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文字数 3,383文字

 翌日の夕方。
 大野好也は前日に電話で約束した時刻通りに、大森庁舎へ来た。
 その時も朝香はワンレンボディコンだったが、好也は一度も見なかった。意識してそうしているようだった。
 徹は奧の部屋を示す。
「奧の部屋へどうぞ」
 そこはマジックルームに椅子とテーブルだけがある取調室だ。
 聞き手は朝香と徹だ。
 真誉がアイスコーヒーを三人分、出してくれる。
「アイスで大丈夫でしたか?」
「え、ええ……」
 やっぱり好也は朝香を意識するまいとするかのように伏し目がちだ。
 朝香は好也のことを気にしながら、ミルクを入れる。掻き混ぜることなく、表面に溜まったミルクはコーヒーと混ざることなく、淡い霞のようにそこにある。
 好也は釣られるようにミルクの流れを、目で追いかける。
 そこに徹が話しかける。
 好也はびくっと反応した。
「……あなたが片桐さんに、ただの従業員同士以上の想いを抱いていたという証言がこちらにはあるのですが、本当の所はどうなんですか?」
 好也は強張った笑顔を見せる。
「そ、そんなことありえませんよ。誰が言ったか知りませんけど……」
「ですが、従業員の方から見ると明らかだったそうです」
「そんなことありません。僕がそう言っているんですから。そう見えてただけでしょう」
「本当に?」
 徹が鋭い眼差しを向けると、好也は目を逸らした。
「ええ……。そうです……」
 話手を交代する。朝香は徹とは打って変わって柔らかな口調で問いかける。
「坂本清さんという方の名前を以前出しましたが、坂本さんはホテルから片桐さんと出た時にあなたと口論になり、二度と近づくなと脅されたと仰っていました」
「知りません。ぼ、僕は……そんなこと……。記憶違いでしょう」
「あなたの写真を見せましたら、間違いないと」
「とにかく知りませんっ」
 朝香が立ち上がると、好也はびくっと反応する。
「大野さん。あなたが片桐さんに対して、特別な想いを抱いていたことは分かっているんですよっ」
「ですから……」
「頬のアザ」
 好也の目が揺れる。
「あなたは片桐さんに恋人と別れるよう車内で言いましたよね。でも彼女は聞かなかった。あなたが片桐さんのことを誰より、心配していたにもかかわらず……」
 好也の引き結ばれた唇が小刻みに震える。
 朝香は目を合わせまいとする好也の顔を、覗き込んだ。
「ですから、僕は何も知らないんです。当時の警察にもそう話しました。怪しい仰るならきっとあの工藤とかいう彼氏がやったんでしょう!」
「片桐さんの恋人、工藤雄馬は同時期に殺害されていました。恐らく片桐さんを殺害したのと同じ犯人でしょう」
「――すいません。そろそろ失礼します!」
 朝香の言葉から逃れるように、好也は立ち上がる。
 徹も立ち上がった。
「大野さん、お座り下さい」
 好也は無視して部屋を出ようとする。
「僕は好意で来たんです。あなた方に従う謂われは無いです」
「大野さんっ」
 朝香が近づこうとするが、
「やめて下さい! まるで僕が何かをしたかのような……」
 好也が乱暴に朝香の手をふりほどき、睨み付けてくる。
 その時。目の前の光景に朝香は気圧され、後退ってしまう。
 もちろん好也の激しい反応に臆した訳でもない。
「法条、どうしたっ」
 徹の声に答える余裕はなかった。
 佳子が好也の背後にいたのだ。
 彼女は青白く血の気のない顔で、首には絞められた痕が生々しくついている。そんな彼女は、好也の背中に覆い被さるようにしがみつき、そのままの格好でゆっくりと左手を持ち上げ、朝香の方に手を差し出してくるのだ。
 朝香はそれに引きつけられるように触れる――瞬間、朝香の頭の奧で光が弾けた。
 押し寄せる目も眩むような光の波。これまでと似ていて全く違う。引きずり込まれるような力が身体を貫く。
 
 それはもう見慣れた光景。片桐佳子が殺害された現場の道路。
 佳子がそこを黙々と歩いている。
 そこに声が響く。
 ――佳子さん。
 佳子が振り返れば、そこには青年が立っていた。大人しそうで優等生そうな印象だ。
 ――大野君、どうしてここに? 車は?
 ――居ても立ってもいられなくなって……。この間みたいな変態オヤジが、いつまた現れるか分からないですから。
 佳子の胸に染みたのは安堵感と温もり。
 好也が駆け寄ってくる。
 ――片桐さん。このまま僕と逃げましょう! あんな男、あなたには相応しくない!
 ――もう、その話はやめて。あなたと私はただの仕事仲間だし、私には付き合ってる人がいる。さあ。戻りましょう。遅くなると店がうるさいでしょう。さぁ、車に……。
 好也が行く手を遮る。
 ――……僕は本気です! あなたがあの男を恐れるんだったら、あの男を殺したって構わない!
 ――な、何を言っているの? 馬鹿なことを……。
 ――僕は本気ですっ!
 ――もういい。タクシーで帰るわ。
 ――片桐さん、答えて下さい!
 佳子は溜息を吐く。
 その胸にあるのはかすかな喜びと痛みだ。それでも彼女は決然として好也に言い放つ。
 ――私、妊娠してるの。
 ――え?
 彼の子どもよ。だから、あなたとどこへも逃げるつもりなんてない。私のことは放って置いて。
 好也は愕然とする。
 ――う、嘘だ……
 ――どいて。
 ――片桐さん。
 ――……あなたの気持ちは嬉しいわ。でもお腹の子の父親は彼なのよ。
 ――こんなに愛してるのに。こんなに……っ!
 ――大野く……
 首に手が伸びる指が首に食い込み、締め付けられてしまう。
 好也は目をぎゅっと閉じながら、腕に力をかけつづける。
 ――あ、ぁあっ、ぁああ……
 佳子の口からは切れ切れの呻きがこぼれる。
 身体が痙攣する。振りほどこうとするが、男の力には敵わない。
 やがて佳子の腕がだらりと力なく落ちた。

「――法条!」
 徹の声に朝香は我に返った。徹が、顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
「……はい」
 朝香は好也を見る。
 好也は身動ぎもせず、その場に立ち尽くしていた。
 徹に身体を支えてもらいながら、朝香は好也を見る。
 好也は顔を青ざめさせ、びくっと小刻みに反応した。
「大野さん。あなたは片桐さんを救おうとしただけなんですよね? 彼女に暴力を振るっていた工藤から……」
 好也の半開きの口元からは、言葉にならない唸りが漏れる。
「あなたは片桐さんから妊娠したと告げられた。お腹の子の父親は、彼女に暴力を日常的に振るっている恋人。でも片桐さんは想いを告げたあなたではなく、工藤雄馬を選んだ……。あなたはかなりショックを受けられたんですよね。そして自分より恋人を選んだ片桐さんに、大きな怒りを覚えた……」
 朝香が一歩踏み出すと好也は一歩引く。さらに彼は後退ろうとして、踵が閉まった扉にぶつかてしまえば、硬質な音が部屋に響いた。
「片桐さんの首には、生々しい手の痕が刻まれていました」
 朝香は左手で自分の首を撫でた。
 その時、アイスコーヒーの氷が、カランと音を心地よい音と共に崩れた刹那。
「ゆ、許して、片桐さんっ!」
 好也は悲鳴を上げ、自分を庇うように身体を抱きしめ、その場に蹲ってしまう。
「あ、あんなことするつもりなかったんだぁっ! 殺すなんて……僕は、あ、あなたを守りたかっただけなんだ! なのに、あなたはあんなクソ野郎のことを選んだ! あなたは顔や身体にアザをつくって……それでもあいつに尽くして! 僕は、僕ぁぁぁぁぁ……!」
 好也は子どものように声を震わせ、泣きじゃくる。
 彼は佳子と会っていた頃の十代の青年に戻っていた。
 徹が静かに告げる。
「工藤雄馬は片桐佳子と同時期に殺されていた。何度も腹を刺されて……」
 好也は真っ赤になって、潤んだ眼差しで徹を睨んだ。
「あんな男に生きる資格なんてない。あんな男さえいなければ、春菜さんは今でも自由で幸せに……僕が幸せに出来たんだ! なのに、あの男のせいで! ――あいつは自分が刺されてる間、どうしてこんなことになっているかも分からないみたいだった。何も言わないで血の泡を吐いて死んだ! 当然の報いだ!」
 好也の上擦った声が、部屋に静かにこだました。
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