埼玉見沼における共育空間

文字数 8,594文字

埼玉見沼における共育空間

 本稿は、2019(令和元)年7月28日(日曜)に開催される「星槎学」(星槎大学共生科学部・鬼頭秀一学部長)参加の、事前研究として書かれた物です。なお、本文の執筆に際しては、信仰や人権に関する問題が含まれる内容である点を考慮し、常体(である体)よりも丁寧語(敬体・ですます体)で述べたほうが望ましいと判断させて頂きました。


 筆者は、國學院大学歴史地理学専攻(文学部史学科2007~2012)及び法政大学地理学科(文学部2014~2018)で地理学を研究し、特に埼玉県見沼の歴史地誌を、専門的に調査しました。そして現在、私が所属している星槎大学(星槎グループ)は、「人と自然の共生」を探究する「共生科学」や、それを実現する「共生教育」の理念を示しています。そこで本文では、景観保全問題とも密接に関わる見沼地域を、共生教育の観点から考察したいと思います。


 「見沼」とは、埼玉県南東部の大宮・浦和・川口に広がる農業地域であり、一般的には「見沼田圃」、地形学では「芝川低地」などと呼ばれています。但し、周囲の大宮台地に存在する貝塚・神社・斜面林が、見沼の景観と密接に結び付いている点を踏まえ、私はこれらの台地も「見沼」に含めるべきだと考えています。文中に挿入した画像は、全て筆者が現地調査で撮影した写真ですが、撮影地点・日時などの詳細情報は、今回は省略させて頂き、より本格的な研究論文を執筆する際に、可能な限り記述する予定です。

奥東京湾

 見沼の起源は、約6000~7000年前の縄文海進に始まります。当時の関東平野には、現在の東京湾より広い「奥東京湾」が形成されており、後に見沼と呼ばれる地域も水没していました。周辺の大宮台地には、多くの貝塚が密集しており(『見沼代用水沿革史』)、それが海の存在を証明しています。また、同じく大宮台地上の氷川女体神社(写真)には、琉球・九州・四国などに分布する暖地性植物(暖帯林)の植生が見られ、太平洋から黒潮暖流(日本海流)の影響を受けていた事を示しています(『見沼 その歴史と文化』)。後に見沼が、湖沼・溜池・新田など、陸水と関わる景観を形成した背景には、奥東京湾という海の存在があったのです。
 見沼の誕生をめぐる太古の歴史は、太陽活動と、それに伴う地球温暖化・海面上昇という、地球史の壮大な出来事を示しています。ヒマラヤ山脈から水棲動物の化石が産出するように、海陸の分布は大きく変動しています。海とは無縁に思われる埼玉県ですが、見沼という場所において、その数千年前の景色を想像する事によって、当たり前のように感じている現在の自然環境さえも、地球・宇宙スケールの変動によって創成された事に気付かされます。そして、温暖化が海の形を大きく変えるという事実は、私達への警告でもあります。地球温暖化を過去の実例から学ぶ事は、気候システムへの理解を深め、環境問題と向き合う切っ掛けになります。そして、自然との共生は、自然を知る事から始まると言えるでしょう。

御沼

 その後、海退によって東京湾から分離した芝川低地では、残った水が淡水化し、湖沼・湿地になります。貝塚爽平氏らは、地層から産出する珪藻化石の比較に基づき、海水から淡水への変化を論じています。また、貝塚氏は芝川の沖積地を「見沼泥炭地」と呼び、その地形学的性質として、「ここが排水の悪い湿地あるいは沼として長くつづき、泥炭の生長を許した理由としては、この地域が関東造盆地運動の一部として南上りの地殻変動をうけてきたことと、芝川の谷の出口が旧荒川の自然堤防でふさがれたことがあげられている」(『東京の自然史』198頁)と述べています。
 やがて、人間から「」に関する信仰を集めると共に、神への畏敬を込めて「御沼」と呼ばれるようになります。人々は大宮台地に村を営み、船で御沼を航行するようになりましたが、しばしば水難が発生したため、安全を祈る「竜神祭」が挙行されたと伝わります(前出『沿革史』)。大和朝廷の時代には、御沼では古墳が造営されない一方で、出雲大社に由来する、多数の氷川神社が勧請されるようになり、特に大宮の氷川神社、見沼区の中山神社(中氷川神社)、緑区の氷川女体神社が広く知られています。大宮氷川神社の本殿前に現在も広がる神池(写真)は、御沼の名残とも言われ、氷川女体神社の暖帯林と共に、過去の景観を観想する手掛かりになっています。また、芝川第一調節池の四本竹遺跡は、縄文時代の貝層・丸木舟が発掘されただけでなく、氷川女体神社の祭祀遺跡でもあった事が明らかになっています(『四本竹遺跡』)。
 さて、氷川神社は須佐之男(スサノオ)、氷川女体神社は奇稲田姫(クシナダヒメ)、中氷川神社は大国主(オオクニヌシ)を祀っており、いずれも出雲神話に伝わる神々ですが、御沼には元来、水に対する自然崇拝が存在したと考えられています。木本雅康氏は、「ミヌマは水の女神である」という折口信夫の研究や、四本竹の龍神伝説などを踏まえ、「水」と「火」に象徴される龍神信仰を、太陽信仰と結び付けて考察しました。海上直士氏も、氷川は「聖なる水場」を意味すると指摘し、大宮氷川神社での調査や、多数の氷川社が見沼を取り巻く分布から、氷川神社には水に対する基層信仰があると論じました。
 興味深いのは、御沼における神社神道と自然崇拝の関係性です。スサノオ神による「大蛇退治譚」を含む出雲神話は、蛇に通ずる龍神信仰とは相容れないように思えます。水を司る龍神への基層信仰がある御沼に、それを「退治」してしまうような氷川神社が、どうして建立されたのでしょうか? これは仮説ですが、近畿地方の大和朝廷が、武蔵国(武州)を征服・編入・統治する過程において、御沼土着の神を平定する象徴として、出雲神話が持ち込まれたのではないか…と私は考えています。また、國學院大学の歴史地理学教室(2009)で本件を議論した際には、「御沼の人々は水害を龍神の仕業と捉え、それを鎮定してくれる神を望んだのではないか」との御指摘もありました。水は、生命の源泉であると同時に、災害を引き起こす事もあり、龍神の怒りを鎮める役割を期待されたのが、出雲神話であり、氷川神社だったのかも知れません。
 更に、氷川神社が勧請された後も、龍神信仰は衰亡せず、氷川女体神社における「御船祭」「磐船祭」「祇園磐船竜神祭」などの形で、現代まで継承されている…という点も注目に値します。一方では、水を司る土着的な自然崇拝としての龍神信仰。他方では、大蛇退治譚を誇る西国由緒の氷川神社。言わば、見沼では「神と神の共生」が実現しているのです。御沼の人々は、出雲から武州に「派遣」されて来た神々を崇敬すると同時に、それ以前から地元におられる龍神様も忘れず、大切に語り継いで来たのではないでしょうか。
 我が国の神道文化は、民俗宗教・重層信仰(シンクレティズム)の性格が強く、キリシタン迫害や廃仏毀釈などを除けば、基本的には寛容な傾向が見られます。原理主義的な宗教対立や、異文化との摩擦・衝突が絶えない現代社会にとって、見沼の信仰は有意義な事例ではないでしょうか。相手が「人」であれ「自然」であれ、更には「神」であったとしても、他者に対して排除ありきで臨むのではなく、どうすれば相手を認め、理解・尊重できるかを模索しようとする心構えが、共生社会の構築と、そのための教育に求められています。
 16世紀には、大宮氷川神社に隣接し、御沼を天然の要害とする半島状台地に、潮田氏の砦である寿能城が建築されるなど、この地も戦国乱世に突入します。当時の戦史には、御沼がどのような湖沼だったのかを伝える記録が見られます。『見沼土地改良区史』は、岩付城(岩槻)の太田氏が、御沼を挟む吉野原(北区吉野町)で、河越城(川越)の上杉氏と合戦した際の史料から、降雨時には面積が広がり、乾燥期には狭まる「流水沼」だった可能性を指摘しています。自然科学的分析だけでなく、人間が書き遺した史料からも、古環境を復元する手掛かりを得られます。地理学や共生科学には、「文系」「理系」の縦割りに囚われない、学際的総合科学の役割が期待されます。また、近年の豪雨による水害などを見ても、土地の性質に対する理解は重要と言えます。
 後に、寿能城は豊臣軍の攻撃で陥落しますが、その際に入水自決した領民達が、龍神の慈悲で蛍に生まれ変わり、それを知った少女達が供養した…と云う「寿能の蛍」伝承が謡われるようになりました。寿能城は、先述の氷川神社と隣接していたと考えられますが、この伝承にも、やはり龍神が登場しています。そして、寿能城に関する人々の物語は、戦乱で亡くなった魂魄の慰霊と共に語り継がれ、本丸の城址である寿能公園には、墓碑(写真)だけが遺されています。戦争に伴う自殺は、決して美化されるべき行為ではありませんが、だからこそ、そのような悲しい時代が存在したという事実は、記憶されるべきです。翻って現代は、人命が大切にされる世界を、果たして実現できているのでしょうか? 2016(平成二十八)年の相模原障碍者殺傷事件は、共生社会を揺るがす甚大な衝撃をもたらしましたが、それから3年が過ぎ、本文を執筆している2019年7月にも、京都のアニメーション会社が放火されるなど、人間生命の尊厳(基本的人権)を脅かす、テロリズムとも形容できるような風潮の蔓延を感じます。折しも、世間では参議院選挙が繰り広げられています。教育や政治は、個人に特定の思想を強要する事はできませんが、最低限必要であろう約束として、生命を尊重する「心」の涵養には、官民が協力して取り組むべきではないでしょうか。

見沼溜井

 『見沼土地改良区史』によると、江戸時代の見沼は「三沼」と表記されており、元来は独立した三つの沼だったのではないかと考察されています。さて、江戸時代が始まった17世紀、三沼は幕府による自然開発の対象になります。浦和(緑区)と川口の間に「八丁堤」という堤防が築かれ、三沼湿地を南下する芝川(写真)を堰き止める事によって、「見沼溜井」と呼ばれる溜池が形成されました。しかし、農地が水没する「水怒り」を引き起こしたり、岩付がしばしば洪水に遭うという弊害も生じました。また、土砂の堆積によって水深が浅くなり、貯水能力が低下し、新たな用水需要への対応も困難になりました。見沼溜井の弱点は、『新編埼玉県史』などに詳しいです。
 この八丁堤は、後の貫通工事によって堤防としての機能を失った後も、地名に残り続け、現在は県道が走っています。見沼開発の原点とも言える八丁堤について、宇杉和夫氏は、当時の農業景観を代表する文化財と評価し、歩行者中心の道路「八丁堤モール」の整備を提案しています。また、「堤」の語源は「陸水を包む」ですので、八丁堤には、龍の神池を護る(鳥居のような)宗教的結界の意味もあったのではないか?と私は推定しています。

見沼新田

 18世紀には、当時の享保改革によって新田開発が奨励される中、見沼も干拓の対象に選ばれます。八丁堤の貫通工事によって、芝川を復活させ、見沼溜井を干拓すると共に、芝川を荒川への排水路として活用しました。一方、見沼溜井の代替となる水源として、北方の利根川から水路を引く「見沼代用水」(写真)が造られました。こうして、見沼溜井は「見沼新田」に生まれ変わる事になったのです。また、見沼と同じく大宮台地に入り込んだ低地であり、見沼の西に位置する鴻沼(高沼)でも、同様の新田開発が行われており、宇杉氏は「高沼は見沼のミニチュア景観」(『見沼田んぼの景観学』104頁)と評し、大宮台地・氷川神社を通して、見沼と鴻沼は密接不可分な景観を構成すると指摘しています。
 見沼代用水は、見沼溜井の欠点を克服しようと試みた計画でしたが、ここで新たな問題が発生しました。飯島章氏によると、灌漑面積の拡大や、浅間山からの火山灰堆積によって用水不足が発生したり、更に田村敬氏によれば、綾瀬川上流域への分水工事の結果、一部の村で排水不良が起きたりしていた事が研究されています。このように、見沼溜井・見沼代用水の歴史を学びますと、江戸時代の人々が「水が少ない」「水が多過ぎる」という問題に、懸命に立ち向かっていた事が分かります。そして、これはまさに、例えばダム開発の是非など、現代日本の治水・利水問題にも通ずる教訓です。自然を人為的にコントロールする事が、如何に困難であるかを認識し、どのような開発をすべきなのか(すべきではないのか)を慎重に考慮しながら試行錯誤する事が、持続可能な開発・発展、自然との共生に必要な姿勢です。
 見沼干拓の結果、氷川女体神社による四本竹での御船祭は不可能になりましたが、代替の磐船祭が幕末まで挙行され続けました。龍神信仰を継承しようとした、強い意志を感じさせます。
 見沼代用水と同時期に、八丁堤のすぐ北に「見沼通船堀」(写真)が開削され、見沼代用水と芝川を連結し、芝川から荒川を下って江戸に至る水上交通が形成されました。見沼通船堀は、水位を調整しながら船舶を通す、パナマ式の運河であり、日本最古の有門式運河です。維新後には見沼通船会社が設立され、明治中期に最盛期を迎えます。野崎雅秀氏は、見沼通船が高崎線・東北本線の中間に位置していたため、鉄道と競合せず、東京との物資輸送を担い続けた事を明らかにしています。明治時代は、まだ自動車が普及しておらず、当時の鉄道だけでは不充分だった流通の役割を、見沼通船が担っていたという事になります。こうした、ほかの産業だけでは補えていない市場を狙う戦略は、企業の発展だけでなく、より豊かな社会の構築にも必要な資質です。それは、「必要なところ」で「必要なことをする」精神と表現する事もできるでしょう。
 小林義雄氏は、江戸幕府による規制が、結果的に見沼の自然環境保護に貢献したとの説を述べています。江戸時代には、見沼一帯が紀伊和歌山藩の鷹狩場に指定され、大宮台地の斜面林も旗本領であったため、安易に開発できない状態だったのです。今風に形容すれば、国と和歌山県の「公有地」だったわけですが、現代でも景観保全の手段として、土地の購入・公有地化が進められています。

見沼田圃

 昭和時代には、東京府の貯水池計画(1934)による水没の危機や、第二次大戦で寿能城が高射砲陣地に改造される出来事を経て、見沼は戦後を迎えます。見沼新田では水田の畑作転換が進み、「見沼田圃」と呼ばれるようになりました。見沼の自然環境は、世界自然遺産とは異なり、人間の農業活動によって維持されている文化景観であり、村上明夫氏は「農村生態系」と呼んでいます。
 東京と接する首都圏の中にあって、見沼を保全する契機になったのは、1958(昭和三十三)年の狩野川台風でした。この災害に際して、見沼田圃が天然ダムとしての貯水機能を発揮した結果、東京の被害を軽減する役割を果たしたのです。こうして、見沼の遊水機能が注目され、それを維持するため、埼玉県は1965(昭和四十)年に「見沼田圃農地転用方針」通称「見沼三原則」を制定しました。これによって、対象地域を緑地(治水上支障を来さない永続的な空間)として維持する事が求められ、次いで全域を市街化調整区域(市街化を抑制すべき区域)に指定し、東京五輪(1964)に代表される都市開発の波から、見沼を保護するのに役立ちました。
 しかし、1979(昭和五十四)年から着工された改修事業によって、見沼代用水の両岸と底の3面がコンクリート護岸され、利水強化の代償として、江戸時代の原型から近代的な人工河川へと、その親水環境は変貌を余儀なくされました。改修の目的には、農業用水の確保に加え、埼玉県・東京都の水道水への転用も挙げられており、多大な水道水を消費している私達・東京都民の立場としては、安易に批判できない問題でもあります。但し、用水東縁の一部に関しては、埼玉県から斜面林景観調査を委託されていた宇杉氏の提言などが奏功し、原型保全が実現しました(写真)。また、この地区に隣接する斜面林も、「緑のトラスト協会」によって保全されています。
 1995(平成七)年には、「見沼三原則」を改正して「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」が定められました。兼業化・高齢化に悩む農家の負担を軽減するため、一定の規制緩和を認めると同時に、土地購入のための財源確保や、斜面林保全への言及、治水だけでなく歴史・農業・自然をも含めた見沼の意義が示された理念になっています。折しも、二度目の東京五輪を来年に控えていますが、現地住民の意見を最大限に尊重しつつ、見沼地域を未来へと保全し続ける事ができれば、首都圏における景観保全の成功例と言えるでしょう。
 本稿では見沼地域を、共生社会・共生教育と関連付けた考察を試みました。「首都圏最後の大自然空間」(小林氏)と言われる見沼は、これまで見て来たように、現代社会の課題を解決する上で、叡智の宝庫と評しても過言ではない地域です。しかも、埼玉県南東の大宮・浦和・川口に立地しているため、現地住民の方々だけでなく、東京で暮らしている私達にとっても、教育・散策・研究の題材として、比較的アクセスし易いという利点があります。元来、東京・埼玉は「武蔵国」と総称されていましたが、『東京の自然史』では、武蔵野台地(山の手台地・下末吉面・荏原台)の地形として、私の地元(大田区)にある大森貝塚(写真)・池上本門寺・呑川を挙げているだけでなく、大宮台地に至る谷底の沖積低地として、芝川・見沼にも言及しており、県境を越えた観点が大切です。
 地域に形成された景観を理解する上で、客観的な考察が重要なのは、科学として自明の理です。但し、景観保全を議論する場合には、なぜ保全すべきなのか?という部分で価値判断を求められます。環境問題の評価にも、「人間中心主義」や「生態系中心主義」などの立場があり、例えば日本の捕鯨をめぐる対立は、科学的な論争よりも、価値観の衝突という性格が見られます。筆者は景観の考察に際して、「人文主義地理学」や民俗学などで提唱されているような、世界を観測する主体として人間の「心」を重視しています。人間は単なる「物」ではなく、感情や信仰を持った、尊厳ある生命の存在として認識されるべきであり、それが精神文化の尊重につながります。本文で取り上げた「御沼氷川龍神文化」(筆者による仮称)には、自然に対する畏怖と敬意が込められており、そうした謙虚な価値観は、現代の自然環境に対しても、そして人間同士の関係においても、今こそ求められている姿勢です。他者を認め合い、全ての人間が幸せになれる社会・国家を実現するに当たり、こうした見沼の研究が、その一助となる事を願っております。

参考文献

◆ 見沼代用水土地改良区『見沼代用水沿革史』(1957)

◆ 大宮市『大宮市史 古代・中世編』(1971)

◆ 埼玉県『新編埼玉県史 通史編』(1979)

◆ 飯島 章「天保期における幕府の治水政策 武州北河原・見沼代用水を中心に」(国史学会『国史学135』1988)

◆ 見沼土地改良区『見沼土地改良区史』(1988)

◆ 大宮市立博物館『寿能城と戦国時代の大宮 第13回特別展図録』(1990)

◆ 木本雅康「氷川神社の方位と信仰」(『國學院雑誌93巻8号』1992)

◆ 埼玉県埋蔵文化財調査事業団『四本竹遺跡 芝川第1調節池関係埋蔵文化財発掘調査報告』(1992)

◆ 小林義雄『見沼田んぼを歩く 首都圏最後の大自然空間』(農文協1993)

◆ 海上直士「氷川神社の宗教地理学的考察」(『成蹊人文研究4号』1996)

◆ 浦和市立郷土博物館『見沼 その歴史と文化』(さきたま出版会2000)

◆ 野崎雅秀「近代における見沼代用水の舟運」(老川慶喜・大豆生田稔『商品流通と東京市場』2000)

◆ 飛田多恵子『武蔵国の物語Ⅱ』(日本図書刊行会2003)

◆ 村上明夫『環境保護の市民政治学Ⅱ 見沼田んぼからの伝言』(幹書房2003)

◆ 宇杉和夫『見沼田んぼの景観学 龍のいる原風景の保全・再生』(古今書院2004)

◆ 岩槻市教育委員会教育総務部生涯学習課文化財係『岩槻城と城下町』(埼玉市立博物館2005)

◆ さいたま市立浦和博物館『戦国時代のさいたま 城と館からさぐる』(さいたま市立博物館2005)

◆ 田村 敬「天保期の見沼代用水に関する一考察」(新泉社『近世・近代日本社会の展開と社会諸科学の現在』2007)

◆ 見沼保全じゃぶじゃぶラボ『見沼見て歩き 見沼田んぼ散策ガイド』(幹書房2007)

◆ 島崎 晋『徹底図解 世界の宗教』(新星出版社2010)

◆ 貝塚爽平『東京の自然史』(講談社学術文庫2011)

◆ 上野和彦・椿真智子・中村康子『地理学基礎シリーズ1 地理学概論 第2版』(朝倉書店2015)

◆ 山脇直司『共生科学概説 共生社会の構築のために 教育・福祉・国際・スポーツ』(星槎大学出版会2019)

2019/07/20 敷地顕

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登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

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