芝川・見沼代用水の水環境と問題解決
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芝川・見沼代用水の水環境と問題解決
星槎大学
共生科学部
水田稲作が根強く普及したアジア季節風monsoon地帯の中で、特に我が国は農業用水が非常に発達し、取り分け東日本に多くの用水路が見られる(西日本は溜池が多い)。江戸時代1728(享保十三)年に完成した見沼代用水は、行田市で利根川から取水し、蓮田市などを経て見沼に供給され、荒川に至る用水路である。愛知用水・埼玉葛西用水と共に、日本三大用水に数えられている。地形の高低差を徹底的に測量する事で、石油・電気エネルギーを使えない時代においても、水資源の充分な利用を可能にした。埼玉県浦和市議会などで見沼保全に取り組んで来た村上明夫氏(2012)は、石油・電気が無くても上水を供給できる見沼代用水の技術こそ、アジア・アフリカ諸国への開発援助に輸出すべきとの考えを紹介している。
「見沼」は埼玉県南東の、大宮台地に囲まれた芝川低地の歴史的呼称であり、大宮・浦和・川口という三つの都市に位置している。大宮市・浦和市は2001(平成十三)年に政令指定都市へと合併したが、本論では便宜上、合併前の市名も用いる。見沼には少なくとも縄文時代まで遡る歴史があり、水を司る大蛇・龍神に対する伝統的信仰から、近代的な『河川法』の制定・改正に至るまで、人間と水環境の共生を考える宝庫であり、典型的な二次自然(里山)の景観が広がっている。令和今上天皇(浩宮徳仁)陛下も、見沼を現地研究されており、皇太子であられた2006(平成十八)年、メキシコ第四回世界水フォーラムの基調講演「江戸と水運」において、江戸時代に形成されていた循環型社会の事例として見沼を取り上げ、温故知新による水問題の解決を説かれた。このように豊かな水環境を湛える広大な緑地が、首都大都市圏にありながら保全されている、その経緯を見て行こう。
1934(昭和九)年、東京府は見沼を貯水池ダムにしようとしたが、大宮・浦和など13市町村と農民による反対運動の結果、ダム計画は中止され、見沼は水没の危機を免れたという(見沼保全じゃぶじゃぶラボ2007)。1958(昭和33)年の台風22号「狩野川台風」は、東京に戦後最大と言われる被害を及ぼし、埼玉県でも芝川が氾濫し、川口市の94%が浸水した。この時、見沼が古来からの自然遊水機能を発揮し、約1000万トンの水を数日間貯水してくれたお蔭で、下流の被害を軽減させる事ができた。万一、川口で増水を受け止められなかった場合、その水は荒川に放水され、首都東京を浸水させる事態になってしまう。そこで、水害対策として見沼の開発を規制する必要が認識され、県(栗原知事)は1965(昭和四十)年に「見沼田圃農地転用方針」(見沼三原則)を定め、見沼田圃の全域を都市計画法の市街化調整区域(市街化を抑制すべき区域)に指定し、緑地・農地として保全するよう求めた。この見沼三原則によって、東京五輪(1964)を契機とした都市化の波から、見沼の自然環境を守る事ができた。また、見沼に7箇所の調節池を開削する芝川改修計画も始まった。
しかし、見沼三原則は補償なき一方的な規制であったため、地権者(兼業化・高齢化で後継者不足に悩む農家)の反発を招き、規制緩和を求める意見が強くなる。社会党右派の畑知事が就任すると、ゴルフ場導入など大規模な乱開発計画も浮上した。社会党などの「革新」派は、憲法・安保条約など外交防衛問題では保守系と対立するが、必ずしも環境保全派とは限らず、高度経済成長においては、むしろ規制緩和・地域開発を推進する場合もあった。そこで左右の支持政党を越えて、無党派・無所属の人々が参加する「見沼保全派」を形成し、運動を担う必要があったと村上氏(2012)は述べる。
当時の浦和・大宮市や地権者の多くは開発に賛成し、下流域として治水に敏感な川口市は反対した。そこで埼玉県は、川口・浦和・大宮の各市などが公開で議論する「見沼田圃土地利用協議会」を設置した。協議会では治水・規制・農業に対する意見が一致し、見沼の価値として治水以外にも「自然環境」「歴史文化」が取り上げられ、地権者(主に農業者)への規制に対する補償の必要性が指摘されるなど、有意義な議論が行われた。
協議会における議論の結果、見沼三原則に代わる新たな方針として、1995(平成七)年に「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」が制定された。規制に対する補償(環境創造基金)を定め、緑地の維持が困難な場合には、県と3市が土地を買い取って公有地化できるようにした。理念においては、見沼三原則では治水だけが規制の目的であったのに対し、基本方針では歴史・農業・自然をも含めた見沼田圃の意義が謳われた。見沼の範囲に関しても、狭義の見沼田圃である芝川低地の規制だけでなく、大宮台地の斜面林(典型的な里山)を保全する行政の役割が言及された。
こうして見沼三原則は、地主を含む多くの方々が合意形成できる「基本方針」へと発展的に解消された。これを実現できた背景には、環境庁長官を務めた土屋知事が環境問題に熱心だった事もあるが、村上氏(2012)は「決定的に大きな意味をもったのは見沼の専門的知識である。これまで行政内で蓄積された専門知識が生かされた。それなしには規制緩和反対の運動は成立しない。見沼問題に対する専門的知識は市民運動にバックアップされた。市民運動内に、この専門的知識を生かす力があったのだ」(39頁)と指摘する。ローカルな環境問題に対して、人々が専門知識を活用して参加する運動は「市民科学」に通ずると言えるだろう(川原・関本2016)。1998(平成十)年『NPO促進法』により、市民運動が環境問題に参加し易くなった。見沼は、南端の八丁堤と、見沼代用水・斜面林に囲まれているため、境界・範囲が明確である事も、保全に対して有利に働いている。
桶川市を水源とする芝川は、流路35km・流域面積117km2を流れた後、川口市で荒川に合流する、荒川水系の一級河川である。法政大学地理学科の伊藤達也氏(2014)が「最も重要度の高い河川は一級河川に指定され、100年から200年に1回程度発生する洪水を防ぐための治水計画が立てられている」(404頁)と述べているように、狩野川台風レベルの洪水を想定した芝川改修は、まさにこうした治水計画である。但し人工ダムではなく、もともと自然貯水機能を持つ見沼の緑地を前提とし、環境に配慮した遊水池の設置が注目される。芝川第一調節池(浦和市緑区)などは、水害対策の調整池であると同時に、平時においては水辺の自然環境生態系を涵養する親水空間でもある。
見沼を覆う広大な緑地は、基本的に保全する方向で合意形成できたものの、その重要な景観要素である見沼代用水は、時代と共に変貌を余儀なくされた。1960年代当時、我が国の首都東京は、高度経済成長に伴う多摩川の水質汚濁に苦しみ、水源を多摩川から利根川に転換しようとしていた。そこで、利根川から荒川に注ぐ見沼代用水が注目された。農業用水としての効率を上げると共に、余った水を埼玉・東京の水道水に転用するため、老朽化した見沼代用水をコンクリート三面護岸する「埼玉合口二期事業」が、1979(昭和五十四)年に着工されたのである。特に見沼代用水東縁の、優れた景観が遺されている曹洞宗国昌寺(緑区)周辺は、コンクリート護岸だけでなく、浦和市営墓地として開発されてしまう危機に瀕していた。
この公共事業による代用水の環境破壊を危惧した宇杉和夫氏(建築学)は、三面護岸改修の見直しを県と交渉し、国昌寺の区間を原型保存すべきと提案した。改修工事が見沼に迫った1984(昭和五十九)年、宇杉氏の案を検討した畑知事が国昌寺を視察し、周辺の用水路1.1kmの原型保存を指示して、この区域は県が管理する事になった。この地区に面する斜面林も、National Trust運動の一環である「埼玉緑のトラスト協会」によって購入・保護された。
こうして、江戸時代から続く見沼代用水の景観は、部分的にではあるが保存される事になった。厳密な事情は異なるが、用水路を広義の河川と捉えるならば、その原風景を極力自然のまま尊重しようとする発想は、ヨーロッパの「河川再生」とも通ずる部分があるだろう。但し原型保存は、用水確保という点では効率に難があり、古い取水口の管理は負担が大きい。また、見沼代用水西縁の水は、荒川から浄水場を経て、現在も埼京の水道水に利用されている。私達・都市住民が水を使い過ぎている問題もあろうが、伝統的景観と、近代的生活の調和が望まれる。
埼玉新都心に近い浦和区の西縁用水では、市民運動と上田知事によって、金網を木柵に取り替え、美しい遊歩道として整備する修景が行われた。農業用水は、都市の暗渠下水道に変貌してしまう事が多く、工業用水・飲料水の役割を兼任しながらも存続している見沼代用水は、殊に首都圏では注目すべき事例と言えよう。
村上氏は、見沼田圃保全の課題を次の6点に要約している。
1. 見沼田圃の価値を明らかにする事。
2. 行政と市民団体(特に行政)の縦割りを克服し、見沼担当セクションを作る事。
3. 「歴史まちづくり法」等の適用を受ける事。
4. 受益者負担の原則に立った整備を行う事。
5. 地元・農業者の支援策を具体化する事。
6. 見沼代用水の街づくりへの活用。
我が国では、沖積低地に人々が居住した奈良時代から水害が発生しているが、現代においては地球温暖化の影響からか、近年は「平成30年7月西日本豪雨」(2018)、「令和元年台風19号」(2019)、「令和2年豪雨」(2020)…と毎年のように洪水が引き起こされている。その対策としてダム建設を推進する意見もあるが、自然環境破壊の問題に加え、想定外の豪雨は緊急放流という「ダム災害」を発生させる恐れがある。伊藤氏は、水害が無くならない第一の理由は治水計画の限界、第二の理由は「無秩序な都市化に伴う水田の減少、低湿地への市街地進出である。戦後、高度成長期になると人の住む場所は大きく変化し、低湿地へ拡大した。皮肉にもダム等による治水安全度の上昇がそうした低湿地への人々の移動を促進した」(405頁)と指摘する。低地に集住する東京市民の豊かな生活を守るために、上中流域の人々が水害対策を負担している事は、環境正義の観点からも把握されるべきだろう。
なお、畑知事に関して、宇杉氏の著書(2004)では、見沼代用水の原風景を守った、環境保全に積極的な知事として書かれているが、村上氏のほうでは、社会党出身の「革新知事」でありながら、ゴルフ場建設など乱開発を推進した側面が強調されている。このように見沼保全を志向する論者の間でも、事項によっては評価が分かれる場合もあるようである。いずれにせよ、緑地や調節池を活用し、自然環境と調和した水資源管理を目指す見沼の取り組みは、私達が暮らす首都大都市圏の治水・利水・親水に、重要な役割を果たしていると言えるだろう。
参考文献
◆ 宇杉和夫『見沼田んぼの景観学 龍のいる原風景の保全・再生』(古今書院2004)
◆ 浦和市立郷土博物館『見沼 その歴史と文化』(さきたま出版会2000)
◆ 川原靖弘・関本義秀『生活における地理空間情報の活用』(放送大学教育振興会2016)
◆ 小林義雄『見沼田んぼを歩く 首都圏最後の大自然空間』(農文協1993)
◆ 坪内俊憲・保屋野初子・鬼頭秀一『共生科学概説 人と自然が共生する未来を創る』(星槎大学出版会2018)
◆ 中俣均・近藤章夫・片岡義晴・小原丈明・伊藤達也・米家志乃布『人文地理学概論1・2』(法政大学通信教育部2014)
◆ 保屋野初子『川とヨーロッパ 河川再自然化という思想』(築地書館2003)
◆ 見沼保全じゃぶじゃぶラボ『見沼見て歩き 見沼たんぼ散策ガイド』(幹書房2007)
◆ 村上明夫『見沼田んぼ 龍神への祈り 環境保護の市民政治学Ⅲ』(幹書房2012)
◆ 村上明夫『環境保護の市民政治学Ⅱ 見沼田んぼからの伝言』(幹書房2003)
2020/12/26