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文字数 4,701文字

二〇一五年七月。法条朝香は自室の部屋の姿見の前に立ち、赤みがかったセミロングの髪を後ろ手で束ねて、咥えていたピンで留める。
 朝の日射しがカーテンを透かし、部屋を明るく彩る。
 一年以上前もこうして姿見の前に立って、意気込んだが、結果は芳しくなかった。
 久しぶりの現場復帰である。
 エアコンを停めると、すぐに汗ばむ初夏。
 顔の角度を変え、寝癖がついてないかもしっかり確認した。
「大丈夫……。次は絶対にうまくやれる……」
 朝香は彼女の手には少し大きめのジッポを握りしめ、祈るように口の中で繰り返す。

 警視庁の建物として有名なのが、ドラマや映画でよく見る機会のある虎ノ門の本庁舎だろう。しかし朝香が向かったのは大田区大森。
 そこに警視庁大森合同庁舎がある。地上五階、地下二階のまだ真新しさのある建物だ。
 五年後の東京五輪警備の拠点としての機能を期待されて建設されたものだ。
 そしてそこの地下二階にあるのが、このたび朝香が配属されることになった未解決事件・再捜査課である。
 辞令を手にエレベーターで地下二階へ。
 照明設備はしっかりしているし、施設そのものが建てられてから、それほど間が空いていないこともあいまって地下特有の陰鬱さや、閉塞感はない。
 掃除の行き届いた廊下をしばらく進んだところに、『未解決事件・再捜査課』のプレートの貼られた扉があった。
 朝香は小さく息を吸いこみ、扉をノックする。
「失礼します」
 扉を開け、朝香は敬礼する。
「――このたび辞令を受けて参りました、法条朝香巡査です」
 朝香は勢い込んで言った。
 室内には手前に三つのデスク。部屋の片隅にはパーテーションで区切られた応接セット。 デスクにいるのは二人だ。
 一人はデスクに両足を放り出していた三十代前半と思しきダークブルーのスーツ姿の男性、もう一人は高校生のような童顔に、緩くカールさせたミディアムカット、ブラウス、スカートという事務員らしき女性。
 男性がにこりと微笑んだ。
「お、来たな。新人」
「は、はい」
 朝香は背筋を伸ばす。
 男は立ち上がると、にこやかに近づいて来た。
「そう硬くなるなよ。これから同僚なんだ。――吉良徹巡査部長だ。階級は上だが、気にするな。どうせ安置所じゃ意味は無い」
(安置所……?)
 満面の笑顔を見せた事務職らしき女性が立ち上がった。
「わ、私! 犬童真誉巡査です! ――吉良先輩の言うことなんて気にしないで下さいね!ここはとっても良い部署ですので! よろしくお願いします、法条先輩!」
 深々とお辞儀をした真誉は握手を求めて手を伸ばしてくる。
「おいおい、告白でもする気か?」
「あ、あの……」
 朝香が戸惑うと、徹が苦笑しながら顎を小さくしゃくる。
 朝香は真誉の手を握った。
 顔を上げた真誉はぱあっと笑顔になる。まるで子犬のよう。
(この子、可愛い)
 朝香は思わずそう思った。
 朝香は学生時代から可愛げがないと男子に面と向かって言われてしまうくらい負けん気の強い性格で、それに百七十センチとその図体もあいまって、小柄な――そう丁度、目の前の真誉のような――女性に強い憧れを持っていた。
 真誉は目をキラキラさせる。
「二十代で捜査一課の刑事さんになれるなんて、すっごく尊敬しますっ!」
「……ぎりぎり二十代、だったけどね」
 朝香は今年二十九才。高校卒業をしてすぐ警察に就職し、ずっと捜査一課に配属されることを目標にして来た。
 徹が言う。
「まあだけど捜一上がりがうちにくるなんてどんなヘマをしでかした? まさか上役にセクハラされて、大立ち回りをしたとか?」
「え、あ、あの……」
 朝香は虚を突かれて言葉に詰まっていると、
「先輩! 何いきなり言い出してるんですか、バカですかっ!?
 声を上げたのは真誉だった。
「どうしてお前が怒るんだ」
「そういうことがセクハラなんですよ。総務に言いつけますよ?」
「ただの冗談だろ」
 真誉は尖らせた唇を笑顔で大きくさせ、朝香に頭を下げる。
「先輩とご一緒に働けるのは光栄です! 本当です!」
「私もこうして新しい部署の戦力になれて嬉しいわ」
「あちらが先輩のデスクです。基本的な備品は一通り用意してありますが、足りないものでご入り用なものがあれば仰って下さいね!」
「ありがとう。……それで、課長はどちらに?」
 朝香がキョロキョロすると、徹は肩をすくめた。
「そんなに慌てなくたっていいだろ。時間は腐るほどある。どーせウチは期待されて……」
「――新人君のやる気を削ぐような物言いは感心しませんね」
 振り返ると、ごま塩頭で肩幅の広い初老の男性が歩いてきた。
 徹が苦笑しつつ頭を下げる。
「失礼しました」
 男が朝香を見る。
「……君が、法条巡査ですか?」
「はい。本日付で配属されました法条朝香巡査です」
「ここの責任者の桑原愛一郎警視です。ここの主業務は?」
「未解決事件捜査の分析や調査を行う所だという認識ですが」
 徹が言う。
「表向きはそうだけどな。実体は相談にやってくる被害者遺族の心を宥めて追い返す、みたいなもんだよ」
 すかさず愛一郎が言下に否定する。
「違います。調査及び解決です。相談相手という形で終始しているのは該当事件に関する手がかりが少ない為です。吉良君。新人君の前で嘘はいけませんよ」
 徹は目を伏せた。
「……す、すんません」
「そして我々が預かる事件は、特別法により過去に時効が成立した事件にまで及んでいます。数は膨大ですが、全体の数の多さに圧倒されるのではなく、一つ一つの事件にしっかりと目を向け、真実を究明して下さい」
「はい」
 愛一郎は朝香を見る。
「何か質問はありますか?」
「通常業務についてですが、相談者がいらっしゃらなければ何を……」
「部屋を出て廊下の突き当たりを左に行ったところに捜査資料を保管してある倉庫があります。そこにある過去の捜査資料を見直し、事件解決の端緒を掴む――これが通常業務になります」
「それから、もう一つだけ……ですが、安置所というのは?」
「おい、バカ!」
 徹が慌てたように顔を顰める。
 やれやれと小さく首を横に振った愛一郎は、デスクで頭を抱えている徹を見る。
「――犬童君」
「あ、はい!」
「君は法条君を倉庫へ案内して下さい。私はすこーし吉良君と話がありますので」
 真誉から背中を押され部屋を出る。
「先輩、行きましょう」
「え、あ、ええ……」
 部屋を出るなり、ふぅぅぅぅぅ……と真誉は安堵の溜息を漏らした。
「……私、何か変な事を言っちゃった、のよね……?」
「いえ、良いんです。あれは吉良先輩の自業自得ですから、北条先輩は何も悪く……」
「朝香で良いわ」
 真誉は嬉しそうに頷く。
「はい! それじゃ、朝香先輩。フフ。私、実は職場で女性の先輩って初めてなんです。何だかんだ警察ってまだまだ男社会じゃないですか」
 朝香は苦笑する。
「ごめんなさい。真誉。さっきの話を先にしてもらえる?」
「そ、そうですね。すいません。すぐに話が脱線しちゃって……」
「良いのよ。同性で話してるって気がするし。刑事になってそう感じるのは久しぶりかも」
 あはは、と微笑んだ真誉は言葉を続ける。
「安置所っていうのはうちを揶揄した言葉なんです。……そのぉ」
 真誉は口ごもる。
「大丈夫よ。遠慮せず言って」
「問題を起こした人の行き場というか……でも優秀でぇ……っていう……」
「なるほどね。つまり、あなたもその一人?」
「……私はー、どうなんでしょ。でも吉良先輩は口は悪い人ですけど、かなり優秀な人ですし、課長も包容力もありますし、ダンディで素敵なんです! ですから、朝香先輩まで来てくださって私、テンションめちゃくちゃ上がってます!」
 真誉はそう鼻息荒く言った。
「そう言って貰えて嬉しいわ」
 と、朝香は真誉のしているアシルバークセサリーに目を留めた。
「真誉。そのネックレス、綺麗ね。恋人からのプレゼント?」
 真誉ははにかみつつ、ネックレスをそっと抓んだ。綺麗な雪の結晶を模した飾りがついている。
「これ、父からなんです」
「そうなんだ。趣味の良いお父様ね」
「……はい」
 一瞬、彼女の顔に寂しげな色が過ぎったように見えた。
 しかしそれはすぐに消え、真誉はとある扉の前で足を止めた。
「こちらが倉庫です」
 部屋に入ると夥しいほどのラックが置かれ、段ボール箱がぎっしりと置かれていた。
 百以上はあるだろうか。
 朝香は思わず足を止め、唖然として室内を見回す。
 肩を並べた真誉が苦笑する。
「……やっぱりビックリしちゃいますよね」
「これって全部、未解決事件の捜査資料……?」
「ここ五年、十年のものから戦前のものまであるんですよ? あんまりにも量が膨大なものでデータベース化も全然進まなくって。課長には何度か事務員の増員をお願いしてるんですけど、予算の都合上難しいって言われちゃって」
 朝香はラックの間を歩きながら、ずらりと並んだ段ボールを見て回る。
 適当に一つの段ボールを取ろうとする。しかしそのずしりとした重みに驚く。
 そこに真誉が来る。
「あ、私がやります」
「駄目よ。これすごく重くって……」
「大丈夫です」
 真誉はひょいと段ボールを抱え上げ、傍にあった机に置く。
 朝香は目を丸くする。
「……真誉、すごい力持ちなのね」
「はい。高校時代はウェイトリフティングで国体に行きましたので!」
「す、すごいわね」
「先輩、高校時代は部活やられてました?」
「ソフトテニス。遊び程度ね」
「私は全然ボール球技とか駄目なんです。身体が全然追いつかなくって」
「私ももうあの頃みたいに、身体は動かせないわ」
「ふふ。それじゃ私は戻ってますから、何かあれば声をかけて下さい」
「ええ。ありがとう」
 朝香は段ボールのフタを開ける。
 そこにはファイルや当時の証拠品などが収められている。
 段ボールの側面には1985年と走り書きされている。
(今から三十年以上前。……バブルがはじまる直前ね)
 ファイルをパラパラとめくる。
 殺害されたのはホテトルをしていた二十三才の女性、片桐佳子。源氏名は春菜。
 1985年の夏。絞殺されて、青山霊園そばの路上に遺棄されているところを発見。当時はラブホテルで業務を行い、事務所へ帰宅する途中と見られる。彼女を迎えに行ったドライバーの話ではいつまで待っても佳子はやってこず、ホテルを訪ねるもすでにチェックアウトした後(これは受付の証言で裏が取れている)。
 ホテルから車の待ち合わせ場所に向かう途中で襲われたと推定。
 警察は車のドライバーや客に事情聴取するも手がかりはなし。
 2000年代に一度時効が成立している。
 ファイルには当時、鑑識によって撮影された現場写真も添付されている。
 胸元の大きく開いたドレス姿の佳子が、仰向けで路上に寝かされていた。首には青痣がくっきりと残った痛ましい姿。
 そして何より殺害当時、彼女は妊娠初期だった。
(ホテトル……?)
 聞き馴れない言葉にスマフォで検索しようとしていると、
「――朝香先輩」
 はっとして振り返ると、真誉がいた。
「お邪魔してすみません」
「ううん。大丈夫。どうかした?」
「お客様です。課長が会うようにと」
「……お客様?」
「過去の事件の関係者の方のようです」
「ここの通常業務ね。分かったわ」
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