訪問者があることが稀であることを、朝香は着任してから間もなく知ることになる。ここ数ヶ月やることと言えば課員総出の過去事件のデータベースの入力業務や、事件の調書を見返し、足りない資料があればその事件を担当した所轄の刑事課に頼んで送って貰う――の繰り返しで、気付けば十月。
 捜査一課でも事務作業はあったが、月に一度や二度は捜査本部や殺害現場に足を運んでいた。その頃が懐かしく思えるような穏やかな日々。
 とはいえ、適当な事件の現場に行って眩映を見る訳にもいかない。正直杜撰な調書も混ざっており、どこまで被害者に共鳴できるか分からないからだ。事件が解決出来なければ、被害者とずっと同居という状態になりかねない。
 その為にはやはり、新しい証言や証拠が必要なのだ。
 朝香がペンを回しつつ無味乾燥な調書を眺めていると、不意にノックの音が聞こえた。
「はい!」
 真誉が扉を開けると、初老の男性を先頭に、若い男女が部屋に入ってきた。
 分厚い眼鏡をかけた初老の男性が聞く。
「こちら、未解決事件を扱っている部署ですか?」
 真誉は頷く。
「え、ええ……そうですが」
「こちらの責任者の方は?」
「私でございますが」
 愛一郎が立ち上がると、初老の男性が近づく。
「実は再捜査をお願いしたい事件がございまして」
 朝香の傍に真誉が近づき、こっそり言う。
「あの人たち、何でしょう」
 徹までやってくる。その目は好奇心に輝いていた。
「胸のバッジを見たか? あいつら、弁護士だぞ」
 朝香は眉を顰める。
「他の課ならいざ知らず、弁護士がどうしてうちに?」
 真誉が言う。
「文句を付けに来たんですかね」
 課員三人がヒソヒソ言っているところに、愛一郎の声が聞こえる。
「吉良君、法条君。こっちへ。犬童君は八王子女児誘拐事件の資料を持って来て下さい」
「りょ、了解です!」真誉が慌てて部屋を出ていく。
 朝香たちは弁護士たちの方へ向かう。
 初老弁護士が朝香たちに不躾な視線を向ける。
「捜査員は、たったこれだけなのですか?」
 朝香はムッとしたが、愛一郎が代弁してくれる。
「捜査は数ではありません。丁寧さこそ事件解決の早道と考えております」
 完全に理解したかは分からなかったが、初老弁護士は愛一郎に言う。
「1990年5月。八王子で槇村叶子という少女が行方不明になりました。当時小学校二年生です。そして容疑者として逮捕されたのが、私が弁護した向井武夫。事件数日前に被害者と話していた所を見られています。そして向井にはこれまで児童に対する猥褻行為で幾つもの前科があった……」
 話だけでも胸くその悪い事件だ。
「警察の取り調べに対して向井は自白しましたが、裁判ではそれらを否定。最高裁まで争いましたが、結局、有罪判決は覆らなかった」
「よくある手さ」
 徹が嘲るように言うと初老弁護士だけでなく、そのお付きの弁護士にまで睨まれた。
 徹は肩をすくめる。
「だってそうだろ? 取り調べで刑事から高圧的な尋問を受けたって、前言をひっくり返すのは日常茶飯事だろ」
「彼は涙ながらに自分はやっていないと言ったんだ。他に悪いことはしてきたが、槇村叶子ちゃだけの件は無実だ」
 初老弁護士は眉を顰めた。
「まあ、あんたらが犯罪者の言葉をどう受け止めようと勝手だけどな、それでこっちに文句を言われても困る」
「当時、向井を取り調べたのが、警視庁捜査一課の頭山永男警部だとしても?」
 それまで達者に喋っていた徹は口ごもる。
 朝香もその名前が出て来たことに驚きを禁じ得なかった。
 頭山永男は戦後直後から活躍した名警部で、幾つもの事件の解決に寄与し、時代劇の登場人物と重ね、頭山裁きと言われて世間から褒めそやされた――彼が亡くなるまでは。
 死後に彼が拷問や精神的圧力を加え、容疑者を追い込み、自白を強要。さらに上層部がそれを黙認したという不祥事が発覚。彼が担当し有罪に持ち込んだ事件は再審請求がなされ、ことごとく再審開始となり、下級審判決ではすでに幾つも無罪が出ている。
 初老弁護士は目を伏せた。
「恥ずかしい話だが、私は向井から暴力的な取り調べを受けた時、問題にはしなかった……。私も内心では彼を疑っていた。そうして判決が確定して収監されて間もなく、向井は胃癌で他界した。向井は被害者をどこにやったのか結局、供述しなかった」
 朝香は聞く。
「でもどうして今頃?」
「数週間前、八王子のとある廃屋に不法侵入した若者のグループが遺体を発見し、通報したんだ。遺体の歯の治療痕やまとっていた衣服から、行方不明だった被害者と断定した。遺体には後頭部に損傷はあったが、他に損傷はなし。強姦するならば、その損傷は骨格に残るはずだ」
 徹が言う。
「いたずらしたけど、騒がれて殺したんじゃないのか?」
「それはない。遺体が発見されたのは廃屋の地下だ。向井は暗所恐怖症だ。廃屋は昼でも暗く、彼が行けるとは思えない。これは精神鑑定でもしっかりと証明されいる事実だ」
 朝香は眉を顰める。
「犯人は別にいる、と?」
「そうとしか思えない。どうか再捜査をお願いしたい。君たちも先輩が犯した失敗をそそぐチャンスだと思うが」
「随分と偉そうに――」
 徹が何かを言いかけるが、愛一郎が遮る。
「では再捜査にかかりたいと思います。しかしあなた方の望む結果になるとは必ずしも限りませんが」
 初老弁護士は頷く。
「再捜査の過程で第三者による犯行の可能性が浮上すれば、それで十分です。それと出来ればそちらの捜査員の参加は……」
 初老弁護士は徹を見るが、愛一郎は好好爺然とした笑みを見せながら、一歩も引かない。
「彼は私情を交える人間ではありません。私が保証致します」
 初老弁護士は徹をじろりと見ながら、「だと良いのですが……」と部下を引き連れて部屋を出て行った。
 愛一郎は、むっとして弁護士たちの背中を睨み付ける徹に告げる。
「吉良君。相手は容疑者でも何でもないんですよ。落ち着きなさい」
 徹は盛大に舌打ちする。
「……分かってます。でも弁護士って人種は信用ならないんですよ、マジで。金の為に臆面もなく犯罪者を庇いやがって!」
 そこへ真誉が二つの箱を軽々と抱えてきた。
「お待ちどうさまです! ……って、弁護士の方々は?」
「もう帰ったわ。真誉、ご苦労様」
「あ、朝香先輩。駄目ですよ。かなり重たいですから」
 ここは素直に従って置いた方が良い。下手に助力すると、こっちが腰を痛めてしまう。
「そんじゃま、資料を見てみるか」
 徹が腰を持ち上げた。
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