2-6

文字数 4,232文字

 月明かりが屋根の穴から降り注いでいる。
 それでもこの廃屋の闇を完全に払うのに十分ではない。
 この廃屋は十数年前から何も変わっていなかった。
 相変わらずぼろくて、変な匂いがして、汚い。
 それでも槇村誠と槇村叶子にとっては最高の秘密基地だった。
 耳を澄まして聞こえるのは、かすかな風の音と鳥の声。両親の言い争う声はここにはない。
 ここは楽園だった。
 二人でいる時間はとても満ち足りたものだった。
 しかしもう誠の隣に叶子はいない。
 合宿に行く楽しさで、一番忘れてはいけない妹への配慮を失念してしまった。
 その罪悪感は二十年経った今も消えることなく、胸の疵として残っている。
「――槇村誠さん」
 驚きの余り懐中電灯を落としそうになりながら、誠は振り返った。
 地下の闇だまりの中から一人の少女が現れる――。
「叶子っ!?
 声を上げてから、それが数日前に聞き込みに来た女刑事だと分かった。
 しかし数秒前までは確かに叶子だったはずだ。
 誠は混乱し、茫然とした。

「……刑事さん。どうしてあなたが」
 誠は言った。まだ不意を打たれた混乱から立ち直れていないのだろう。その声は上擦っていた。
「誠さんこそ、どうしてこちらに?」
「……妹の供養の為です。妹はここで襲われて……」
「叶子ちゃんが見つかったのは地下室です。ここではありません」
 そう、ここは廃屋の二階だ。ここに来るのは、容易ではない。幾つもの腐った床を抜け、いつ踏み抜くか分からない階段を上らなければならない。
 現場検証の鑑識ですら危険性を踏まえ、遺体のあった地下部分しか調べられなかったのだ。
 朝香は尋ねる。
「妹さんを忍びにこられたのに懐中電灯一本だけですか? お花も何も無く?」
 誠はムッとする。
「そんなこと……あなたに関係ないでしょう」
「では、この廃屋を買い取った横尾不動産の社長があなたとは同級生で、あなたに頼まれ、この場所を購入したという証言についてはどうですか?」
 誠の顔が強張った。
 朝香は言葉を続ける。
「誠さん。あなた、この場所にもう何度も来られてるんじゃないですか? だから、そんな軽装で……」
「私が妹に何かをしたと、あなたは言うんですかっ!?
 誠は本気で腹を立て、声を荒げた。
「申し訳ありません。私の言い方がよくありませんでした。――あなたはここで本当は何があったかご存じではないんですか。だから毎年、ここに来ては妹さんを忍んでいるんじゃありませんか?」
 誠は朝香の視線を避けるように顔を背けた。
「あなたは妹さんを大切に思っていた。そうですよね。……教えて下さい。本当はここで、何があったのか」
 一歩近づこうとした瞬間、朝香は足下の床を踏み抜いてしまう。
「っ!?
 声を上げる暇も無かった。
「叶子ぉっ!」
 腕が伸び、手を掴まれる。
 必死に腕を掴んで支えてくれる誠と目が合った刹那、朝香の頭の中で白い光が弾けた。

 ――ここにいよう
 ひび割れてない声。まだ声変わりしていない少年のものだ。
 そして朝香に、いや、叶子に微笑みかける。
 叶子は嬉しさと頼もしさを感じて、ぎゅっと少年の、兄の手を強く握りしめる。
 そこは廃屋だ。
 ――ここ、秘密基地みたいで格好いいだろ?
 ――でも寒いね。
 ――こうしたら寒くない。
 誠はそっと叶子の身体を抱きしめた。
 ――どう?
 ――うん、お兄ちゃん、あったかぁい!
 ――僕も温かいよ。
 ――ねえねえ……。ママとパパ、どうしてあんなにケンカするの?
 ――分かんない。あんなの放っておけば良いんだよ。叶子には僕がいるんだから。家にいたくない時は、ここにくれば良いんだ。そうしたらもう怖くないだろ?
 ――うん!

 我に返った朝香は、腕を踏ん張り、穴から足を引きぬく。
 ずっと支えてくれていた誠は額に汗を浮かべ、肩を大きく上下させた。
 朝香は胸をドキドキさせ、頭を下げた。
「ありがとうございました。助かりました……」
「……あなた、一体何なんだ」
「あなたと叶子ちゃんはここに来たことがあったんですね」
「だから――」
「叶子には僕がいるんだから。家にいたくない時はここにくれば良いんだ。そうしたらもう怖くない」
 朝香が眩映で見た会話を口にすれば、露骨に驚きと戸惑いが誠の顔に浮かぶ。
「あなた方にとってこの場所は、怖いものから逃れる為の秘密基地だったんですよね」
 誠の見開かれた右の端から涙がつーっと一筋、頬を静かに流れる。
「合宿から帰ったあなたは、叶子ちゃんの行方が知れないと分かって真っ先にここに駆けつけたはずです。その時、一体何を見たんですか」
 目を伏せた誠は言う。
「……ここに来た時。いつもはなかったはずの穴を見つけました」
 誠はそっと数メートル先に穴を指さす。
 恐る恐る朝香が覗いて見ると、この穴と重なるような位置取りで下の階の床に穴が空き、地下まで見通せた。
「地下に叶子が倒れているのを見つけて、急いで駆け寄りましたが、その時にはもう妹は死んでいたんです」
 戦慄く声を必死に押さえつけるように、誠は切れ切れに言う。
「両親への怒りよりも自分が許せなかった。どうして一人にしてしまったのか、どうして……と。でもどれだけ考えても冷たくなった叶子は目を開けてはくれませんでした……」
「どうして通報しなかったんですか」
「妹を両親に見せたくなかったからです。誰にも騒がれず、このまま静かな場所にいさせてあげたかった。それがせめてもの償いだと思ったんです」
「落ち葉が叶子ちゃんの亡骸を隠していたそうですが……それも?」
「ええ。ああすればもう寒くはないだろうって……。でも私のせいで無実の方が捕まって亡くなった。それも私の罪、ですよね」
「今からでも出来ることはあります」
 誠は神妙な面持ちで朝香を振り仰ぐ。
「あなたは不思議ですね……」
「え?」
「私と叶子がここに来たことを言い当てた時、まるでその場に居合わせたような口ぶりだった。それに……刑事さんのことを何度も叶子と重ね合わせて見ている自分に気付いたんです……。あなたは、叶子と似ている所なんて何もないのに」
 誠は寂しそうに笑った。

 朝香たちが外に出ると、イヤモニで廃屋内の会話を聞いていた徹が、槇村夫妻と共に立っていた。
 両親の顔を見ずに立ち去ろうとする誠に、悟が駆け寄る。
「誠、すまない。すまない……っ」
 振り絞るように謝罪の声を漏らし、膝からくずおれた父を誠は寂しげな眼差しでいつまでも見つめていた。

 八王子から大森庁舎へ戻る車中、運転席にいた徹が不意に言った。
「ちょっと寄り道、良いか」
「え、ええ。構いませんが、どうしたんですか?」
「ちょっと付き合って欲しいんだ」
 それ以上、この場では詳しく説明するつもりはないらしかった。
 
 辿り着いたのは歌舞伎町の傍にあるマンション。
 車を降りて徹の後に従うと、彼はマンションの裏手に回った。何があるという訳でもない、ただの砂利と雑草だけの場所に。
 そこに置かれた花束だけが、そこから浮いていた。
 徹は真剣な眼差しだった。
「今後、お前とは長くコンビを続けていきそうだから教えておく。俺は世界で一番性犯罪者って奴が嫌いだ。憎んでいる。そのきっかけが、ここだ」
「ここ?」
 徹が不意に顔を上げた。朝香もそれに倣う。
「2002年の春の終わりに、このマンションから一人の女性が飛び降り自殺をした。相川静恵。美大の学生だ。将来は広告業界で働きたいって言ってた。その子が深夜に新宿署に飛び込んできた。服はぼろぼろで靴のヒールは折れて……ひどい有り様だった。彼女は強姦されたと訴えてきた。当時俺は刑事になりたてて、対応したんだ。彼女は最初かなり混乱したが、落ち着きを取り戻した。犯人は飲み会の席で一緒だった大学の先輩。そいつは酒で酔って足下の覚束ない彼女を襲って、やるだけやって逃げたんだ。俺はその男を訴えるべきだと言った。でも最初警察署に飛び込む勇気を見せた彼女も、自分に起きた出来事を冷静に考え始めたんだ。もしこのことが公になれば、自分がレイプされたことが大学中に広まりかねない。実際、裁判になれば彼女は出廷せざるをえない。彼女は黙秘をして、裁判にも出ないと言い出したんだ。レイプ検査を強制することはやれなくはないが、彼女は裁判には絶対に出廷しないだろう……。検察は結局、証拠不十分として犯人を不起訴にせざるをえなかった。俺は何度も彼女の当時住んでいた部屋を訪問して、どうにか協力してもらおうと訴えた。そうしてようやく、少し考えさせて欲しいと言ってもらえたんだ。俺はいつでも電話して欲しいと彼女に告げた。でもその電話がかかってくることはなかったんだ。彼女は……その日の深夜にここから飛び降りた」
 暗がりの中、徹の目が潤んで見えた。
「俺は犯人の元へ行き、彼女が飛び降り自殺をしたことを告げた。そうしたらそいつ、何て言ったと思う? 彼女も乗り気で楽しんでたのに、だと。目の前が真っ赤になって、初めて我を忘れたよ。気付けばそいつに馬乗りになって半殺しにしてた。自分でも信じられなかった」
「そんな……」
「誰も見てない場所でやったから、あいつがどう訴えて来ようが証明のしようがない。で、俺は結局、定期異動の名目で安置所に送り込まれて何もかも一件落着。でもあんなクソ野郎をどれだけボコボコにして、謝罪の言葉を引き出した所で何も変わりゃしない。失われた命はどうにもならない。だから今でも思い出しちまうんだ。――刑事さん。こんなに親身になってくれてありがとうございます。勇気が持てました。私にもまだ味方がいるんだって……って、彼女の最期の声が……」
「今回の事件にあんなにこだわっていたのは、そういうことがあったからなんですね……」
 徹は朝香に深々と頭を下げた。
「今回は助かった。お前のお陰で冷静になれたよ。あのままいったら、冤罪を作り出すクソ刑事の二の前になってた」
 朝香は慌ててしまう。
「や、やめて下さい! 私の方こそ何も知らなかったのに……」
「知らなくて当然だろ。気にするな。俺はお前に感謝してる。それだけ分かってくれりゃ良いんだ」
「……はい」
 朝香は花束に向かって目を閉じ、手を合わせた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み