2-3

文字数 4,408文字

 叶子(かなこ)の両親は、美山町(みやまちょう)の住宅街の中の一軒家に今も住んでいた。
 朝香たちが訪問すると居間に通される。
「どうぞ」
 叶子の母、槇村友紀子(まきむら ゆきこ)が紅茶と、お茶請けのクッキーを出してくれた。友紀子は物腰の柔らかで上品な婦人だ。
「ありがとうございます」
 朝香は頭を下げる。
 対面に座る初老の男性は、叶子の父親である槇村悟(まきむら さとる)
 その顔には疲労の色が深い。
 八王女署から叶子の遺体発見はすでに伝わっている。
 徹が言う。
「突然、押しかけてしまってすいません」
 悟は構わないと首を横に振る。
「……再捜査、だとか」
 徹は申し訳なさそうに頷く。
「遺族の皆様からすれば、辛いこととは承知しておりますが……」
 悟は言う。
「叶子はあの鬼畜に殺されたんでしょう。だからあいつは有罪に……」
「仰る通りです。ですが、検視報告書によると強姦された形跡はなかったんです。唯一目立つ外傷は後頭部の傷だけ。白骨化したためにそれ以上はどうにも突き止められませんでした」
 すると悟の目先の緊張はかすかに緩んだ。
「……不幸中の幸いと言うか、最悪のことはなかったんですね」
「そうです」
 夫妻は顔を見合わせ、薄く笑む。
「あら……」
 と、友紀子が声を漏らして朝香を見る。
 徹も気付いて、目を剥いた。
「お前、何やってるんだ。テーブルを汚すなよ!」
 朝香はほとんど無意識の行動にはっとなってしまう。
 袋に入れられ小分けされたクッキーを袋の上から潰し、クッキーを欠片にして食べていたせいで、そのカスをテーブルにこぼしてしまっていた。
「す、すいません!」
 朝香は慌てて手でクッキーのかすを集める。
 友紀子は、場違いすぎる朝香の行動を前にしながらも相好を崩す。
「……叶子はよくそうやってクッキーを食べていたんですよ」
 朝香は顔を上げる。
「本当ですか?」
「はい。大きいままだと喉につかえてしまうんで、最初は私たちが袋ごしに叩いて割って上げていたんですが、いつの間にかそれがクセになってしまったみたいで。お菓子はそうしてあらかじめ割ってから……すいません」
 友紀子は目を赤くして、席を立つ。
 悟は溜息を漏らした。
 朝香は尋ねる。
「叶子ちゃんが見つかった建物ですが、行かれたことは?」
「いいえ。まあでも最近では、幽霊屋敷で有名ですね。叶子が生きていた頃はそんな話は無かったと思うんですが……まあ、ここ十年前後ではないかと」
 それは叶子の声なき主張だったのだろうか。朝香にもそれは分からない。
「叶子ちゃんがあそこに一人で行く、という可能性はないでしょうか」
 悟はかぶりを振る。
「ある訳ないじゃないですか。小学二年生ですよ。あんなところまで歩いて行くのだって大変でしょう」
「……そうですね」
 徹が言う。
「娘さんが近所に住んでいた向井と話していたという目撃情報があったのですが。それについては?」
 友紀子が戻ってくる。
「あの男が性犯罪者だというのは逮捕されてから知っていたことです。近所で見かけはしましたが、特に気にしていませんでしたし……」
「娘さんが失踪したことに気付いたのは?」
「失踪した日の翌日です。娘は寝ているものとばかり思っていたので……」
「当日、お二人は何を?」
 悟と友紀子は顔を見合わせた。
 友紀子が答える。
「私はその日は体調が悪くて早くに休んで、夫は仕事から夜遅く帰宅したと思います」
 朝香はファイルを繰る。
「叶子ちゃんにはお兄さんがいらっしゃったかと思いますが、えっと……」
 友紀子が言う。
「誠です」
「誠さんはどちらに?」
 徹が眉を顰める。
「おい、法条。兄の方は失踪の日は家にいなかったんだぞ。空手の合宿で戻って来たのは翌日だ」
「それは分かってます。でも話を聞きたいんです。やっぱりお兄さんだからこそ、見ていたものがあると」
 しかし友紀子と悟の顔は優れなかった。
 徹もさすがに訝しく思ったようだ。
「どうされました?」
 悟は溜息混じりに呟く。
「実はあの子のことは今どこでどうしているか、分からないんです」
 朝香は身を乗り出す。
「失踪ですか?」
「いいえ。高校を卒業して、すぐに就職しましたが、それ以来連絡がつかなくって……。叶子の行方が知れなくなってから、あの子に構ってやれず……それが原因かもしれません。でも誠は、叶子のことをとても可愛がっていました……」
「……そうですか。分かりました。叶子ちゃんの部屋はまだ?」
 友紀子が頷く。
「当時のままに」
「見せて頂いてもよろしいですか?」
「もちろんです」
 捜査をする側にとってはありがたい話ではあるけれど、この家の時間はあの時からまだ停まったままなのだと思うとやるせない。
 犯人が逮捕されても被害者遺族の傷が癒えることはないのだと、これまで何度と知った事実を突きつけられる。
 その上、今回のように犯人は別にいるかも知れないと言われた遺族の胸の内は、計りがたい。警察は本当に無力だ。

「――こちらです」
 二階の廊下の突き当たりの右側の部屋に案内してもらう。
 友紀子にKANAKO、というローマ字のプレートが扉にかけられている。
 朝香は頭を下げる。
「ありがとうございます」
「何かあれば言って下さい」
 部屋を見るのは辛いのか、友紀子は足早に立ち去る。
 叶子の部屋の向かいにはMAKOTO、のプレート。
 朝香たちは叶子の部屋に入る。
 小学二年の女の子の部屋は、ピンクで統一されている。ぬいぐるみがベッドの枕元に置かれ、今後の成長も見込んで購入したであろう小学二年生には少し大きめの勉強デスクにかけられた、ピンク色のランドセル。
 朝香は頬を緩める。
「今の子は良いですよね。色んな色のランドセルを背負えるから。私は正直、赤より黒の方が好きだったんです」
「無駄口は良いから、さっさと手がかりになりそうなものを探せ。映像を刺激するのでも良い」
「眩映、ですってば」
「何でも良い」
 朝香は探してみたが、眩映を見せてくれるようなものはなかった。
「兄貴の部屋を見て見よう」
「勝手に良いんですか」
「両親に見つかったら、俺が対応する」
「……分かりました」
 兄の誠の部屋に入れば、最後に使ったままにされている部屋の真ん中に蹲っている誰かがいた。その姿を見た時、朝香は思わず足を止めた。
 おかっぱ頭の少女――叶子が顔を上げる。そこに表情はない。
 目が合った瞬間、叶子は消えしまう。しかし直後に朝香の脳裏で光が弾ける。
 朝香は目を庇った。
 
 目を閉じても頭の中に光の流れと共に、眩映がなだれこんでくる。
 この部屋で叶子が誰かと、この部屋で一緒に抱き合って震えている場面。
 叶子は誰かの身体に顔を埋め、不安や悲しみ、そして心強さを感じていた。
 ――大丈夫……大丈夫だから……
 シルエットの人物はひび割れ、聞いただけでは声の主が大人か子どもか判別出来ない。 しかしその小柄な体付きから、子どもであることは分かる。それでも叶子よりは一回りは大きいだろうか。
 ――目を閉じて……。何も聞こえない……何も聞こえないから。
 そして光が収束する。

(場所を考えれば、お兄さんの誠さんなんだろうけど……。お父さんかお母さんに叱られた……? それにしては怖がりすぎてる気も……)
 徹が真剣な眼差しを向けてくる。
「見えたのか」
「はい……」
「今度は何だ。ここで何かあったのか?」
「この部屋で泣いている叶子ちゃんを、多分ですけど、お兄さんが慰めているようでした。怖い目に遭ったのかもしれません」
 徹は心底がっかりする。
「子どもだ。どうせ怖い夢でも見たんだろ」
「……かもしれませんけど」
「あの変態野郎を見たって確かな映像が必要なんだよ。じゃなきゃ、あの弁護士どもを喜ばせるだけだ」
「……すいません」
「もう良い。とにかく部屋を調べよう」

「――ただいま戻りました」
 朝香は一人で課に戻ると、子犬のような真誉が一日の苦労も綺麗に消え去るような、愛らしい笑顔を向けてくれる。
「朝香先輩、おかえりなさい!」
「あぁ、真誉! あなたが一服の清涼剤よ!」
 思わず抱きしめてしまう。
「あぁ……朝香先輩……。そんなぁ。ふふ。そう言って頂けて光栄です!」
 真誉もしなだれかかってくれる。
 その時、エホン、と咳払い。
 朝香達は慌てて離れる。
「課長!?
「仲が良いことはよろしいですが、節度を保って下さいね」
 と、真誉がキョロキョロする。
「ところで吉良先輩は?」
「そのまま直帰したわ。ね、吉良さん。ちょっと様子がおかしいみたいなんだけど、分かる?」
 真誉は小首を傾げる。
「さあ……。でも確かに言われて見れば様子、おかしいですよね。こんなこと言うのはあれですけど、いつもはもうちょっと客観的っていうか、冷静なのに、いやにのめりこんでる気が……」
「そうよね」
 真誉が声を潜める。
「ところで眩映は見えたんですか?」
「事件に関わりがあるようなものはなかったけど。それで尚更機嫌が悪くなっちゃって……」
「そうでしたか。でも見たいものが見られる訳じゃないんですから、しょうがないですよね」
「……そうなんだけど」
「今回は被害者の叶子ちゃんの?」
「ええ」
「前回は凄かったですけど、今回は服装や喋り方が、子どもっぽくなるとかじゃないんですね」
「なあに。がっかりしちゃって……。そんなことになったらさすがに外を歩けないわよ。きっと前回は被害者が服に対する思いが強かったんじゃないかしら。でも……」
「でも?」
 朝香はお菓子を潰した時のことを話した。
 真誉は苦笑する。
「あぁ……それは地味に恥ずかしいですね」
「うん。私もほとんど無意識の行動だったから……」
 朝香は言う。
「真誉。実はちょっと調べて欲しいんだけど、叶子ちゃんのお兄さんの誠さんの居場所を知りたいの」
「了解です!」
 真誉は元気よく言ってくれた。

 午後八時。徹の姿は新宿は歌舞伎町からほど近い場所にあった。
 そこに建つ築三十年は経っているであろう単身者向けの鉄筋造りのマンション。
 徹は左手にコスモスの花束をもっている。今朝、真誉が生けていたのが綺麗だったから何の花かと聞いて、ここに来る途中購入したのだ。
 徹はマンションの裏手に回る。
 そこは雑草が生い茂っている。
 ――刑事さん。こんなに親身になってくれてありがとうございます。勇気が持てました。私にもまだ味方がいるんだって……。
 彼女の笑顔が、声が、今も脳裏に残っている。
 徹はマンションの外壁にたてかけるように花束を置くと、手を合わせた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み