プロローグ

文字数 2,199文字

「避けろっ!」
 助手席で東英吉巡査部長が叫ぶが、間に合わない。
 ジープが横から突っ込んでくる様子が、法条朝香の目にはスローモーションとして映った。ジープが助手席側にぶつかり、大きく車が弾かれる。
 横からの衝撃に朝香はウィンドウに右こめかみを強かに打ち付けてしまう。
 さらに膨らんだエアバッグが顔面を覆う。
 頭をジーンとした衝撃が抜け、耳鳴りが響く。
 車内に満ちる白いガスに視界を奪われながら、助手席を見る。
「せ、先輩……っ」
 助手席に搭載されているエアバッグに顔を埋めた英吉は頭から血を流したまま、ぴくりともしない。
 朝香は運転席側のドアから外に転げ出、ジープを見る。ジープの運転席の扉が開き、パーカーにジーンズ姿の男が外に勢い良く飛び出し、走り去る。
「と、止まり……」
 立ち上がりかけ、よろめく。声も満足に出ず、そのまま男を見送る格好になってしまう。 初春の深夜一時。指名手配の殺人容疑者の追跡中の出来事だった。
 覆面パトカーに設置された無線から、朝香たちに呼びかける通信本部からの声が聞こえる。
 朝香は助手席に回ってドアを開けようとするが、ジープからまともに体当たりされたせいで歪んだ扉は、なかなか開かない。
 朝香は肘で蜘蛛の巣状にひびの入ったウィンドウを砕く。
「せ、先輩!」
 かすかに英吉が身動ぐ。
 ほっと胸を撫で下ろした朝香を、英吉の小動物のような愛らしい目が見る。
「今、救急車を――」
「お、俺のことは良い。一人でどうにか出来る。お前はさっさとあいつを追えっ」
「で、でも」
「俺に構っててあいつがまた人を殺したら、どう責任を取るつもりだ。早く行けっ」
 英吉は振り絞るように声を上げた。
 英吉から滲んだ懇願の色に朝香は頷き、左肩にショルダーホルスターの重みを意識しながら駆け出す。
 交番勤務時代ならばともかく、警視庁捜査一課に配属されてから拳銃を携帯することなどほとんどなかったが、今回は相手がこれまで三人もの人間を殺害している強盗反であることから、拳銃の携行命令が出た。
 前を行く足音を頼りに辿り着いた先は、マンションの工事現場だった。
 現在出来ているのは十階ほどでさらにその上に足場が造られている。
 朝香は拳銃を両手持ちしながら、敷地の中へ慎重に入っていく。
 この近くには住宅街がある。もし犯人が住宅街に逃げ込んでしまったら……。
 敷地の隅には建材が積まれ、しんと静まりかえる。
 唯一の光源は騒音・振動レベルのデジタル表示器くらい。
 朝香はゆっくりと呼吸を繰り返しながら摺り足で進む。
 唾を飲み込むのさえ大変だった。
 朝香が感じているのは緊張ではない。恐怖だ。周囲から押し寄せる深い闇に身体が小刻みに震える。銃把を握りしめる手が汗ばむ。
 訓練では一度も経験したことのない感覚に、拳銃上級の腕前だが、まるで初めて拳銃を手にするように現実感がなかった。
 春の夜風の冷たさに全身の筋肉が収縮し、強張る。
 刹那、朝香は死角からタックルを受けた。重たい衝撃に為す術無く仰向けに押し倒され、手放した拳銃が闇の中に消える。
 直後、下肢に重みを覚える。男に馬乗りにされていた。
 男はフードを目深にかぶり、顔は確認できない。男の腕が朝香の首に伸び、締め上げられてしまう。
「ぁあ……っ!」
 気道が圧迫され、ミリミリと締め上げられる。
 視界が涙で歪む。相手の腕を叩いてもびくともしない。
 ますます気道を圧迫する指に力がこもる。
 しかし朝香は最後の力を振り絞り、男の左脇腹目がけ右膝を打ち付けた。死に物狂いになって二度三度と膝蹴りを見舞う。
 三度目で男が呻き、首を締める力が緩んで、男が転げるようにどいた。
 朝香は気道が解放されて激しく噎せ返りながらも、男を見る。
 男は右脇腹を押さえながら逃げだそうとする。朝香は拳銃の転がった方に駆け出し、暗闇の中を手が土で汚れるのも構わず探り、硬い感触を握りしめた。
 こちらを振り返った男と目が合う。
「止まりなさい!」
 しかし男は無視して走り出そうとする。
 朝香は小さく息を吐き、止め、引き金を引く。
 パンッ! 乾いた音がつんざくと同時に、男がつんのめるよう倒れる。
 男は呻き、その場で藻掻く。
 朝香は男に近づこうとして不意に片膝を付く。左脇腹に痛みを覚えた。
 最初は男にタックルされた時にどこか痛めたか程度だったものが、一度意識した途端、焼けつくような痛みに変わる。
 左脇腹に手を押さえれば、ぬるりと嫌な感触と同時に、ナイフの柄が脇腹から生えていた。
(……血?)
 瞬間。四肢から力が抜け、膝をくの字に折り、その場に転がってしまう。
(タックルされた時に刺されたんだ……っ)
 襲われた当初は気付かなかったが、かなりの深手だ。
 染み出した血液に比例して、身体がみるみる冷えていく。
 空を見るが、星はなかった。

 ビビビ! ビビビ!
 病室にけたたましい電子音が響き渡る。
 心電図が異常を知らせているのだ。
「頻脈だ! 除細動器!」
 医者が声を荒げる。
 慌ただしく看護師が機器の準備にあたり、医者がパッドを患者の――法条朝香の胸に当てる。朝香の全身に衝撃が走り、身体が跳ねる。
 さらにもう一度。
 もう一度。
 ピーという電子音と共に波が静まる――。
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