道教と日本 ―天体崇拝を中心に―

文字数 10,265文字

道教と日本

―天体崇拝を中心に―

 道教は、春秋戦国時代に道家老子荘子)の唱えた老荘思想が、陰陽五行説などの民間信仰(アニミズム)と習合しながら発展し、北魏寇謙之によって大成された多神教であり、儒教仏教と共に「三教」と呼ばれ、漢族を始めとする中華文化の民族宗教として知られています。本稿では、道教が日本民俗宗教に如何なる影響を与えたのか考察します。まず、我が国とも共通する天体崇拝として、北極星に対する道教の信仰を取り上げ、次に、道教と日本宗教の連関に言及されている文献を拝読し、私達の心の中にある「道教」を見出したいと思います。

紫微大帝 道教の北極星信仰

 漢族の民族宗教たる道教において、北極星がどのように位置付けられ、信仰されてきたかを考察する。数ある道教の神の中でも、比較的長い歴史を持つ由緒ある神の多くは星辰信仰に由来している。

紫微大帝の神格

 北極星(北辰)への信仰は古く、道教の成立以前から存在する。『史記』「天官書」には、北極星には天帝太一神という神がおり、北斗七星はその乗車だと書かれている。地上を治める天子に対して、天上の君主が天帝である。道教との比較において注意を要する点は、北極星は天帝の「座」であり、星自体が神格化されているわけではないという事である。それ以外の恒星も、天上の神々の座とされた。

 なぜ北極星に天帝がおわすのか。それは北極星が天の中心(中天)だからである。天文学的スケールでの運動を除けば、北極星は地上から見て不動であり、全ての恒星はその周りを回転している。北極星は、時刻や季節を定める重要な指標だった北斗七星と共に、最も高貴な星として崇拝された。この天帝太一神への信仰が、道教における紫微大帝信仰の源流となった。

 道教においては、北極星そのものが紫微大帝として神格化され、北極星を中心とする天上世界は、大帝の住む「紫微宮」とされた。紫微大帝が信仰されるようになった時期は不明だが、地上の社会制度を天上に当て嵌め、北極星に近い領域ほど身分が高いと捉える紫微宮の概念は、漢代の天人相関説に由来している。元・明の頃には、斗母という聖母から生まれた九柱の星神のうち、その次男として紫微大帝の名が挙げられ、明代には確実に紫微大帝が信仰されていた。

 では、この紫微大帝は一体どんな神なのだろうか。神々の序列においては、三清を補佐する「四御」の一柱として玉皇上帝に次ぎ、同じく道教のもとで神に格上げされた北斗七星君より遥かに高い地位にある。また、元始天尊の第五化身という側面もある。北斗より地位が高いのは、北斗を天帝の乗り物に位置付けた「天官書」の影響である。それでは、玉皇上帝より地位が低いのは何故だろうか。筆者の文献ではその理由について直接説明されていないが、玉皇上帝がどのような神かを考えれば、自ずと答えは見えてくると思われる。玉皇上帝は天を神格化した神である。いくら万星の長といえども、「天」そのものには敵わないと考えるべきだろう。しかし一方で、北極星が天帝の座とされた過去を無視するわけにはいかず、その連続性を意識した時に、道教の最高神たる元始天尊の化身との教義が付加されたのではないだろうか。

 紫微大帝の役割は、玉皇上帝の命に基づき、風雨と季節を操り、太陽を含む星々を司り、雷神・鬼神を統率するといった事が挙げられる。個々の記述は経典によって様々だが、主として気象・天文の自然現象を管轄する極めて高位な神である事に変わりは無い。多くの神霊が紫微大帝に叩頭の礼を行い、山川の神々も参上して再拝すると伝えられる。

紫微大帝の信仰・儀礼

 紫微大帝は北京白雲観一階四御殿を始めとして、各地の道観(道教寺院)に祀られている。その誕辰(誕生日)は陰暦4月18日とされ、この日には降福除災を祈る人が多いという。自然現象を担当する神である事を考えれば、そうした願いを受けるのも理解できる。また、紫微宮の概念は道教だけでなく、民間信仰や密教においても重要な意味を持って展開された。

 紫微大帝の神位は、道教儀礼からも見て取る事ができる。中華民国(台湾)で現在も行われている死者儀礼の「」(功徳)では、祭場として神々を祀る「」と死者を祀る「霊堂」が設置される。この壇の正面には、道教の中でも特に高位と信じられている五柱の神画が掛けられる。まず真中に元始天尊、その右に太上道君、左に太上老君が掛けられる。この三柱を「三清」と総称し、現代の道教神学では最高神に位置付けられている。三清の右には、民衆の間で事実上の最高神として信じられている玉皇上帝が掛けられる。そして、三清の左に掛けられるのが紫微大帝である。壇が狭く正面に三清しか掛けられない場合は、右左に対するように玉皇上帝と紫微大帝が掛けられる。従って斎儀礼を行う際に、紫微大帝は原則的には必ず姿を現し、道士によって働き掛けられる神の一柱に数えられるという事になる。儀礼は複数の科目によって構成され、神々を招く科目を「啓白」と呼ぶが、台南ではこれに際して『無上抜度啓白科儀』や『金籙祈安啓白科儀』を用いる。どちらの科儀も神々の御名を元始天尊・太上道君・太上老君・玉皇上帝・紫微大帝の順で呼ぶ部分までは同じだが、それ以降に呼ばれる神々は一致していない。以上の事から、紫微大帝は道教の神々の中で五本の指に数えられ、序列としては玉皇上帝に次ぐ五番目の神と捉えられている事が分かる。

 紫微大帝の神画がある壇北西は「天門」と呼ばれ、ここに科儀の始めに登壇する高功(儀礼の中心的役割を担う修練を積んだ道士)が立つ。斎儀礼を構成する科目のうち、「午朝」の科儀は紫微大帝を対象としている。道教儀礼では斎のほかに、祠廟(民間信仰施設)で行われる祈安儀礼の「醮」や、簡易な御祓いとしての「小法事」があるが、小法事の一つである「礼斗星真宝懺」も、紫微大帝を主たる対象とした儀礼である。礼斗星真宝懺は、北斗七星君に長生を願う儀礼を簡略化した小法事である。

 このように、古代の天帝太一神にルーツを持ち、教義においても儀礼においても高位に君臨する紫微大帝であるが、一方で民衆レベルにはあまり馴染みが無いという事実もある。例えば高雄のある祠廟では、年中行事として玉皇上帝や北斗・南斗への祭祀はあるが、紫微大帝は無い。天を統べる神としての注目は玉皇上帝に集まり、かといって北斗七星君のような象徴性・民俗性に欠くといった点が、その理由として考えられるのではないだろうか。少なくとも2005(民国94)年の段階では、台湾に紫微大帝を主神とする祠廟は存在しない。そもそも祠廟は、狭義の道教からは少し離れた民間信仰・民俗信仰の神を祀る場であり、天神である紫微大帝は人々にとって、廟神として祀るにはあまりにも遠い存在なのだろうと指摘されている。

 最後に我が国の仏教への影響について言及すると、北辰信仰は北斗信仰と混同した状態で日本に入り、妙見菩薩と成った。妙見もやはり降福除災の神であり、法華経を重視する宗派、具体的には日蓮宗、次いで天台宗で尊崇されている。

日本仏教史における道教

 日本宗教史において、極めて重大な位置を占めているのが「神仏習合」、即ち神道と仏教との混淆であるが、儒教や道教の存在も無視できない。ところが、筆者の手元にある高等学校教科書『最新日本史』では、「大陸文化の伝来」という項目の中で、6世紀における儒教、次いで仏教の伝来を紹介し、「仏教はこれ以後、儒教とともにわが国の政治思想や倫理道徳に大きな影響をおよぼすにいたった」(26頁)と述べる一方で、道教に関しては「中国の民間信仰であった神仙思想の道教も伝わった(道教は、不老長寿の術や養生の術をおこなった)が、仏教・儒教のようには重んじられなかった」(26・27頁)と、やや否定的に記述されている。果たして、このような評価は正確なのだろうか。我が国の宗教文化が神道・仏教や儒教だけでなく、道教とも深く関わって来た可能性を、複数の文献を取り上げて考察したい。

佐々木宏幹『聖と呪力の人類学』

 佐々木宏幹は宗教人類学の立場から、シャーマニズムを伴う民俗宗教(民間信仰)を研究した。

 物部守屋・中臣勝海と蘇我馬子の対立に象徴される、585(敏達14)年の仏教受容論争を、仏教の「呪力」という観点から考察した。シャーマニズム研究において、人間が神仏と交流する方法は「修行型」と「召命型」に分類されるが、奈良時代以降に隆盛する諸教は、召命型に仏教・道教・陰陽道などの行を取り入れて再編成・組織化した修行型ではないかと見られる。また、「大都市シャーマニズム」の具体例として、1953(昭和28)年に発足した大山ネズノ命神示教会(横浜市南区)を取り上げ、神道・仏教・道教・陰陽道・修験道などを複合した民俗宗教が、シャーマニズムを通して啓示された事などを考察し、これに関連して日本人の宗教意識にまで論を広げた。

 仏教・ヒンドゥー教・道教・神道文化地域において、死霊は他界した後も現世との縁を維持するという普遍的な特徴が見られる。

勝俣隆『星座で読み解く日本神話』

 勝俣隆は、古来日本人が天体に比較的無関心であったとする通説に疑義を呈し、我が国の記紀にも星座神話が色濃く反映されている事を立証せんとした。勝俣氏が『古事記』『日本書紀』の内容を詳細に分析した結果、「国生み」「高天原」「日向」の神話が天体と関わっているのに対し、出雲神話はほとんど関わらない事が明らかになり、出雲神話の特殊性が再確認された。

 そして日本の星座には、中華朝鮮から伝来した物と、日本独自の物とがあるという。前者は、「二十八宿」に代表される中華の星座であり、その影響下にあった朝鮮もほぼ同じだが、一説によると、二十八宿はインドから中華に伝わったともされる。高松塚古墳キトラ古墳(奈良県明日香村)に描かれた星座は、伝来した物である。これに対し後者、日本独自の星座は、中華・朝鮮の物が伝来する以前から存在し、その発生は他国と同じ事情であり、それらが再編され、日本神話の骨格部分として記紀に取り込まれた。地球上から観測できる星空は、地軸の歳差運動によって変化するものの、古代と現代とでは、恒星の位置はほとんど変わっていない。よって、古代の人々が眺めていたのと同じ星空を実際に見て検証できるのが、星座神話研究の大きな利点と言える。

 日本人は決して、恒星に無関心ではなかった。例えば「カノープスは、老人星・南極老人星・南極寿星と呼ばれ、この星が出ると、天下太平で長寿が授かると言われるめでたい星である。平安時代には老人星祭が行われ、昌泰四年(九〇一)七月十五日に延喜へ改元されたのも、昌泰三年(九〇〇)十二月十一日に老人星が見え、かつ、昌泰四年が辛酉革命の年にあたっていたからだと言われる。平安時代以降は注目された星であるが、上代には用例は見られないようである」(61頁)と。これに対して北極星は、天地を結ぶ「天の御柱」(『古事記』)であると考えられる。イザナキ命・イザナミ命が天の御柱の周囲を逆に廻るのは、中華の古代神話に見られる、天は左、地は右に回るという世界観の影響だろう。そして、この回転の中心になっているのが北極星であり、それを柱に見立てた表現が天の御柱と考え得る。『日本書紀』における「天柱」という表記も、中華に出典を求める事ができる。国生み神話から見出せるのは、天父神として天空・宇宙を意味するイザナキ命と、地母神として大地・地球を象徴するイザナミ命という、天の御柱・北極星を中心とした壮大な宇宙論である。そのような中で天照大御神は、この世に一つしか存在しない太陽の神、太陽神「日の御子」という性格を根拠として、皇室の祖たる皇祖神に成り得た。

 古代日本人は、プラネタリウムのようなドーム状の天球が世界を覆い、天地は接合しているという宇宙観を持っていたが、これは中華と共通している。また、現在の春分点は魚座の位置にあるが、これは歳差によって少しずつ移動しており、約3700年前までは牡牛座に春分点が存在した。ヒンドゥー教が牛を尊重したり、中華で牡牛座に天上界への出入り口があると考えられたりしたのは、これが理由ではないかとの説もある。そして、この中華の見方が日本に輸入された結果、牡牛座のプレアデス星団を「天の岩屋戸」に見立てた可能性がある。

 北極星は、天の御柱であると同時に、高天原に最初に顕れた天御中主神でもあると考えられる。何故なら、天御中主神という御名は、中華において北極星を神格化した太一・天皇大帝に基づくと言われているからである。「天地開闢から国生み神話までは、天地の結合のイメージと、天を支え、大地と繋げる世界の中心の柱としての北極星のイメージが何重にも重なっており、その意味で、日本神話の冒頭部分は、まさに天上の星の世界そのものの描写がなされていると言えよう」(269頁)。

千田稔『海の古代史 東アジア地中海考』

 国際日本文化研究センターの千田稔らは、日本海渤海黄海東支那海南支那海の海域を「東アジア地中海」と呼称し、その古代文化圏を歴史学・考古学・民俗学・地理学など学際的に検証する共同研究「東アジア地中海世界における文化圏の成立過程について」を実施した。その成果は、千田氏の編著により、主題別に報告されている。

 それによると、東亜地中海は後期旧石器時代・新石器時代の頃から、船の航海による交流の道となっていた。造船技術の進歩と共に、航海に関する信仰が見られるようになり、遺体を船に乗せて河川・海に流す事で魂の昇天を祈る「船棺葬」が行われた。この葬法は世界的に広く見られ、四川省などの例が確認されているが、日本列島においても「お船入り」や、古墳に描かれた「天の鳥船」(記紀)が指摘されている。日本列島は朝鮮半島と深く関わりながら、長江下流域中原に発する神仙思想・道教的信仰を受容した可能性が高い。

 日本列島に影響を及ぼした中華文化は、北方系の「馬の文化」、南方系の「船の文化」とに整理できる。馬の文化が太陽を男性と見なすのに対し、船の文化では女性と見る。天照大御神が女神なのも、「船の文化」からの影響を無視できない。我が国に「馬の文化」だけでなく「船の文化」も伝わった事は、ほかの例からも疑いない。その上で、「そしてその船の文化には、『奇数』『カオス』『曲線』などを貴ぶ、老荘思想が反映しているものが多い。当然のことながら、その老荘思想をよりどころの一つとする道教思想を無視できない。その道教思想とは、神仙思想を中核とした、現世利益の宗教思想である。日本の海神信仰も、道教思想を無視しては論じることは困難ではなかろうか」(53・54頁)と考察している。更に、天照大御神(伊勢神宮)が女神として信仰されるようになった背景に、「道は万物の母」(老子)という中華文明の思想を見出したり、日中両国での子供の海神に対する信仰が、「神に近い神人になるためには、幼児の心を持たなければならない」という老荘思想と関係する可能性も指摘された。

 貝などの考古遺物に見られる渦巻き文様には、呪力が宿ると信じられていた。その理由に関して千田氏は、世界の根源である太極を象徴する巴紋が、渦巻き文様の元であり、この文様は中華・日本だけでなく、メソポタミア・インド・ギリシャなど人類文明が共通に持ったと考えている。

 東アジアを特徴付ける文化として、(ぎょく・たま)と呼ばれる宝石・貴石が挙げられる。日本の硬玉翡翠・碧玉、中華の軟玉翡翠(ネフライト)を始め、様々な鉱物が神秘性を帯びて流通した。玉の価値は日月信仰などとも結び付く性質があり、皇室の神器にもなっている勾玉は、その形態が三日月に由来するとの説に依拠すると、月神である月読命の依り代だったと解釈できる(鏡は天照大御神に対応する)。日本・朝鮮・中華における玉文化の変化を説明するには、東亜地中海の視点が極めて重要であり、中華から発生した変化の波には、宗教的背景が考えられる。

 『日本書紀』における日本武尊の白鳥伝承は、死者の肉体が無くなるという点で、道教の尸解仙(しかいせん)に基づいていると思われる。

 人類ととの出会いは、宇宙から飛来した隕鉄(鉄隕石)を拾った時に始まると言われ、やがて鉄鉱石からの製鉄技術を発明する事で、現代に至る鉄器文化が形成された。中華・朝鮮・日本には、水神が鉄を嫌うという「鉄忌信仰」が共通して存在し、朝鮮半島では直接的な鉄忌が少ない代わりに、道教・風水思想に基づく「朝鮮断脈説」が顕著に見られる。豊臣軍の朝鮮出兵(壬辰倭乱)に際して、明軍の風水師によって朝鮮の地脈が断ち切られたとの説話もあれば、近代の日韓併合により、日本によって断脈されたとの説話もある。


 このように東アジアの地理的空間は、その思想性において「主として道教・儒教・仏教が重層的に各地域の土着的な宗教と関係しながらもその独自性を形成してきた」(192頁)のであり、それは「世界」「宇宙」といった普遍性を思索する文明であった。こうした精神的基盤は墳墓制の考古学的研究からも明らかにされつつあり、例えば高句麗壁画の変容過程から、天帝を最高神とする統治思想に基づく国家の確立・拡大が読み取れる。仏教伝来以前の東アジアには、共通した精神世界が広がっており、そこには神仙思想が大きく関わっている。道教の四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)は、単なる方位だけでなく、天体・星座との結び付きから形成された信仰であり、高句麗壁画や高松塚古墳・キトラ古墳に描かれた天文図からは、墳墓を天空と関連付ける宇宙論が提起される。中華思想における「天」への信仰は、古くから天帝(上帝)という神が知られるし、道教の最高神も、仏教の影響を受ける以前は「天皇大帝」であった。そして、日本の「天皇」号はこの天皇大帝に由来する事が定説化しており、天照大御神や朝鮮の檀君伝承にも、「天」を中心とする東亜地中海文明の基層信仰を見出せる。

野口鐵郎・田中文雄『道教の神々と祭り』

 野口鐵郎・田中文雄の編による本書は、今回の主題とも関連する北極紫微大帝や南極老人星(竜骨座カノープス)をも網羅した道教概説になっている。その中でも、ここでは「日本の民俗と道教信仰
宮廷から市井へ」(森瑞枝)を読んで見たい。総論から言えば、「道教信仰は日本の宗教文化を構成する重要な要素である。道教の伝来は古代に遡るが、はじめのうちは支配者層の特別な知識であった。その後も道教はさまざまな経路で日本へ伝来し、仏教や神祇信仰(神道)、陰陽道の教理や儀礼に導入され、近世になって人々の生活に広がり、日本と東アジアの民俗世界とを繋ぐ役割をすることになる」(238頁)。

 古代日本が大陸の文明を積極的に導入する中で、神話から制度に至るまで、道教の受容を示す事例は数多く存在する。但し、仏教のような体系的な「宗教」としてではなく、在来の神道を補強する形で取り入れられた。星辰や方位に対する信仰も、道教による部分が大きい。
 日本に伝来した密教は、実は中華において既に道教と習合していた。元来の仏教に星辰信仰は無かったが、道教の北辰信仰と習合して妙見菩薩に成り、それが日本に伝わって日蓮宗などに影響を与えた。神仏習合の本地垂迹説には、「道仏習合説」が応用されている。また、修験道は最も道教に近い宗教である。
 このほか、吉田神道がその成立に際して道教を利用した事や、琉球王国が中華から直接導入した風水天妃廟(媽祖)の存在が指摘される。徳川光圀は中華文化の受容に積極的で、水戸藩領内に天妃社の建立を許可した。媽祖はまた、弟橘媛(日本武尊の妃)と同一視され神道と混淆した。

島崎晋『徹底図解 世界の宗教』

 島崎氏は「宗教交流 日本に渡り混交したインド、中国伝来の神々」において、「神道やヒンドゥー教、道教の神々を仏として取り込んでいる」(185頁)と述べている。具体的には、ヒンドゥー教のヤマスカンダという神々が、中華(シルクロード)経由で我が国に渡来される際、道教の影響を受け、それぞれ日本仏教の閻魔韋駄天に変化した。また、七福神は老荘思想の「竹林の七賢」を模倣しており、特に福禄寿は宋代の道士、寿老人は南極星・老子をルーツとする。寿老人は、藤原氏の法相宗興福寺(奈良市)にも安置されている。

論評

 今回の主題に関連する拙稿としては、「久高島の民俗」が挙げられる。それらも含め、ここまで見て来た文献を踏まえると、道教(神仙思想・老荘思想)は我が国の宗教文化に、極めて重大な影響を及ぼして来た事が理解できる。一方では神仏分離を断行した水戸光圀が、他方では道教の女神たる天妃媽祖を迎えていたのである。神道・仏教・儒教だけでなく、道教への着眼をせずして、日本宗教史の把握は困難であると考えられる。

 日本の道教受容を如実に物語るのが、天体崇拝である。道教の北極星(北辰)信仰は、天帝太一神から紫微大帝へと展開し、更に我が国の日蓮宗・天台宗に妙見菩薩として取り入れられた。神道の側では、北極星に天御中主神を見出した。その一方で、天照大御神という太陽神を皇祖神に仰いだのは、中華道教とは異なる点であり、ここに日本神道の独自性がある(但し、ここにも老子の「」が影響しているとも言われる)。日蓮上人も、「日本国というのは、女性の国である。天照大神という女神のつくり出した島である」(『日本仏教史』244頁)と述べている。こうした点で興味深いのが、歴史地理的に日本と中華の間に位置する琉球であり、琉球神道では、天帝に対する信仰と太陽信仰とが並立している。国学者の平田篤胤は、「老子の自然を申スハ、真の自然には候はず、実は儒よりも甚しく誣たるものに候也」(鈴屋答問録)といった古道論で道教を批判したが、同時に彼は、北辰の紫微宮に天御中主神が坐すとの信仰を持っていた(『古史伝』)。そもそも、「天皇」自体が道教由来とされる。神道と道教を分離するのは、神仏儒の判然よりも困難と言えるのかも知れない。

琴座・織姫ベガと鷲座・彦星アルタイル(筆者撮影)

参考文献

◆ 窪徳忠『道教の神々』(平河出版社1986)

◆ 笠原一男・小栗純子『日本史特講 日本仏教史』(法政大学通信教育部1990)

◆ 坂田祥伸『「道教」の大辞典 道教の世界を読む』(新人物往来社1994)

◆ 野口鐡郎・坂田祥伸・福井文雅・山田利明『道教事典』(平河出版社1994)

◆ 佐々木宏幹『聖と呪力の人類学』(講談社学術文庫1996)

◆ 勝俣隆『星座で読み解く日本神話』(大修館書店2000)

◆ 浅野春二「台湾南部の民間祠廟と道教儀礼」(勉誠出版『アジア遊学16』2000)

◆ 千田稔『海の古代史 東アジア地中海考』(角川選書2002)

◆ 浅野春二『飛翔天界 道士の技法』(春秋社2003)

◆ 野口鐵郎・田中文雄『道教の神々と祭り』(大修館書店2004)

◆ 藤井旭『星の神話・伝説図鑑』(ポプラ社2004)

◆ 大淵忍爾『中國人の宗教儀禮 道敎篇』(風響社2005)

◆ 『図説中国の神々 道教神と仙人の大図鑑』(学研2007)

◆ 中西正幸「神道と文化34」(國學院大学神道文化学部2007)

◆ 村尾次郎・小堀桂一郎・朝比奈正幸『最新日本史』(明成社2008)

◆ 島崎晋『徹底図解 世界の宗教』(新星出版社2010)

◆ 敷地顕「久高島の民俗」(法政大学文学部2014)

◆ 佐伯俊源「日本史特講 日本仏教史」(法政大学文学部2016)

◆ 岡野浩「宗教学」(星槎大学共生科学部2019)

 「天」を重視する道教は、我が国の精神文化に少なくない影響を与え、神道・仏教・儒教だけでなく、道教やヒンドゥー教をも取り入れた「日本教」「神道教」とでも称すべき民族宗教・民俗信仰が習合された…という考察を、本稿で筆者は試みました。私の専門は地理学ですが、我が国を含むアジア諸地域を研究する上でも、世界の宗教に対する理解は不可欠かと思われます。

 現代日本においては、「葬式仏教」という用語が使われるようになって久しく、一方で日本人は「無宗教」だと言われ、他方では通過儀礼・年中行事など宗教文化に接触する機会も多く、更には新宗教やスピリチュアリズムの流行といった現象も見られます。如何に自然科学が著しく発達しても、人間を含む生命(衆生)の尊厳、自我の存在という根本的命題に答え、物事の正邪を見極めるためには、宗教とその歴史を学ぶ事が、非常に大切であると信じています。

 本稿は、國學院大学での道教に関する科目と、法政大学の「日本仏教史」を学ぶ事で着想を得、このたび星槎大学の「宗教学」論文として完成させた物です。法政大学で御教示を賜った佐伯俊源氏は、真言律宗西大寺(奈良市)にて現役の僧侶をお勤めになっておられる方でした。最後に、星槎国際学園の語源である星楂(星査)は「漢の張騫がいかだに乗って、牽牛・織女の酒宴に赴いたという故事」(広辞苑)に由来しており、七夕もまた、中華の伝説が日本の信仰と習合した星祭である事を付記して、本稿を終えたく思う所存です。ありがとう御座いました。

2019/12/18

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登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

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