キリスト教を読み直す 現代日本の新宗教問題

文字数 19,726文字

キリスト教を読み直す

星槎大学 共生科学専攻

 本稿は、星槎大学における「宗教学」の科目修得試験として、世界と日本の宗教に関して、その基本的な考え方を説明する論文である。よって、特定の宗教に読者を誘導せんと意図しているわけではない。但し、本稿で研究対象とする宗教は、現代において積極的に活動している教団であり、その教義を実際に信仰している方々が存在する。そのような場合の研究倫理としては、対象となる宗教とその信仰を、充分に尊重し、可能な限り理解せんとする、謙虚な姿勢が肝要であると考える。よって執筆に際しては、批判ありきではなく、まずは当該宗教を「学ばせて頂く」という立場で臨む事を重視し、本文では丁寧語(です・ます)を用いる。


 「宗教」を意味する英語religionはラテン語に由来し、その語源は「再び結ぶ」「読み直す」などの意味だと考えられている。ここでは、キリスト教の基本的な考え方を説明し、それが我々の文化社会にどう影響して来たかを論ずる事によって、個々人がその人生観・世界観において、より善き価値観を選び、繋ぐ一助としたい。

前史

 キリスト教は紀元1世紀、ローマ帝国ユダヤ州となっていたパレスチナ地方において、ユダヤ教の改革を唱えた「ナザレのJesus」が創始し、彼を救世主(メシア・キリスト)と信ずる使徒によって築かれた宗教です。キリストの厳密な生年は未確定ですが、その旧説は西暦Christian eraの紀元年として用いられ、紀元前をBefore Christ(キリスト以前)、紀元後をAnno Domini(天主の年)と呼んでいます。『新約聖書』によれば、その聖誕の時には、クリスマスツリーの装飾として有名な「ベツレヘム星」が天空に輝いたと伝えられていますが、その正体に関して、当時の西アジア上空に彗星が接近したり、木星土星魚座で会合したりするなど、実際に何らかの天体が出現したと考える天文学説もあります(藤井旭2004)。

 『ギルガメシュ叙事詩』などのメソポタミア神話(洪水説話)や、ペルシャゾロアスター教(最後の審判)とも部分的共通点が見られるユダヤ教は、キリストの時代には、厳格な律法主義を奉ずるパリサイ派(パウロら)や、逆に聖霊・運命・天使・霊魂・復活などを信じないサドカイ派に分かれ、ほかにエッセネ派や、政治結社としては熱心党(シモンら)が存在したと考えられています。エッセネ派(クムラン教団)は、1947年からパレスチナで発掘された『死海文書』に語られる教団で、奴隷制を否定し、修道院で禁欲的な信仰生活を営むなど、初期キリスト教会と類似する点が見られ、当代を生きたキリストの言行にも、エッセネ派の影響を想定する事ができます。

 キリストは『旧約聖書』の教義を継承する立場を取りながらも、罪人への裁きに偏向していたパリサイ派を批判し、神への愛隣人愛を最も大切な律法に据えて、天主の預言を発展・完成させようとしました。特に重要な説教が「山上の垂訓」であり、ここで説かれている「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ福音書7章12節)「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ福音書6章31節)は黄金律と呼ばれ、善行を積極的義務とするキリスト教の根本的倫理になっています。様々な奇跡を起こした事もあり、十二使徒を始めとする弟子など、多くのユダヤ人から支持を得ますが、それを快く思わないパリサイ派の謀略により、出エジプトを記念する過越祭の頃、ローマ帝国への反逆容疑(神殿冒涜)で捕縛されます。しかし、裁判を担当したユダヤ総督ピラトゥスは、キリストが冤罪である事を認識しており、パリサイ派と彼らに煽動されたユダヤ人の圧力により、仕方なく死刑に処した…と、福音書は伝えています。

 ここで注目されるのは、過越祭の熱狂に包まれたエルサレムにおいて、多くのユダヤ群衆がキリストの入城を大歓迎していたにも(かか)わらず、その僅か数日後には、彼らの立場が正反対になり、キリストの処刑を要求する陣営に寝返っているように読める事です。当時のユダヤ属州では、ローマ支配からの解放を目指す熱心党が活動しており、ユダヤ人は現世における救済として、イスラエル独立を実現してくれる政治的英雄としての役割を、キリストに期待した可能性があります。しかし、キリストがそうした行動を取らなかったので、一方的な期待を裏切られたと失望したユダヤ人が、群集心理で「アンチ」に転じたのではないかと考えられています(中村敏2018)。また、福音書を始めとする『新約聖書』は、ローマ帝国の支配下という時代において編纂されたので、キリストを殺したのはピラト総督などのローマ市民ではなく、ユダヤ人に「キリスト殺し」の責任がある事を強調・誇張して表現し、他方ピラトは史実よりも好人物に描かれているとの学説もあります(大谷哲2016)。

初期キリスト教会

 ペテロを始めとする使徒は「キリストを見捨てて逃げた不信心な弟子」という印象で語られる事が多いのですが、キリストを殺せと叫ぶ狂乱が世論を支配していた情況では、脱出しなければ初期教団が全滅してしまい、キリストの教えを生きて語り継ぐ事もできなくなる恐れがある以上、彼らの逃避行を安直に非難する事はできないと、私は思います。いずれにせよ、生き残った使徒達は、復活したキリストとの再会という奇跡を体験し、彼こそが『旧約聖書』に預言された救世主であるとの確信を深め、ユダヤ人を中心とする初期キリスト教会(ユダヤ教ナザレ派)を形成しました。ペテロは後世に、初代ローマ教皇の諡号(しごう)を贈られました。

 そんな信徒の前に立ちはだかった強敵が、パリサイ派としてキリスト教迫害を推し進めていたパウロでしたが、彼もまたキリストとの遭遇を経験して回心し、以後は誰よりも積極的にキリスト教徒として行動します。多くの信徒を弾圧した過去を背負い、教団の中でも特に「罪の意識」が強かったパウロは、十字架におけるキリストの受難が、人間を『創世記』以来の原罪から救済するために、天主が執り行った贖罪の儀礼であったと解釈し、その救いを得るために「信仰・希望・愛」が必要であるとの教義を整えました(信仰義認説)。もう一つの重要な功績は、ユダヤ以外にもローマ帝国の各地に伝道を試みた事であり、これによりキリスト教は、民族宗教「ユダヤ教ナザレ派」から世界宗教へと発展する事になったのです。『新約聖書』には、ローマ帝国の各地に書き送った『パウロ書簡』(信徒への手紙)が、福音書に次ぐ分厚い長篇で収められており、キリスト教史における貢献の重大さを証しています。

 ペテロもパウロも、ネロ帝の迫害によって殉教しています。複数の使徒が、復活したキリストとの遭遇を証言し、その信仰に身命を賭したという史実は、決して過小評価できないと思います。一方この頃、ユダヤ州では熱心党による反乱が勃発しており、70年(ウェスパシアヌス帝)にエルサレムが陥落。これによりサドカイ派は壊滅、パリサイ派も勢力を失い、ユダヤ人の世界離散が決定的になると共に、唯一神の御名を示す四文字「ヤハウェ」の正確な発音も失われてしまいました。

 キリスト教は、偶像崇拝を禁ずる一神教としてのユダヤ教を継承しているので、多神教(ギリシャ・ローマ神話)を国教とするローマ帝国と摩擦し、ディオクレティアヌス帝などから迫害を受けました。但し近年では、キリスト教徒とローマ帝国民のアイデンティティーを妥協・両立させ、帝国の儀礼に参加して殉教を免れた信徒も多く存在した事が明らかになっており、迫害は散発的で、必ずしも大規模な組織的迫害が常にあったわけではないとの指摘もあります(大谷2016)。パリサイ派に対してキリストが語った「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22章21節)という言葉は、多神教国ローマへの納税と、唯一神への信仰は矛盾しないと読む事ができ、キリスト教には初期から、政教(聖俗)分離を可能とする観念が存在したと指摘されています(矢ケ﨑編・内藤正典2020)。

 313年、コンスタンティヌス帝ミラノ勅令によって、キリスト教は公認されます。もともと多神教であったローマ帝国は、領土拡大と共にエジプト・アナトリア・シリアなどオリエントの宗教が流入し、特にインド・ペルシャのミトラス教弥勒(みろく)菩薩)が流行しました。こうした中で、ミトラ神やキリストを太陽崇拝に習合した「不敗の太陽神」が信仰を集め、その祝祭日は冬至…具体的には12月25日でした。キリストを太陽神と同一視し、キリスト教徒が太陽を礼拝する風潮も見られる中で、ローマ教会は12月25日をキリスト誕生記念日「クリスマス」に定めました(大谷2016)。

アタナシウス派の成立と分裂

 公認後、神学者の間で「キリストは神なのか?それとも人間なのか?」を巡る論争が繰り広げられ、キリスト教会は早くも分裂を始めます。その中で、キリストは「神性」と「人性」を一体に併せ持っているとするアタナシウス派が政治的に認められ、テオドシウス帝がローマの国教に定めました(392)。『新約聖書』はギリシャ語で編纂され、キリスト教とギリシャ哲学の交流も行われます。「初めに(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1章1節)で始まる『ヨハネ福音書』のように、ギリシャ哲学がlogosと呼んで尊ぶ言語的理性は、言葉を通して神を信仰するキリスト教神学に反映されていると考える事ができます。

 ヌミディア州(アルジェリア)出身のアウグスティヌス教父は、ササン朝ペルシャ帝国マニ教(ゾロアスター教にキリスト教や仏教などを習合)や、古代ギリシャ最後の哲学派である新プラトン主義(プロティノス)から二元論的世界観を学び、教会は『神の国』から「地上の国」に恩寵を伝える天命があると説きました(教父哲学)。また、自己の「存在」は確実な真理として認識できる事を、近世のデカルトに先駆けて指摘し、それゆえ内心における魂の救いを強調した事も注目されます(長谷川克彦1986)。476年に西ローマ帝国が崩壊し、アタナシウス派は1054年、ローマ教皇を中心とするカトリック教会と、東ローマ帝国の正教会に分裂します。帝国の故地にしてカトリックの本山があるイタリア半島も、複数の都市国家に分裂していましたが、アリストテレスの研究が進められ、信仰においても理性の役割を重視するスコラ哲学が発達しました。特に13世紀、シチリア王国ナポリアクィナスは、理性的認識の限界を指摘しました。

宗教改革とプロテスタント主義

 カトリック教会の歴史が長くなると共に、教団組織の弊害を批判する運動も発生します。その大きな論点は、教皇の権威を中心とする教会の伝統・慣習よりも、聖書の言葉に対する信仰を第一に取り戻すべきと主張する福音主義です。特に16世紀、神聖ローマ帝国(ドイツ)のルターは、福音主義の思索によって、パウロの信仰義認説を再発見し、聖職者の身分制に反対する万人司祭主義を唱え、宗教改革を始めました。ルネッサンスの人文主義humanismを学び、予定説(職業召命観)を唱えていたカルバンも参戦し、複数のプロテスタント教会が成立しました。チューダー(Tudor)イングランド王国では、カルバン主義とカトリックを折衷し、国王を首長とするイングランド聖公会(国教会)が形成されました。

 以上のように、私達が「キリスト教」として認識している教団の多くは、いずれもアタナシウス派から発展したカトリシズム・正教会・プロテスタンティズム・聖公会であり、マタイ・ルカ福音書に由来する「主の祈り」や、十二使徒の信仰告白と伝わる「使徒信条」を用いるなどの共通点があります。また、分裂してしまった他教会との合同一致を摸索する運動を世界教会主義ecumenismと呼び、カトリックと正教会の和解(1965)、新共同訳聖書の翻案、異教との対話などが行われています。現代において、キリスト教は世界最多の信者数(約20億人)を誇っています。

 但し、アタナシウス派の「正統教義」とは異なる信仰を持つ、いわゆる「異端」の教団も、少数派として現存しています。例えば、キリストは神ではなく人間と捉えるアリウス派からは、自由主義的なユニテリアン教会(16世紀)や、逆に原理主義的な「物見の塔エホバの証人」(19世紀末)が生まれました。このほか、キリストは人ではなく神とする単性論説(アルメニア・コプト教会)や、神性と人性を区別するネストリウス派(アッシリア教会)も海外に残っているようです。更に近代は、プロテスタント内部で福音主義に反対する潮流が現れ、教会を絶対視せず、聖書を批判的に研究し、教義の信仰を是々非々に判断する自由主義神学が誕生しました。

キリスト教美術

 西洋美術史においては、ギリシャ・ローマ神話を主題とする古代と、それを再評価した近世ルネッサンスの間に中世があります。この時代には、西ローマ滅亡までの初期キリスト教美術(2~5世紀)、ヘレニズムを継承した東ローマ帝国のビザンツ美術(6~15世紀)、西ローマを復活させたフランク王国の初期中世美術(5~11世紀)、東方の影響とローマ再建を意識したロマネスク美術(11~12世紀)、ゴート様式建築を連想させたゴシック美術(12~15世紀)があり、いずれもキリスト教を第一の主題にしています(高階秀爾2002)。現代は、教会から独立した美術が主流になっているものの、キリスト教とアニミズムの哲学、自然科学を統合し、方眼紙に幾何学的絵画を制作したクンツEmma Kunz(スイス1892~1963)などのように、キリスト教を取り入れた芸術文化は、21世紀に至っても創られ続けています(川村記念美術館2009)。

キリスト教とイスラム教

 恐るべき事に『旧約聖書』は、編纂当時には知り得ないはずの、キリストの生涯を驚くほど正確に予知しており、結果論的にであれ、ユダヤ人の離散(70)とイスラエル国の復活(1948)を預言したと思われる記述も見られます(高木慶太2011)。但し『ヨハネ黙示録』に書かれている千年王国・最後の審判・キリスト再臨などは、具体的な時期が不明確なので、後世に大きな戦災が起きたりすると、それに乗じて「自分こそが再臨のキリストである」などと称する新宗教が複数出現し、現代に至っています。もっとも『新約聖書』も、そのような事態を想定していたらしく、偽預言者を戒めています。

 キリストはイスラム教にも「イーサー」という預言者として登場し、教祖にして最大最後の預言者を自任するマホメット(ムハンマド)は、アッラーこそが、ムーサー(モーセ)やイーサーに預言を遣わした唯一神であると説き、聖書の一部(モーセ五書・詩篇・福音書)を啓典に継承しています。イスラム教のイーサーは、十字架の磔刑で亡くなっておらず、弟シモンやユダを身代わりにして脱出し、偉大なムスリム(イスラム教徒)として生きた後に昇天すると伝わります(桂令夫1998)。『新約聖書』のキリストは、正当防衛であっても人間の暴力を否定しますが、イスラム教は、不当な迫害に対する自衛としての聖戦を認めており、そうした教義の差異が、神話に反映されているのかも知れません。

 アッラーを称名するイスラム教とは異なり、ユダヤ・キリスト教では「神の御名を乱りに唱えてはならない」(モーセ十戒)からか、唯一神の固有名詞が定まっておらず、ヤハウェ・エホバ・エル・エロヒム・アルファなど、様々な呼称があります。漢字を用いる中華朝鮮日本では、多神教の神仏と区別するため、キリスト教の創造主を天主(Deus)と呼び、カトリックを天主教(長崎大浦天主堂など)、プロテスタントを基督教(日本基督教団・三鷹国際基督教大学など)と表記する事もあります。

キリスト教と現代社会

 「モーセ十戒」(出エジプト記)に明記されているように、ユダヤ・キリスト教は「人を殺してはならない」という不殺生の律法を、世界で最も早く提示した宗教の一つです。ここまで科学が発達した現代においても、私達は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という命題を、明確には論証できていません。また、人間が実定法を立てる以前から、世界には普遍的な神法(自然法)が存在するという神学思想は、社会契約説などの近代哲学に影響を与え、民主政治を支える天賦人権論に繋がっています(高木2011)。「全ての人間は自由・平等・幸福に生きる権利を(神によって)与えられている」という自然権・人権思想は、まず『アメリカ独立宣言』(1776)に見られ、キリスト教と共に明治日本を啓蒙し、その米国が日本を占領した結果、現行の『日本国憲法』にも反映されています。政教分離を建前とし、多神教あるいは無宗教の風潮が強い私達・現代日本人の価値観も、実はキリスト教的倫理の影響を受けていると考えられましょう。

 プロテスタント教会などの福音主義派において、特に原理主義の傾向が強く、聖書の言葉を絶対的真理と確信する立場は根本主義fundamentalismと呼ばれます。彼らは進化論・同性愛・人工妊娠中絶などを強く否定し、特に米国の福音派は、トランプ大統領などの共和党を支持する、右翼保守主義(プロライフ)運動を担っています。もともとアメリカ合州国には、イングランドのカルバン清教徒Puritanに始まる建国の歴史があり、歴代大統領もキリスト教徒であり、しかも現代は「約束の地」イスラエル国と同盟しているので、信仰と愛国心を両立し易い背景があります。一方、我が国においては、多神教である神社神道を崇敬する立場(自民党など)が保守右派に位置付けられるので、キリスト教会は左派に接近する傾向が見られます(キリスト新聞)。また、職業を神から与えられた天命と捉えるカルバン主義は、自助努力に基づく合理的な勤労によって、社会が豊かになる事を肯定する価値観に繋がります。そこで、ドイツ帝国の社会経済学者ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)を著し、信仰が自由主義経済の繁栄を支えたと考察しました。物質(モノ)や経済(カネ)で歴史法則を説明する唯物史観に対し、宗教的道徳が経済史に影響を与えるという観点です(秋山千恵2017)。

キリスト教と自然環境

 創造主と被造物を峻別するユダヤ・キリスト教は、多神教の自然崇拝animismと異なり、自然物に宿る神霊は信仰の対象にしない宗教です。そのため、キリスト教的な西洋思想は、伝統的な多神教と結び付いた自然環境を「異教」として破壊し、地球環境問題を引き起こした「人間中心主義」であるとの批判があります。一方で、人間は天主の執事として、被造物たる自然環境(神の財産)を適切に管理・保全する責任を負っているのであり、キリスト教は決して、自然破壊を無制限に容認しているわけではない(人間中心主義はむしろストア主義哲学派の思潮)との反論もあります(鬼頭秀一1996)。

 キリスト教が、被造物としての「自然」をどう捉えて来たかを考える事例として、私は「パワーストーン」と呼ばれる宝石鉱物の文化に注目しています。例えば、私達の習俗に取り入れられている誕生石は、ユダヤ教の祭司が胸飾りに装身していた宝石(出エジプト記)、そして最後の審判後に訪れる「新エルサレム」を築造する宝石(ヨハネ黙示録)が、それぞれ12種類であるという聖書の言葉に由来しています。聖都の各方位に12石を配置するideaは、黄道十二宮(天の輝き)と宝石(地の輝き)を結び付ける「星座石」の文化も生み出しました。キリスト教は、純粋な教義としてはユダヤ教を継承していますが、実際の文化史は、メソポタミア・ギリシャ・ローマ神話や占星術・錬金術と密接に関わっています(山中茉莉2007)。紫水晶Amethystは「司教の石」として、ユダヤ祭司の胸当てやキリスト教の指輪に使われ、碧玉に赤い酸化鉄が混合したブラッドストーンは、十字架における血の受難を象徴し、結晶が十字の形に成長した十字石Stauroliteは、受洗式や十字軍のお守りに用いられました(八川シズエ2000)。15世紀頃のイタリア半島で完成し、トランプの原型になったとも言われるタロットは、キリスト教が禁ずる「魔術」に見做される恐れもありますが、そのカードには、聖書に由来する概念が豊富に見られ、パワーストーンと結び付ける流派もあります(フィリップ2011)。

キリスト教と私達

 このように、自然崇拝とは一線を画すキリスト教の文化史においても、美しい宝石鉱物は、創造主の栄光を讃える、神秘的な役割を担って来ました。現代日本では、特定の教団に帰依するという意味での「宗教」は少数派ですが、いわゆる「無宗教」の人々も、心霊・神仏への顧慮(希薄な信仰)からスピリチュアリズム(唯心論)に興味関心を抱く事があり、その中にはキリスト教も部分的に取り入れられています。例えば、2019(令和元)年まで淀橋(西新宿・都庁前)で毎年開催されていた鉱物・化石の展示即売会「東京国際ミネラルフェアhttp://tima.co.jp/は、自然科学を第一のテーマに掲げてはいるものの、標本としての科学的価値だけでなく、宗教的な歴史文化を持つパワーストーンとしての側面も、商品の魅力を高めています。エルサレムで採掘された石灰岩は、それがエルサレム産であるという事実を以て、消費者に神秘的な御利益を感じさせます。更には、宝石鉱物の範疇に収まらない、キリストや天使(メタトロン・ミカエル・ガブリエルなど)の護符も販売されており、キリスト教を取り入れたspiritualismは、市場経済においても存在感を示しています。

 以上のように、キリスト教は哲学・芸術・歴史・政治・経済など、私達の文化社会に多大な影響を及ぼしています。キリスト教徒が人口の1%未満とされる我が国においても、多神教・無宗教と言われる習俗の中に、実はキリスト教的な要素が存在しています。神道・仏教・儒教・道教を習合して「日本教」を築いた、日本人らしいシンクレティズムと考える事もできます。近代以来、キリスト教などの西洋思想を、是々非々で受容して来た日本人の在り方は、ある意味では自由主義神学にも近似しているのかも知れません。逆に、異教的な習俗文化を全否定し、厳格な一神教としての福音原理主義を普及させるのは、現代日本においては困難であろうと言わざるを得ないでしょう。遠い他者のようで、実は自己の内面にさえも関わっている価値観を知る事が、キリスト教を読み直す意義だと言えるでしょう。

 筆者にキリスト教を学ぶ機会を与えて下さった、福音主義派プロテスタント教会の伝道師が一昨年、教会堂で筆者との面談中に、急病で亡くなられた。参考文献の御紹介を含め、同氏とその教会から学んだ教えが無ければ、本論を執筆する事はできなかったかも知れない。「伝道師」という肩書きの通り、最期までキリスト教の伝道に生命を懸けられた同氏に、心からの敬意と感謝を表したく思います。救世主と共にありますよう。amen

◇ http://zion.jpn.org/

現代日本の新宗教問題

 後篇では、現代日本で活動している「新宗教」を取り上げ、その歴史や特徴、基本的な考え方を簡潔に説明する。ここでは「幸福の科学」を具体例とし、評価すべき点や課題を論じたいと思う。

太陽の法

 幸福の科学(以下「幸福」と略す)は、大川隆法氏(1956生)が1986(昭和六十一)年に創唱した新宗教です。仏教系に分類され、初期には高橋信次氏(大宇宙神光会God Light Association)の影響も受けていたとされます。宗教学的には、新宗教の中でも現代の近年に発展した教団として、オウム真理教などと共に「新々宗教」と呼ばれます。また、精神・科学・ビジネスなどの先端理論に関心を示す傾向から、GLAなどと共に「ハイパー宗教」と呼ばれる事もあります。

 幸福の科学は、仏教の輪廻転生を継承・発展させ、宇宙誕生から現在の地球世界へと至る、壮大な「現代の神話」が説かれています。その内容は『太陽の法』などに書かれており、映画化もされています。教義によると、総裁を務める大川氏の実体は、宇宙の創世に関わった創造主(根本仏)であり、特に太陽系の金星・地球などを担当する「地球系霊団」の指導者と信じられています。かつては、金星において人類の文明を指導していましたが、その繁栄が上限に達し、これ以上の発展を期待できない状態に停滞したので、金星を火山爆発で滅ぼし、人類を地球に移住させ、そこで新たな文明を指導する事になりました。その際、地球人に外的刺激を与え、競争意識による進歩を促すため、太陽系外の「宇宙人」を入植させたりもしています。そのため、人類学の定説よりも遥かに古い、数億年前(古生代)の段階で、既に人類文明が地球に築かれていたそうです。こうした点は、キリスト教とも現代科学とも異なる世界観です。また、根本仏は何度か改名しており、ユダヤ・キリスト教の史料に伝わる「エル・アルファ・エロヒム」などは、それを反映した名残と考えられます。

仏陀再誕

 伝統的な仏教の定説では、仏陀は輪廻転生から解脱した存在であるため、人間として再び地上世界(この世)に下生する事は無いとされています。これに対して幸福の科学では、全知全能の創造主・最高神である根本仏に不可能は無く、解脱した仏陀であっても、この世への再転生が可能であるという『仏陀再誕』の教義を持っています。仏も輪廻転生し、人間として受肉できるという信仰は、チベット仏教の「活仏」思想や、広義にはキリスト教の救世主再臨などにも見る事ができます。

 幸福の特徴は、根本仏が古来から、地上に何度も転生し、当時の文明を指導して来たという歴史観です。具体的には、伝説として有名なムー大陸(太平洋)、次いでアトランティス島(大西洋)の元首であり、エジプト神話に伝わるトートオシリスギリシャ神話のヘルメスインド(コーサラ王国)の釈迦牟尼世尊として生まれ、インカ帝国の君主も務め、現在は日本国に再誕していると説きます。なお、教団ではトートを「トス」、オシリスを「オフェアリス」と呼んでいます。ヘレニズム以降のヨーロッパ地中海世界では、キリスト教だけでなく、ヘルメス・トートを習合したヘルメス思想が魔術的な人々に流行していましたが、これもまた、二神が元来は同一の存在である事を示しているようです。以上の人物は、根本仏の分身であるため、最も高位な霊界に位置付けられます。これに次ぐ偉人として、ゾロアスター・孔子・ソクラテス・キリスト・マホメットなどが挙げられ、根本仏の預言を伝えるなどして活躍したようです。

輪廻転生と八正道

 従来の上座部仏教では、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道輪廻があり、第七の道として解脱(極楽浄土)が説かれましたが、大乗仏教においては、来世を「地獄・極楽」に大別し、極楽往生を説く浄土教が、単純明快な教義と共に発展しました。二元論的な死生観は、神社神道(高天原・黄泉国)やキリスト教とも共通し、死後の世界に対する有力な神学説になっています。幸福の科学も、善悪二元論の傾向が強く、来世を「天上界・地獄界」に大別しており、その上で、浄土・天道を天上界(天国)に、修羅・畜生・餓鬼道を地獄界に、そして人間道を地上界(現世)に分類していると思われます。基本的に、人間は生まれ変わっても人間であり、ほかの生物への転生は少ないとされます。このほか、天国・地上・地獄を行き来できる、天狗・仙人などの妖怪も存在するようです(秘密の法)。こうした他界の空間的位置は、現世の地球と表裏一体であり、地獄は地下に、天国は上空に比例して広がっているようです。先述の根本仏に列する方々は、天界の最上位に居ります。他方、地獄の最下層を支配する悪魔としては、ニーチェヒットラーが挙げられ、最近は毛沢東も加わっています。更には宇宙にも、現代の科学技術では観測できない「裏宇宙」が存在するそうです(宇宙の法)。

 こうした輪廻転生の他界観を持つほか、縁起・四苦八苦・八正道などの人生に関する哲学は、基本的に伝統仏教を継承しています。これに加え、幸福オリジナルの徳目として、愛・智慧・反省・発展という四つの倫理を重視しています。世界観は「無我」よりも「唯識」に近く、霊魂や来世(あの世)が絶対的に実在する事を、伝統仏教よりも強く主張しています。但し鎌倉新仏教とは異なり、特定の修行を選択すれば確実に極楽往生できるとは考えず、死後の救済は、生前の信心と言行に基づき、照魔鏡の総合的判断で決まります。幸福の科学は、唯物論・無神論を第一の邪教とし、煩悩に偏重し過ぎた快楽主義や、教祖の利己的悪意に基づく新宗教(オウム真理教など)を批判しますが、基本的には仏教・キリスト教・イスラム教・儒教・道教・神道など、多くの宗教哲学を尊重し、世界宗教の和解と統合を目指しています。但し、新義真言宗を開いた覚鑁(かくばん)(平安時代)に関しては、好ましくない人物とされています。

「霊言」と「宇宙人」

 幸福の科学は、魔術・心霊現象の存在を肯定しますが、それを正しく用いるためには、敬虔な信仰心に基づく修行が不可欠であると戒めています。教団が信仰する代表的な霊能力として、任意の霊を人体に憑依させ、その声を聴くチャネリング行為が挙げられます。霊との直接交流は、宗教人類学ではシャーマニズムと呼ばれ、一神教の預言者にも通ずる能力であり、大川総裁の憑霊現象を「霊言」と呼んでいます。霊言の特徴は、憑霊の開始・終了タイミングを霊媒側が決める事ができ、憑依されている状態でも自意識・記憶を保持できる(霊に体を完全には乗っ取られていない)という点です。霊言の内容は、録画映像や書籍として公開され、憑依する霊は、故人の場合は本人の霊が、存命人物の場合は当人の分身である「守護霊」が登場します。故人の霊言は、死後どのような他界に逝ったか(成仏したか)を知るのに役立ちます。一方で、存命している人物の許諾を得ずに、守護霊の言葉を記録し、当人の「本心」を暴露するかのような体裁で公表する事は、当事者らの反発を招く恐れもあります。

 幸福の科学で説かれる宇宙人は、地球人の相対性理論を凌駕する科学技術を発達させているらしいので、地球とのコンタクトが可能です。但し、宇宙船(未確認飛行物体)による物理学的な長距離移動だけとは限らず、霊魂のようなエネルギー状態での移動もあり得ます。例えば、異星人が地球に輪廻転生する場合は、その肉体を宇宙船で地球に運ばなくても、宇宙人の霊魂を地球人の胎児に宿らせるという事が考えられます。つまり「地球で生まれた地球人だが、前世は他惑星の宇宙人だった」という事もあり得ます。よって、幸福の科学における「宇宙人」は、狭義の地球外知的生物だけでなく、霊的な存在としても捉える必要があるでしょう。なお、昨今の新型ウィルスに関しては、中国共産党の生物兵器が、宇宙からの攻撃で流出したと言われています。

天人相関説(いわゆる天罰)

 幸福の科学は、国民の在り方、誤った思想に基づく政治が、大震災などの天変地異(天譴)を招くと考えています。これは儒教の天人相関説であり、我が国においても、鎌倉時代の日蓮宗などで長く説かれており、それ自体は歴史的に異常な思想ではありません。但し、科学技術が発達した現代日本で「天罰」を大々的に呼号する戦術は、恐怖で国民を脅迫し、利益のために災害を利用している…と誤解される恐れがあります。死後の世界において、生前の業に応じた審判を受けると信ずるのは、宗教として至極当然なのですが、この世の段階において、例えば「幸福の科学を信仰しない者、幸福実現党を支持しない者は、天罰で殺されても仕方ない」という思想に傾斜してしまうならば、それに対する反感も強くなると思います。

政治活動に関して

 幸福の科学(幸福実現党)の特徴として、現世における物質的繁栄を積極的に肯定し、ゆえに政治色が非常に強い事が挙げられます。その主張は、一言で表せば「富国強兵」であり、減税による「小さな政府」や、中国共産党との戦争に備えた軍拡と憲法改正などを訴えています。信教や経済活動など、自由主義を擁護する性格も強いですが、どちらかと言えば右翼的に思えます。そのため、政策の方向性が似ている、トランプ大統領らのアメリカ共和党に強い好感を示しています。この点はまさに、前篇において言及した、福音原理主義的キリスト教会と共通しています。更に、新型ウィルスの脅威を過大評価する事に反対し、マスク着用や自粛経済の風潮を嫌う点でも、幸福信者とトランプ支持者は似ています。但し、天皇陛下ではなく「大統領」を国家元首にしようとしたり、皇室の霊言を出版したりしたので、日本国内の右翼運動においては、反感も多く評価が分かれています。幸福の科学は、宗教としては唯心論に近い立場であり、信仰を中心とする、正しき「心」の修練を説いていますが、政治・経済の話題になると、税金を安くするとか、軍隊を強くするとか、結局はカネとモノ、この世的な力で問題を解決しようとする傾向が見られます。

 幸福実現党は元々、北朝鮮の核ミサイル開発を早くから警告し、その対策を訴えていましたが、トランプ政権が米朝首脳会談に乗り出すなど、非核化に向けた交渉が行われるようになってからは、中国共産党を第一の仮想敵国と見做しています。特に、毛沢東思想の影響が強いとされる習近平主席が権力を固めると、幸福の反中路線も鮮明になっています。ところが大川総裁は、かつて毛沢東の霊言を聴いた際、彼の死後に関して「日本軍と戦った英雄として尊敬されているので、一応は天上界に昇っているだろう」などと述べていました。大川氏のエリート経歴(東京大学法学部など)であれば、毛沢東が多くの罪を犯した唯物論者であり、決して天国に成仏できるような人物ではないという事を、知らないはずがありません。その後、毛沢東の霊に再度「インタビュー」した結果、現在では、彼を最大級の悪魔と見做すようになっています。しかし、宇宙の根本仏にして地球の救世主を自任する教祖が、悪魔の正体を一度では見抜けなかったという事実には、疑念を抱かざるを得ません。

 少数民族や香港の問題もあり、独裁的な中国共産党を激しく敵視している幸福の科学ですが、ロシア(キリスト正教会)やイラン(イスラム教シーア派)のように、例え独裁的な政権(権威主義)であっても、宗教的と見做した国家には好意的な傾向が見られます。但し、仏陀再誕の教義を否定し、幸福の科学を迫害するタイ王国に関しては「小乗仏教の悪魔」などと断罪しています。また、幸福の科学は善悪の峻別を重視するものの、その対立軸は善悪だけとは限らず、天上界から人間を指導している高級霊(神々・天使・預言者)同士が対立する場合もあります。例えば、日本と米国とイスラム教国が戦争するような事態になった場合、神道の神々は日本を、ミカエルは米国を、マホメットはイスラム軍を霊界から援護し、キリストは戦争自体を忌避するようです。一方、中華帝国の歴史に関与して来た霊としては、始皇帝娘々(ニャンニャン)など道教の神々が挙げられます。

 東京における幸福実現党の動向としては、これまで七海(ななみ)裕子(ひろこ)氏が精力的な活動を行っており、都知事選挙にも立候補しています。しかし2020(令和二)年の知事選では、選挙期間の途中に「マスメディアが主要候補以外を真剣に報道しないので、撤退する」と突如表明し、敵前逃亡してしまいました。幸福の科学に「自己の失敗を、他者や環境のせいにする人間は成功できない」という教えがあるのを、七海氏は御存知ないのでしょうか。幸福の科学が、本気で国政に参画しようとするならば、下記のような課題があると思います。

(

✔ 特定の教団が政府を支配するのは、政教分離に反しないか?

✔ 民主制を守ると言っているが、国民世論よりも、指導者(教祖)の思想や決定を絶対的に優先するのであれば、それは共産党などと同じであり、民主的とは言えないのでは?

✔ 幸福の科学を信仰しない者や、幸福実現党に投票しない者の人権は保障されるのか?

✔ 幸福に反対する人物の守護霊言を、当人の「本心」であるかのように暴露したり、幸福を支持しなければ天罰が当たる、地獄に堕ちると恫喝するなど、恐怖で国民を支配するのではないか?

✔ 理想が高過ぎる人、正義感の強過ぎる人が政治権力を握ると、自己の信念を他者にも強制しようとして、暴走する恐れがあるのではないか?

✔ 幸福の教えを世界に伝道しようとする熱烈な意欲が軍事力と結び付き、宗教戦争を引き起こす恐れがあるのではないか?

✔ 靖国神社に参拝するなど、戦争を美化する極右的な「大東亜戦争」史観を貫こうとすれば、中韓などの東アジアだけでなく、欧米諸国とも対立し、国際的に孤立するのではないか?

✔ 万一、指導者が判断を誤ったり、悪魔に憑依された人物が党首として権力を握った場合、どのように対処し、誰が責任を取るのか?

✔ 一旦、権力を握ると、それを手放したくないという天狗的欲望が目的になってしまい、政治も宗教も堕落腐敗してしまうのではないか?

✔ 選挙敗戦を潔く認めず、敵愾心や陰謀論を煽動したトランプ大統領の政権は、最終的に、狂信的支持者が連邦議会を襲撃するという、最悪の結末に至ったが、あのような手法が「宗教的に正しい政治」と言えるのか?

✔ どんなに経済や軍事が富強を誇っても、国民一人ひとりが魂のレベルで変わらない限り、真の幸福など実現しないのでは?

 私は、真善美を探究する信仰心は、政治を志す上でも大切な価値観だと思います。しかしながら「集団」や「権力」が関わると、人間は変貌したり、重大な判断を誤ってしまう事もあります。よって私は、教祖が存命している新宗教など、上からの指示を「神の命令」として絶対服従(上意下達)するような団体は、あまり民主政治との相性が良くないと思います。政治において重要なのは、指導者に服従したり、自己の信仰を一方的に主張するのではなく、自分自身で主体的に考え、他者の異なる価値観を尊重し、時に摩擦しながらも合意形成を摸索する事ではないでしょうか。結局のところ、現状の政治を根本的に改良するためには、国民一人ひとりが善なる方向に変わるしかないと思います。

 本論の目的は、飽くまで現代日本の新宗教を具体的に考察する事であり、特定の教団・政党に対する宣伝行為(支持・不支持を呼び掛ける運動)の意図は御座いません。

教団の問題点と誤解

 このような言い方はしたくないのですが、幸福の科学に最大の汚点があるとすれば、それは大川総裁の「御家騒動」です。大川氏の家族は、前世においても神や偉人であったとされ、教団の要職に抜擢される事が多く、幸福実現党の党首を務めた事もあります。ところが近年、総裁の妻子が、悪魔に憑依され、教団の発展に対して重大な罪を犯したとして、追放される事件が二度も発生しました。裁判が提訴されている事もあり、ここでは深入りしませんが、家族を「王家」のように重用した挙げ句に「粛清」するのは、まるで朝鮮労働党のようであり、このような教団に政治を任せたいとは、残念ながら思えません。毛沢東の正体を見抜けない、結婚相手と破局する、教育の法を説きながら子息の教育に失敗する…こうした事は、普通の人間ならば仕方ないのですが、救世主としてはどうなのでしょうか。現実的には、大川総裁も人間の体を持っている以上、この世においては常に万能とは限らないと考えなければ、信仰を続ける事は難しいように思われます。

 幸福の科学は、1980年代に誕生し、仏教を取り入れ、教祖を生き仏として崇拝し、超能力の存在を肯定し、宗教政党として選挙に立候補している事などから、宗教学においては、同様の特徴が見られたオウム真理教とセットで語られる事もあります(新々宗教)。しかし、両者には相違点も多く、安易に同一視すべきではありません。幸福の科学は、かつて講談社と激しく対立した時に、多量のファクシミリを送り付けて結果的に「業務妨害」になってしまった事はありますが、現在の活動において、教団として殺人などの犯罪を肯定するような言動は、私の知る限り皆無です。入信・布施を強要したり、離脱を絶対に許さないような方針も見られません。親が信者の場合、子女を半強制的に入信させる事はあり得ますが、これはキリスト教の幼児洗礼など、あらゆる宗教に存在する問題です。また、幸福の科学は魔術の存在を認めてはいますが、超能力の習得を活動目的としているわけではなく、寺院(精舎)での修行は、説法・祈願・瞑想・公案など極めて静謐(せいひつ)な祭祀儀礼であり、心身を虐待するような洗脳行為は見られません。更に、幸福実現党が選挙で敗戦すると、その後に発生した災害を「天罰」だと主張する傾向はありますが、だからと言って武力革命に訴える動きも見られません。よって幸福の科学を、オウム真理教などと同じような「カルト」と見做すのは、名誉毀損の恐れもあり、穏当ではないと考えます。

社会的活動

 幸福の科学は、全ての人間が尊い魂を持っていると信仰し、自殺した人間は成仏できないという教義を持っています。こうした価値観に基づき、自殺防止・イジメ対策・障碍者支援などに取り組む団体を設立したり、連携したりしています。それらに相談したからと言って、入信を強要されるわけではありません。こうした活動は、高く評価されるべきです。

 幸福の科学は『■■の法』を中心とする書籍の出版だけでなく、映画(実写・アニメーション)の制作による伝道も行われています。具体的には、教団の世界観を説明する神話系(太陽の法・永遠の法・宇宙の法など)、大川総裁の人生を再現した教祖伝(世界から希望が消えたなら・夜明けを信じて等)、オリジナルの物語に教義を取り入れたオカルト系(君のまなざし・僕の彼女は魔法使い・心霊喫茶など)、東アジアの某国との戦いを描いた政治系(ファイナルジャッジメント・神秘の法)、様々な福祉活動を取材したドキュメンタリー(心に寄り添う)など、幅広い分野をカバーしているので、関心のある作品から観ると良いでしょう。こうした映画には、教団組織の中で芸能活動を志している信者と、外注したプロの俳優・声優が一緒に出演しており、前者の実力不足が見られる場合もあります。しかし近年、芸能界から教団に転身した清水富美加(千眼)氏を起用するなど、クオリティーの進歩が見られます。

 幸福の科学に参画する人々は、まず「入会」と「三帰誓願」に分けられます。入会者は、幸福の教義に肯定的関心を持ち、神仏を信仰する人々であり、他宗教の信徒を兼任している場合もあります。三帰誓願は、根本仏に帰依した狭義の信者であり、大多数の在家信者と、教団職員である出家者とに分けられます。但し、現在は「入信試験」のような制度が行われていないので、形式上は三帰信者であっても、信仰心や教学が欠如している場合もあり得ます。責任を伴う役職などでない限り、教団への出入りに対する障壁は低く、個人の自由を重んずる宗教であると言えます。

参考文献

◆ 長谷川克彦『西洋史特講 西洋哲学史』(法政大学通信教育部1986)

◆ 大川隆法『新・太陽の法 エル・カンターレへの道』(幸福の科学出版1994)

◆ 鬼頭秀一『自然保護を問いなおす 環境倫理とネットワーク』(筑摩書房1996)

◆ 佐々木宏幹『聖と呪力の人類学』(講談社1996)

◆ 桂 令夫『イスラム幻想世界 怪物・英雄・魔術の物語』(新紀元社1998)

◆ 日本国際ギデオン協会『新約聖書』(日本聖書協会1999)

◆ 八川シズエ『パワーストーン百科全書331先達が語る鉱物にまつわる叡智』(中央アート出版社2000)

◆ 高階秀爾『西洋美術史 増補新装』(美術出版社2002)

◆ 草野 巧『パワーストーン 宝石の伝説と魔法の力』(新紀元社2003)

◆ 藤井 旭『星の神話・伝説図鑑』(ポプラ社2004)

◆ 東ゆみこ・造事務所『「世界の神々」がよくわかる本 ゼウス、アポロンからシヴァ、ギルガメシュまで』(PHP研究所2005)

◆ 山中茉莉『星座石 守護石 パワーストーンの起源』(八坂書房2007)

◆ ニッキー ガンベル『なぜ、イエス・キリスト?改訂新版』(アルファ・ジャパン2008)

◆ 川村記念美術館『静寂と色彩:月光のアンフラマンス』(川村記念美術館2009)

◆ 島崎 晋『徹底図解 世界の宗教』(新星出版社2010)

◆ 高木慶太『聖書とは?新装版』(いのちのことば社2011)

◆ フィリップ パーマット『クリスタルタロット』(ガイアブックス2011)

◆ 大谷 哲「西洋史概説」(法政大学通信教育部2016)

◆ 秋山千恵「史学概論」(法政大学通信教育部2017)

◆ 大川隆法『信仰の法 地球神エル・カンターレとは』(幸福の科学出版2018)

◆ 大川隆法・大川宏洋・赤羽 博『君のまなざし』(幸福の科学出版2018)

◆ 中村 敏『分断と排除の時代を生きる 共謀罪成立後の日本、トランプ政権とアメリカの福音派』(いのちのことば社2018)

◆ 大川隆法『青銅の法 人類のルーツに目覚め、愛に生きる』(幸福の科学出版2019)

◆ 大川隆法・今掛 勇『宇宙の法 黎明編』(幸福の科学出版2019)

◆ 大川隆法・アリプロ・清田英樹『僕の彼女は魔法使い』(幸福の科学出版2019)

◆ 大川隆法『鋼鉄の法 人生をしなやかに、力強く生きる』(幸福の科学出版2020)

◆ 矢ケ﨑典隆・加賀美雅弘・牛垣雄矢『地理学基礎シリーズ3 地誌学概論 第2版』(朝倉書店2020)

◆ 大川隆法『秘密の法 人生を変える新しい世界観』(幸福の科学出版2021)

 昨年度、私が提出した「道教と日本 天体崇拝を中心に」に関しまして、岡野講師から「何故、日本では道教が、独立した一つの宗教信仰として展開しなかったのか?」という総評を頂きました。ここで明確な結論を提示するのは難しいのですが、一つ考えられるのは「神の名称に固執しない日本人にとって、自然崇拝という点で神道と価値観を共有する道教は、仏教のような『別の宗教』ではなく、神道の一部に近い形で扱われた」という仮説を述べる事ができるのではないかと思います。ユダヤ教やイスラム教に比べ、日本神道は、神の御名に対する(こだわ)りが緩いように思われます。例えば、世界に初めて顕現した神を『古事記』は天御中主神、『日本書紀』は国常立尊であると伝えており、同名の神であっても、当てられている漢字が記紀で異なる事例も見受けられます。つまり「この神の御名は、こう呼ばなければならない」という掟が希薄であるように思えます。しかも神道と道教は、自然崇拝を共有しています。

 例えば北極星に対して、漢民族(道教)が「天帝太一神・紫微大帝」と呼び、日本人(神道)が「天御中主神」と呼んだとします。この時、日本人が「彼らは、我々とは異なる名前の神を唱えているので、別の宗教だ」と捉えるのではなく、むしろ「名前の呼び方は違っていても、同じ北極星を崇拝しているのだから、同じ神であり、同じ宗教だ」と考えたのであれば、道教は独立した宗教ではなく、日本神道の「中国語版」として認識され、神道に吸収される余地が生じます。これに対して仏教や儒教は、創唱宗教として明確な教祖・教典・教義を持っているため、自然崇拝が強い神道・道教とは異なる宗教(異文化)と認識されました。しかし、その仏教も、北極星などを「妙見菩薩」と呼んだので、元来は別々の宗教であるとの留保を置きながらも、神仏習合が成立したと思われます。日本人の宗教観において重要なのは、神の「名称」ではなく、信仰する「対象」であり、それがどこまで一致するかによって、神道に「併合」された道教、神道と「対等合併」した仏教、独立宗教と見做された儒教を分けたのではないでしょうか。
2021/01/09
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色