生態学と環境倫理
文字数 2,552文字
私達・人類が、動植物を始めとする自然環境との共生を実現するため、その思想的アプローチを『共生科学概説 人と自然が共生する未来を創る』(坪内・保屋野・鬼頭
著/星槎大学出版会2018)に基づき摘要します。
生態学と哲学を結び付け「人間中心主義」の克服を提唱し、環境倫理学の議論を進めたのが、ホワイト『機械と神 現在の生態学的危機の歴史的根源』であった。ホワイトは、キリスト教が人間の自然支配を正当化する、最も人間中心主義的な宗教であり、近代科学やマルクス主義も同根だと批判した。ユダヤ教『創世記』から西洋近代主義に至る人間中心主義が、自然を尊ぶ伝統的なアニミズムを否定した結果、乱開発に対する道徳的な歯止めを喪失したのであり、環境危機の課題として、科学技術より宗教の功罪を指摘した。
これに対し、キリスト教の立場から反論したパスモア『自然に対する人間の責任』は、必ずしも『旧約聖書』は自然破壊を推奨しておらず、神の代理人である人間には、動植物を適正に支配し、保全する責任を負っているとの解釈を主張した。以降の自然保護思想は、人間中心主義的保全派と、人間非中心主義的保存派とに分化した。人間中心的保全は、功利主義と生態学に基礎付けられ、適切な科学的管理の範囲で、一定の天然資源の開発を認める論理であり、カリフォルニアのダム建設論争では、セオドア大統領の政権下で条件付き賛成の立場を取った。
動物解放論は、功利主義を動物に拡大した倫理哲学で、黒人や女性への差別と同様に、食糧・実験の手段として動物に苦痛を及ぼす「種差別主義」を指弾した。自然物当事者適格は、開発によって破壊される「自然」にも、裁判所に訴える法的権利があり、特定の自然環境に関係する個人・団体が、自然の「後見人」として裁判を提訴できるという法哲学の概念である。ディープ エコロジーは、全ての生命体が、生態系の中で本質的価値・普遍的権利を持つ全生命体平等主義の世界観で、それによって生物と文化の多様性を保証するエコロジー思想である。
環境主義的な環境倫理学を、ナッシュ『自然の権利 環境倫理の文明史』は思想史の図式にまとめた。それによれば、倫理の対象範囲は、時間と共に自己から家族→国家→人類→生命→地球→宇宙へと進化する。また、英米の
ナッシュの環境倫理は、折しも進行中の地球環境問題を解決する非人間中心主義として支持され、自然を人間中心の道具的価値と見なすのではなく、原生自然が持つ内在的・本質的価値が重視された。一方で、先進国を中心に人間を一枚岩に捉えた結果、途上国との南北問題など、人間同士の社会的問題は充分に把握できなかった。また、原生自然保護を絶対視した結果、途上国における先住民の自然資源利用をも排除する政策が取られた。
環境正義は、人間と自然の共生だけでなく、環境問題を社会的・政治的に捉える関係性の視点を提供した。生態学でも、人間との関係性によって撹乱され、変動する二次的自然を包摂する生態系システムが認識され、文化的多様性に基づく生物多様性が求められるようになった。環境問題の解決と、マイノリティー尊重の両立である。
水俣病は、人間社会の分離・不公正・差別という問題を内包しており、人間・自然の二項対立だけでは捉えられない性質を持っている。環境正義の国際的原点である地球サミットを開催したブラジルでは、砂金採掘の水銀によって、流域の先住民らが「アマゾン水俣病」を発症し、大規模な森林開発も、先住民の権利問題と結び付いている。日本のダム公共事業に対しては、里山の喪失だけでなく、強権的な「手続き的不正義」が問われている。
「生活様式」の持続可能性を重視する考えは、環境教育と結び付き、その領域を従来の学校理科教育から、総合的生涯学習に拡大した。更に国連は、国際社会の課題を統合し「誰も置き去りにしない」開発目標を採択した。
郷土の歴史地理や、社寺・学校・公園など地元に残されている自然を再認識し、地球的思考・地域的行動の実践が望まれる。自己と他者との関係性に、豊かな心身を実感できる生活が、持続可能な共生を創造する。