東京大森・池上の地域調査 大森貝塚から池上本門寺まで数千年を一日で巡検する
文字数 5,961文字
2020/12/03
星槎大学 共生科学専攻
準備作業
1947(昭和二十二)年、大森区と蒲田区が合併し「大田区」が成立した。南部の旧蒲田区は、筆者の生まれ故郷であり、大森から移転した区役所が立地し、筆者の現住所でもある。本稿の調査対象は、北部の旧大森区であり、特に東京都道421号線「池上通り」周辺の、北は大森貝塚(大森駅)から、南は池上本門寺(池上駅)までの地域を巡検する(大森貝塚の北半は品川区)。
地形図
国土地理院2万5000地形図では「東京西南部」に大部分が含まれるが、池上の全域を把握するには「川崎」も必要である。この2枚があれば、東京湾臨海埋立地を除く大田区の大半を読図できる。なお「東京南西部」には、大森南貝塚(大森貝墟)は史跡記号と文字で明記されているが、北部の大井貝塚遺跡庭園は地形しか描かれておらず、品川歴史館も交番記号との重複で省略されているので、巡検地図としては注意を要する。
博物館
現地での観察実施・巡検再現

大森駅
JR品川・大井町駅から京浜東北線で大森駅に向かう時、車窓から西方を凝視していると、大森に停車する直前で「塚貝森大」①及び「大森貝墟」②と銘打たれた石碑を視認できる。後述のように、これはモースによる大森貝塚発見の追体験である。

大森駅で下車すると、プラットフォームに「日本考古学発祥の地」と刻まれた縄文土器の石碑③が展示されている。階段を登って改札口を抜け、西口に出ると、駅前広場の噴水にも縄文土器④が用いられている(近年は改修工事で見られない)。また、駅構内で押印できる記念スタンプには「池上本門寺と大森貝塚」が描かれている。最近、スタンプのデザインがリニューアルされたが、新スタンプにも貝殻が描かれている。このように大森駅は、そのアイデンティティーに大森貝塚と池上本門寺を挙げ、特に大森貝塚を重視している事が分かる。

大森駅の北口・西口とプラットフォーム・東口とでは、かなりの高低差があり、多くの階段と坂道がある事にも注目したい。これは大森駅が、武蔵野台地(荏原台)を山手(洪積台地)と下町(沖積低地)に分ける「崖線」上に立地する事を示している。この崖線は縄文時代の海岸線であり、当時の人類は台地上に大森貝塚を築いた。そして、この崖下に鉄道を敷設した事が、車窓から貝塚を発見する一因になったのだろう。大森貝塚の遺跡は、駅北口から更に北方へと歩いた先にある。
大森貝墟史跡
大森貝塚は1877(明治十)年、米国から東京大学に出講していた動物学者Eモースが発掘した、縄文時代後期・晩期(約3000年前)を中心とする遺跡である。京浜東北線の車窓から、二つの石碑が見えた事からも分かるように、大森貝塚には史跡が二つ存在する。ここで仮に名前を付けると、大森町 新井宿村(大田区山王)の「大森貝墟」(南貝塚)と、品川区 大井町の「大井貝塚」とに分けられる。このうち大田区内に立地しているのが、南の貝塚と推定される「大森貝墟」⑤である。

品川歴史館によると、ここは大森貝塚の分布範囲ではあるものの、モースが訪れた時には、既に畑の耕作で壊れており、遺物出土を伴う発掘調査はできなかった場所のようである。そのため、史跡⑥ではあるが記念碑などの人工物が多く、残念ながら当時の貝塚地層は観察できない。それでも、大森駅から近い事もあり、地球史の中にある人類史を記憶する保存・顕彰活動が行われて来た。史跡に入るには階段を降りる必要があり、ここにも崖線地形が反映されている。
大井貝塚遺跡庭園
大森貝墟から北に歩き、鹿島谷と呼ばれる暗渠河川を渡って品川区に入ると、遺跡庭園に整備された「大井貝塚」がある。モースの発掘調査地点と推定されており、その後も何度か発掘調査されている。現在は「大森貝塚遺跡庭園」という公園になっており、縄文時代をイメージした噴水などの神秘的な回廊広場⑦、モースの銅像、そして実物の地層⑧を見る事ができる。開園時間内であれば、自転車も駐輪可能。歴史という悠久の時空に、自己の存在を体感できる場所である。

大森貝塚の研究者はモース以外にも、ドイツのハインリッヒ シーボルト、地質学者Eナウマン、英国の地震学者Jミルンがいる。縄文時代の人種民族(原日本人)に関して、彼らはアイヌ人と考えたが、モースはアイヌ以前の先住民族「プレアイヌ」説を唱えた。日本人では生態民俗学の南方熊楠や、作家の江見水蔭などが訪れた。
品川歴史館

郷土博物館
大森貝塚の巡検を終えたら、都道421号線「池上通り」を南下して池上方面に向かう。筆者は地元住民なので自転車を使えるが、大森操車場・大森駅から東急バスに乗車する事も可能。池上街道の西方には馬込の地域が広がっており、南馬込に大田区立郷土博物館が立地する。貝塚爽平氏によると、馬込町村の谷はかつて、東京湾の海水が流れる入江だったと推定される。また、西馬込(都営浅草線)駅前に設置された区の看板によれば、多くの坂道が複雑に入り組む馬込は「九十九谷」とも呼ばれ、大正・昭和時代に多くの作家が訪れて「馬込文士村」を形成した。しかし、馬込は道に迷い易く、攻略に時間と体力を要するので、今回の巡検では、事前・事後に郷土博物館で資料を収集する程度に留めておく。
太田神社
池上街道を南下して「東急バス池上営業所」で降車し、近くの交差点(セブンイレブンの先にあるローソンが目印)で西に右折して直進すると、市野倉(大田区中央)地域の産土神である太田神社⑩が鎮座している。境内の杜は、区条例の保護樹林に指定され、常緑樹も見られる(縄文時代の温暖気候の名残か)。第十五代天皇と伝わる応神大王⑪を祀っており、豊前宇佐八幡神宮(大分県 宇佐市)を中心とする八幡信仰の神社神道と思われる。古くは八幡社・八幡宮と呼ばれ、文献史料や松年輪から推測すると、江戸時代17世紀頃には建立していたと考えられる。

応神帝は、神仏習合で仏教に取り入れられ八幡大菩薩とも呼ばれるようになったが、太田神社も、隣接する日蓮宗長勝寺⑫と結び付いている。また、太田神社は『平家物語』に登場する那須氏と縁が深く、御神体である八幡大菩薩像は、那須氏が屋島・壇ノ浦の戦い(1185)で身に付けていた御本尊と伝わる。そのため、この市野倉高台は「那須原」とも呼ばれる。明治時代に現名へと改称するが、注意すべきは「大田神社」ではなく「太田神社」である点。境内で配布されている「由緒書」によると、この社名は太田氏の苗字に由来し、二つの説がある。一つは、かつて市野倉などを治め、八幡社を祀っていた太田新六郎に因む説。もう一つは室町時代、太田道灌が江戸城の建築に際して、その候補地として訪れた…との説もあるが、真偽は不詳。毎年5月に、例大祭が挙行される。
堤方権現台古墳
太田神社からに西に歩くと、池上本門寺の台地が広がる。この台地は、地形学的には荏原台の南端付近に当たる。本門寺の山号では「長栄山」と呼ばれ、日蓮宗の守護神「長栄大威徳天」が宿ると伝わる。東麓には、筆者の母校である大森第四中学校や、その卒業式で使われる本門寺公園⑬がある。池上本門寺の周辺は、大田区自然観察路「縄文の道」に指定されており、区環境計画課の看板によれば、縄文時代に一帯を覆っていた椎(ブナ科広葉樹)などの常緑樹林が、現在も広い面積に遺されている。中学校の西隣には堤方神社が鎮座し、天照大御神・応神大王・仁徳大王などを祀る。その南に入った永寿院は、徳川氏の墓所「万両塚」で知られるが、2007(平成十九)年などの発掘調査により、弥生時代中期・後期と古墳時代後期の遺跡である事が判明し、堤方権現台古墳⑭と名付けられた。筆者が中学時代を過ごした母校の丘には、高名な神霊・天皇が祀られているだけでなく、東京にありながら2000年前の古墳が遺されている場所でもあった。堤方神社・大森中学校から南東に降り、大森めぐみ教会⑮に至る斜面は「めぐみ坂」と呼ばれるが、これは教会を創立した牧師の、亡き長男の名前に由来する。

ところで、大森第四中学校の校歌には「潮風香る清陵」という歌詞があり、母校の愛称に「清陵の丘」という地名が用いられる。長栄山台地は東京湾から離れており、格別「潮風」を感じられる場所ではないが、後述のように呑川低地が海没していた時代であれば、海陸風が直撃する海岸であったと思われる。また、清陵の「陵」には「天子の墓」という字義もあるが(新漢語林)、やはり本門寺が関わっているのだろうか。思えば我が母校にも、七不思議などの「怖い話」が伝承されていたようだが…。
呑川
池上本門寺⑯の巡礼を終えたら、加藤清正の石段を降りて呑川⑰の下町低地に出る。池上会館の周辺では毎年8月下旬に「池上祭」と呼ばれる夏祭が開催され、筆者らも郷土の歴史地理に関する展示などに協力しているが、今年は新型ウィルスで中止を余儀なくされた。沖積低地の谷に当たる呑川も、かつては東京湾の入江であったと考えられる。筆者の出身小学校や塾、そして現在の職場も呑川流域に立地している。この河川を渡り、門前町商店街である「本門寺通り」⑱を通って東急池上駅に到着し、巡検は終了(写真は去年の本門寺御会式)。

まとめ・分析
今回の巡検で歩いた、遺跡や寺社などが見られる地形は、氷河時代の更新世後期に形成された洪積台地であり、東京・埼玉・神奈川に広がる武蔵野台地の一部である。武蔵野台地は、年代に応じて幾つかの「面」や「台」に分類され、古いほうから順に下末吉面・武蔵野面・立川面などと呼ばれる。爽平・水野両氏の著書を参考に、武蔵野の地形分類を表現すると、次のようになる。

この年表を見ると、巡検した大森地域は武蔵野の中でも古く、約12万年前頃に形成された「下末吉面」の「荏原台」という台地である事が分かる。荏原台地は、世田谷の西部から南目黒を通って大森・池上まで続いている。かつては新宿・渋谷・北沢などの「淀橋台」と繋がった海底であり、形成年代が古いので、多くの火山灰が堆積し、長期間の浸蝕作用で削られたので、起伏・坂道が多いという特徴がある。
大森貝塚・池上本門寺・呑川の更新世地層(更新統)には、箱根・富士山の噴火による関東火山灰層(ローム)が堆積しているが、都市開発の進んだ現在は観察困難である。呑川より南西の久が原は武蔵野面に、田園調布は下末吉面に分類される。大森の簡易的な地形分類図を作成すると、次のようになる(ほぼ左上が北)。

大森の武蔵野台地は呑川を境界に、荏原台と田園調布台・久が原台に分かれており、荏原と田園調布は下末吉面を共有している事が分かる。蒲田は、呑川と多摩川の沖積低地に相当する。地球温暖化に伴う縄文海進により、現代よりも広大な奥東京湾が形成され、下町低地は海没した。池上呑川や馬込の谷は入江になり、関東火山灰層の砕屑物・有機物が堆積して泥炭地が発達した。一方、原日本人が貝塚などの遺跡を営んだ荏原台地には、黒潮海流の温暖気候に適応した、常緑広葉樹を中心とする照葉樹林が生育し、その名残が現代の景観にも見られる。常緑樹が大森林を形成した「大森台地」、蒲などの水草が田のように茂る「蒲田低地」を想像すると分かり易い。
大森貝塚から池上本門寺に至る今回の巡検は、武蔵野台地南東部の荏原台南端に至る地形の踏破であり、第四紀の自然環境と、その変動に対峙して来た、私達の祖先を巡る旅でもあった。そこには、伝統的な神道・仏教、欧米から伝来したキリスト教、そしてモース博士らが開花させた生物学・考古学など、真善美に対する様々な観点が存在し、自己と他者、人と自然の共生を考える「教材」としての郷土が広がっている。摘要を年表に記した。


大森 海苔のふるさと館(平和島)
大森海岸を始めとする江戸東京湾では、江戸時代中頃から1963(昭和三十八)年春まで海苔養殖が行われていた。現在は平和島などの埋立地が拡大しているが、縄文時代以来、大森に海辺の地域文化が育まれた事を再認識したい。2008(平成二十)年、平和の森公園に「大森 海苔のふるさと館」が開館。
洗足池・勝海舟記念館
旧大森区 池上町村の洗足池は、平安時代に呑川の支谷を堰き止めた灌漑溜池である。古く日蓮が訪れ、勝海舟の別荘・墓所、西郷隆盛の石碑など、本門寺との縁も深い。2019(令和元)年、大田区立勝海舟記念館が開館。
参考文献
◆ 品川区立品川歴史館『大森貝塚ガイドブック モース博士と大森貝塚 改訂版』(品川区立品川歴史館2001/09)
◆ 品川区立品川歴史館『日本考古学は品川から始まった 大森貝塚と東京の貝塚』(品川区教育委員会2007/10)
◆ 貝塚爽平・鈴木毅彦『講談社学術文庫 東京の自然史』(講談社2011/11/10)
◆ 水野一晴『自然のしくみがわかる地理学入門「なぜ」がわかる地理学講義』(ベレ出版2015/04/25)