2-5
文字数 3,499文字
それから二日後、大森庁舎に槇村悟が訪ねてきた。確認して欲しい書類があるのだが、奥様には少し刺激が強いから事前に確認して欲しい――という名目だ。
出迎えた朝香は「わざわざご足労頂きありがとうございます。さあ、奧の部屋へ」と促す。
そこには徹が待っている。
悟は異変を感じたらしく、不安そうに朝香を見る。
「確認の書類というのは……」
徹が言う。
「お座り下さい」
悟は恐る恐る椅子に腰を下ろす。
徹が悟を見つめれば、悟の目には困惑が浮かぶ。
「悟さん。嘘をつかれましたね」
「嘘? 私は……」
「叶子ちゃんが行方不明になったであろうその夜。仕事で帰宅が遅くなったそうですね」
「え、ええ……。それが?」
「我々の調べでは、あなたは速い時刻に在宅していたということが分かっています」
「調べ? どういうことですか。私は調べられるようなことは――」
「あなたと奥様が口論をしていたことを、近所の方がよく覚えておいででしたよ」
顔を強張らせる悟の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そ、そんな昔のこと……覚えてる訳が。良い加減なことは……」
「それがそうでもないんです。近所のお宅の娘さんが行方不明になった前日に起きたことですから。一時期、近所ではあなたが関わっているのではという噂が出回ったこともあったそうじゃありませんか」
「あんなのは出鱈目です! 私が娘を傷つけるなんてありえません!」
しかし徹は追及の手を緩めない。
「あなたは酒に酔うと物に当たったり、奥様に手を上げられたりするそうじゃ、ありませんか」
「娘に手を上げたことなどありません……」
「物に当たることは否定なさらないんですね」
「そ、そんなことは……」
悟の声は震え、両手はぎゅっと握りしめられる。
「一度我々に嘘をついたあなたの言葉を信じろと?」
悟は目を伏せる。
「刑事さん……申し訳ありません。嘘をついたのは怖かったからです。あの夜、私が酔っていなければ、あの子は生きていたのだと思わずにはいられず……も、申し訳ありません。しかし私は本当に娘を傷つけるなんて……っ」
悟は声を詰まらせ、消え入らんばかりの涙に濡れた声で謝罪を繰り返す。
朝香は目を背ける。朝香の中の幼い叶子が、親が泣いていることに不安を感じているかのように、こみあげるものがあったのだ。
同時に、頭の中で光が爆ぜる。
見えたのは二人の言い争う声。悟と、妻の友紀子だ。
声もクリアにありありと聞こえる。
――酒くらい好きに飲ませろ! 一体誰のお陰で生活出来てると思ってるんだ!?
――大きな声を出さないでっ
――近所迷惑かっ!? 関係あるかっ!
――叶子が起きちゃうわっ。
――知るか!
悟はテーブルに置かれていた夜食を床へ落とす。皿やグラスが割れて粉々になる、けたたましい音が響き渡った。
言い争う二人は、自分たちを見つめる存在に気付いていない。
恐らくリビングダイニングの出入り口からの視点だ。低い位置から見上げた烈火の如く怒り狂っている悟に、幼心に恐怖を抱く。
それから視点は、玄関へ向かって駆け出す――。
目映い光が収束し、無味乾燥な取調室に戻る。
思わず壁に手をついて身体を支える格好になった朝香は徹に促されて、外に出る。
「何を見た? 向井は?」
朝香は自分が見た物を教えた。
「……叶子ちゃんは両親の喧嘩を目の当たりにして怯えていました……。そして家を飛び出した。どこに行くつもりだったんでしょうか。近所に同級生は住んでいませんでしたし……」
「目的地なんてあるわけないだろ。怖くて仕方なく、家にいたくなかったんだ。そして外を出歩いているときに向井に……」
徹はそう言うが、朝香はそう簡単に頷けなかった。
「でもあんな小さな子です。何の心当たりも無く外に出るはずありません。私、小さな頃に一人で留守番をしてた時、親に見ちゃいけないって言われてた怖い映画を見たんです。最初はワクワクしてたけど、本当に怖くなってきて……。自分の部屋へ行って、布団をかぶって震えてました」
「それがどうした。お前の思い出話なんて知るか」
「子どもにとって、自分の部屋以上に安心出来る場所はないってことです」
「叶子ちゃんとお前は違う」
「そうです。違います。そして吉良さんは刑事です」
徹は怪訝な顔をする。
「何言って……」
「向井に固執するのはやめて下さい」
「誰が固執なんて」
「さっき言いましたよね。向井は、って……。吉良さんはずっと向井が犯人である証拠を探しています。我々は再捜査をしているんです。前の捜査と同じ視点で物を見てどうするんですか」
「知った風な口を……」
「私だって刑事です。場数は踏んできたつもりです。何よりここの捜査員の一人として、知った風な口を利く権利はありますっ」
徹の圧力に負けじと見つめ返せば、言葉に窮した徹の方が目を逸らした。
「戻りましょう」
再び朝香たちが取調室に入る。徹は出入り口で腕を組み、壁にもたれかかる。
徹に代わって、朝香は悟と向き合う。
悟は完全に怯えきっている。
「娘さんがご自宅から歩いて行ける距離で、自発的にどこかへ行くとして、見当がつく場所はありますか?」
「……あの子は小学二年です。一人でどこかへ行くなんてありえません」
「誠さんと叶子ちゃんは仲が良かったんですよね」
「ええ。妻も当時はパートで遅くなることもありましたし、叶子の面倒を見てたのはもっぱら誠でしたから」
「よく二人は出かけてましたか?」
「ええ。近所のスーパーに行ったり、公園に行ったり。あの年頃の子どもだから、妹の存在を煩わしく思ってもおかしくはないんでしょうけど、そういうこともありませんでした。本当に仲の良い……」
悟は何かをこらえるように唇を引き結ぶ。
朝香は質問を続ける。
「叶子ちゃんの行方が分からなくなってから、息子さんの様子はどうでしたか? 荒れたりしましたか?」
「いいえ、特には……。でもその時にはとうに父子の縁は切れていたんでしょう。娘が失踪した日に私たち夫婦が喧嘩をしていたことも、気付いていたようですから」
「それについて責められたりは?」
悟は悲しそうな笑みをこぼす。
「……いっそ責められた方が気が楽になったでしょう」
「息子さんが合宿から帰宅されて、妹さんの行方が分からないと知った時の反応はどうでしたか?」
「息子を疑っているんですか?」
「お答え下さい」
「……そのことは覚えています。その場で荷物を放り出して血相を変えて探しに……。あの子にとっては私どものこともありましたし、自分が不在の時におきたことで要らぬ責任を感じてしまったんだと思います。本来ならば息子が責任を感じることなどないはずなのに……」
「どちらに行ったかは分かりますか……?」
「山の方だったかと……。警察が山狩りをしているから行くなと声をかけたのですが、私の言葉など見向きも、されませんでした」
「息子さんが家に戻ってきたのはいつくらいでしたか?」
「それは覚えていません。ただそれからはしばらく部屋に籠もりっぱなしでした。そうこうするうちにあの向井という男が逮捕されて……」
「そうですか」
悟を外まで見送り終わると、徹は朝香に言う。
「お前、槇村誠を疑ってるのか」
朝香は否定する。
「違います。家を飛び出した叶子ちゃんがどこに行きたかったのか知りたかっただけです」
「誠さんは山の方へ探しに、って言ってたよな」
「でも誠さんはあの廃屋は知らなかったと言ってました」
「誠さんが妹を? そんな馬鹿な。第一、合宿でいなかったんだぞ」
「でも山の方へ行かれたということは何か心当たりがあったんじゃないでしょうか」
「知らないと言われたらそれまでだぞ。犯人が心当たりがあるならとっくに話してるはずだろうし
「吉良さん、ご存じですか。あの廃屋は幽霊屋敷だそうです」
徹は顔を顰めた。
「勘弁しろ」
「人魂を見たり、啜り泣きを聞いたり……それの目撃談があった時期というのは、叶子ちゃんふが失踪した時期と重なるんです」
「まさか、叶子ちゃんの幽霊の仕業なのか? お前の中にいる叶子ちゃんがそう言ってるのか?」
「本当にそれが叶子ちゃんの仕業なのか見に行きませんか。明後日はちょうど、叶子ちゃんが失踪した日ですから」
徹は何かを考えるようにしばらく黙っていたが、不意に口を開く。
「――新しい眩映が見られる可能性がある、な……。ダメ元で行ってみるか」
出迎えた朝香は「わざわざご足労頂きありがとうございます。さあ、奧の部屋へ」と促す。
そこには徹が待っている。
悟は異変を感じたらしく、不安そうに朝香を見る。
「確認の書類というのは……」
徹が言う。
「お座り下さい」
悟は恐る恐る椅子に腰を下ろす。
徹が悟を見つめれば、悟の目には困惑が浮かぶ。
「悟さん。嘘をつかれましたね」
「嘘? 私は……」
「叶子ちゃんが行方不明になったであろうその夜。仕事で帰宅が遅くなったそうですね」
「え、ええ……。それが?」
「我々の調べでは、あなたは速い時刻に在宅していたということが分かっています」
「調べ? どういうことですか。私は調べられるようなことは――」
「あなたと奥様が口論をしていたことを、近所の方がよく覚えておいででしたよ」
顔を強張らせる悟の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そ、そんな昔のこと……覚えてる訳が。良い加減なことは……」
「それがそうでもないんです。近所のお宅の娘さんが行方不明になった前日に起きたことですから。一時期、近所ではあなたが関わっているのではという噂が出回ったこともあったそうじゃありませんか」
「あんなのは出鱈目です! 私が娘を傷つけるなんてありえません!」
しかし徹は追及の手を緩めない。
「あなたは酒に酔うと物に当たったり、奥様に手を上げられたりするそうじゃ、ありませんか」
「娘に手を上げたことなどありません……」
「物に当たることは否定なさらないんですね」
「そ、そんなことは……」
悟の声は震え、両手はぎゅっと握りしめられる。
「一度我々に嘘をついたあなたの言葉を信じろと?」
悟は目を伏せる。
「刑事さん……申し訳ありません。嘘をついたのは怖かったからです。あの夜、私が酔っていなければ、あの子は生きていたのだと思わずにはいられず……も、申し訳ありません。しかし私は本当に娘を傷つけるなんて……っ」
悟は声を詰まらせ、消え入らんばかりの涙に濡れた声で謝罪を繰り返す。
朝香は目を背ける。朝香の中の幼い叶子が、親が泣いていることに不安を感じているかのように、こみあげるものがあったのだ。
同時に、頭の中で光が爆ぜる。
見えたのは二人の言い争う声。悟と、妻の友紀子だ。
声もクリアにありありと聞こえる。
――酒くらい好きに飲ませろ! 一体誰のお陰で生活出来てると思ってるんだ!?
――大きな声を出さないでっ
――近所迷惑かっ!? 関係あるかっ!
――叶子が起きちゃうわっ。
――知るか!
悟はテーブルに置かれていた夜食を床へ落とす。皿やグラスが割れて粉々になる、けたたましい音が響き渡った。
言い争う二人は、自分たちを見つめる存在に気付いていない。
恐らくリビングダイニングの出入り口からの視点だ。低い位置から見上げた烈火の如く怒り狂っている悟に、幼心に恐怖を抱く。
それから視点は、玄関へ向かって駆け出す――。
目映い光が収束し、無味乾燥な取調室に戻る。
思わず壁に手をついて身体を支える格好になった朝香は徹に促されて、外に出る。
「何を見た? 向井は?」
朝香は自分が見た物を教えた。
「……叶子ちゃんは両親の喧嘩を目の当たりにして怯えていました……。そして家を飛び出した。どこに行くつもりだったんでしょうか。近所に同級生は住んでいませんでしたし……」
「目的地なんてあるわけないだろ。怖くて仕方なく、家にいたくなかったんだ。そして外を出歩いているときに向井に……」
徹はそう言うが、朝香はそう簡単に頷けなかった。
「でもあんな小さな子です。何の心当たりも無く外に出るはずありません。私、小さな頃に一人で留守番をしてた時、親に見ちゃいけないって言われてた怖い映画を見たんです。最初はワクワクしてたけど、本当に怖くなってきて……。自分の部屋へ行って、布団をかぶって震えてました」
「それがどうした。お前の思い出話なんて知るか」
「子どもにとって、自分の部屋以上に安心出来る場所はないってことです」
「叶子ちゃんとお前は違う」
「そうです。違います。そして吉良さんは刑事です」
徹は怪訝な顔をする。
「何言って……」
「向井に固執するのはやめて下さい」
「誰が固執なんて」
「さっき言いましたよね。向井は、って……。吉良さんはずっと向井が犯人である証拠を探しています。我々は再捜査をしているんです。前の捜査と同じ視点で物を見てどうするんですか」
「知った風な口を……」
「私だって刑事です。場数は踏んできたつもりです。何よりここの捜査員の一人として、知った風な口を利く権利はありますっ」
徹の圧力に負けじと見つめ返せば、言葉に窮した徹の方が目を逸らした。
「戻りましょう」
再び朝香たちが取調室に入る。徹は出入り口で腕を組み、壁にもたれかかる。
徹に代わって、朝香は悟と向き合う。
悟は完全に怯えきっている。
「娘さんがご自宅から歩いて行ける距離で、自発的にどこかへ行くとして、見当がつく場所はありますか?」
「……あの子は小学二年です。一人でどこかへ行くなんてありえません」
「誠さんと叶子ちゃんは仲が良かったんですよね」
「ええ。妻も当時はパートで遅くなることもありましたし、叶子の面倒を見てたのはもっぱら誠でしたから」
「よく二人は出かけてましたか?」
「ええ。近所のスーパーに行ったり、公園に行ったり。あの年頃の子どもだから、妹の存在を煩わしく思ってもおかしくはないんでしょうけど、そういうこともありませんでした。本当に仲の良い……」
悟は何かをこらえるように唇を引き結ぶ。
朝香は質問を続ける。
「叶子ちゃんの行方が分からなくなってから、息子さんの様子はどうでしたか? 荒れたりしましたか?」
「いいえ、特には……。でもその時にはとうに父子の縁は切れていたんでしょう。娘が失踪した日に私たち夫婦が喧嘩をしていたことも、気付いていたようですから」
「それについて責められたりは?」
悟は悲しそうな笑みをこぼす。
「……いっそ責められた方が気が楽になったでしょう」
「息子さんが合宿から帰宅されて、妹さんの行方が分からないと知った時の反応はどうでしたか?」
「息子を疑っているんですか?」
「お答え下さい」
「……そのことは覚えています。その場で荷物を放り出して血相を変えて探しに……。あの子にとっては私どものこともありましたし、自分が不在の時におきたことで要らぬ責任を感じてしまったんだと思います。本来ならば息子が責任を感じることなどないはずなのに……」
「どちらに行ったかは分かりますか……?」
「山の方だったかと……。警察が山狩りをしているから行くなと声をかけたのですが、私の言葉など見向きも、されませんでした」
「息子さんが家に戻ってきたのはいつくらいでしたか?」
「それは覚えていません。ただそれからはしばらく部屋に籠もりっぱなしでした。そうこうするうちにあの向井という男が逮捕されて……」
「そうですか」
悟を外まで見送り終わると、徹は朝香に言う。
「お前、槇村誠を疑ってるのか」
朝香は否定する。
「違います。家を飛び出した叶子ちゃんがどこに行きたかったのか知りたかっただけです」
「誠さんは山の方へ探しに、って言ってたよな」
「でも誠さんはあの廃屋は知らなかったと言ってました」
「誠さんが妹を? そんな馬鹿な。第一、合宿でいなかったんだぞ」
「でも山の方へ行かれたということは何か心当たりがあったんじゃないでしょうか」
「知らないと言われたらそれまでだぞ。犯人が心当たりがあるならとっくに話してるはずだろうし
「吉良さん、ご存じですか。あの廃屋は幽霊屋敷だそうです」
徹は顔を顰めた。
「勘弁しろ」
「人魂を見たり、啜り泣きを聞いたり……それの目撃談があった時期というのは、叶子ちゃんふが失踪した時期と重なるんです」
「まさか、叶子ちゃんの幽霊の仕業なのか? お前の中にいる叶子ちゃんがそう言ってるのか?」
「本当にそれが叶子ちゃんの仕業なのか見に行きませんか。明後日はちょうど、叶子ちゃんが失踪した日ですから」
徹は何かを考えるようにしばらく黙っていたが、不意に口を開く。
「――新しい眩映が見られる可能性がある、な……。ダメ元で行ってみるか」