久高島の民俗

文字数 6,801文字

3.1久高島の民俗

 久高島は沖縄島南東、南城市知念岬の東方に位置する。琉球王国の始祖神である阿摩美久(アマミキヨ)が降臨し、国王や聞得大君(巫女)が訪れた「神の島」であり、土地の「原始共有制」が残存している。12年ごとのうま年に行われる祭礼「イザイホー」など、民俗学的に貴重な文化が残存している(ブリタニカ国際大百科事典)。


 久高島振興会のウェブサイトには「土地は神様からお借りしているものと考え、私有するものではありません。島の北部、集落の外は聖域として守られた『誰のもの』でもない、広くて深い空間です」と説明されている(http://www.kudakajima.jp/)。久高島は沖縄東方の聖地として、琉球の民族宗教、即ち琉球神道において重要な役割を果たしており、民俗学的題材が数多く存在する。

3.2琉球創世神話における久高島と天体信仰

 琉球神道の創造神・始祖神に当たるアマミキヨは、久高島のカベール岬(カベールの浜)に降臨し、斎場(セーファ)御嶽(うたき)や久高蒲葵御嶽を含む7箇所の御嶽(開闢七御嶽)を拠点に琉球諸島を創世し、神の子孫が国王・按司・百姓・君々・神女といった各身分の琉球国民になった。ここで注目したいのは、アマミキヨを地上に送った神が天帝という事である。一神教とは異なり、アマミキヨは創造神ではあるが最高神ではなく、アマミキヨが生まれる前から天に存在し、アマミキヨに国土創世を命じる事ができる、より高位の神としての天帝がおられる。内地の日本神話(記紀)においても、まず天御中主神が高天原に顕れ、その後イザナギ・イザナミ夫妻が列島を創造したと云う話に類似している。

 また、天帝は中華文明の最高神であり、道教では北極星(北辰)の神として「天帝太一神」、次いで「紫微大帝」が信仰されている(野口編2004)。しかし琉球では、鎌田東二氏が「首里城が東上位であるということは、琉球王が北極星ではなく太陽を背にして座るということであり、ここには明らかに太陽信仰、それも東から差し上る朝日に対する信仰がある」(「平安京生態智と癒し空間の比較研究」21頁)と述べているように、北辰信仰よりも太陽信仰が強く見られる。日本内地においては、天御中主神や妙見菩薩の北辰信仰、あるいは北極星を背に南面の皇居を建築するといった思想的影響は存在するものの、太陽神である天照大御神(伊勢神宮信仰)のほうが普及している。琉球神道は、天帝の概念を受容した点では中華的だが、太陽信仰を重んずる点では日本的である。琉球諸島は日本列島と弧状に連なり、共に海洋国家であったため、太陽信仰が生じ易い風土が共通しているのだろう。

 但し、日本人・琉球人が太陽以外の天体に全く無関心だったわけではなく、勝俣隆氏は「古代日本人も星に深い関心を持ち、ギリシアや他の民族同様に、星の神話を生み出して来た」(『星座で読み解く日本神話』6頁)と主張している。同氏はそれを論証する過程で『オモロ草子』も取り上げており、太陽信仰に関する中城「てだが穴」を謡うオモロのほかに、多彩な天体を謡うオモロ(10-534)の存在を指摘している(89~90頁)。

 「三日月」は言うまでもないとして、「赤星」は「明星」で金星(明けの明星)、「群れ星」はプレアデス星団(昴)、「貫ち雲」は天の川を意味すると勝俣氏は解釈する。同氏は主に内地の天文神話を考察する文脈でこのオモロを紹介しているが、大和日本人だけでなく琉球人も、太陽を崇拝する一方で、夜空を熱心に眺めていた可能性が考えられよう。

3.3久高蒲葵御嶽

 久高蒲葵御嶽(「久高コバウ森」または「クボー御嶽」)は久高島最高の霊地として多くの祭祀が執り行われ、男性は立ち入る事ができない。琉球語では「クバ」と呼ばれるヤシ科の高木ビロウが生い茂っており、神はこの丈高い木を目指して降臨すると云う。また、クバの葉は後述のイザイホーにおいて随所で使われる。

 先述の通り、蒲葵御嶽はアマミキヨが創った「開闢七御嶽」を構成する聖地なのだが、気掛かりなのは、七つある御嶽のうち、蒲葵御嶽が6番目に創られたという点である。アマミキヨが最初に訪れた島であるにもかかわらず、久高の御嶽が「後回し」になったのは、何か理由があるのだろうか? なお、久高島を遥拝できる対岸の斎場御嶽は3番目、首里城内の首里真玉森御嶽(現在は焼失)は最後の7番目である。一方、最初に創られた辺戸岬(国頭村)の安須森は沖縄島北端、つまり久高島から最も遠い位置にある。地図上で七御嶽を創造順に線で結ぶと、辺戸→今帰仁→斎場→玉城(2箇所)→久高→首里になり、最後の首里城を例外として、おおよそ北から南に向かって創って行ったのではないかという印象を受ける。

3.4三山統一と久高島

 久高島は沖縄島南部の東方に位置するため、14世紀後半の三山時代においては琉球国山南王(南山王国)の勢力下にあった。しかし、南山は承察度汪英紫という二つの王権に分裂していた上に、1429年の他魯毎の御代に、中山王尚巴志によって滅ぼされてしまう。このような戦乱の中で、久高島がどのような情況にあったのかは興味深い。

 統一琉球王国の王府になった首里(浦添から遷都)が、三山時代から中山王国に属していたのに対し、久高島や斎場御嶽はかつての南山領にある。琉球国王としては、首里城を始めとする中山地域に聖地を集中される事もできたはずだが、実際には斎場御嶽や久高島が琉球の重要な聖地として、今に至るまで伝えられている。では、何故そうなったのか? 例えば、次のような要因を推定する事ができる。そもそも尚思紹・尚巴志は中山の人ではなく、南山の佐敷上グスクを拠点に勢力を拡大していたから、琉球王府にとって南山は縁のある地域だった事が挙げられる。古代日本でも、大和朝廷は畿内の王権だが、その建国者と伝わる神武天皇は九州日向の天孫であり、君主の都と出身地は必ずしも一致しなくて良い。また、久高島をニライカナイや太陽にまつわる聖域と見なす信仰が、早くから成立していたと考える事もできる。日本神話には、各地の民間信仰と、それらを天皇中心の皇室神道に統合しようとする政治的意図が混在している。琉球においても、王族や士族が日本神道・仏教を受容する一方で、一般庶民は伝統的な御嶽信仰を維持したという温度差がある。

 琉球王国は代々、麦の穂が出る旧暦2月に久高島を行幸した。こうした国王の巡幸を原型として、太陽が昇る沖縄東方の、アマミキヨゆかりの霊地を巡拝する「東御廻り」(アガリウマーイ)という門中行事が形成され、現在まで伝えられている。但し、東御廻りでは久高島には行かず、久高を遥拝できる斎場御嶽を訪れるようになっている。久高蒲葵御嶽は「男子禁制」であり、誰もが気軽に訪れて良い場所ではない事が関係しているように思われる。

3.5久高島の神女

 琉球王国では、尚真王(第二尚氏王統第三代)の御代に神女組織が確立し、最高神女の「聞得大君」、高級神女の「君々」(三十三君)、地方上級神女の「大阿母」、地方神女の「ノロ」(宮古・八重山諸島では「ツカサ」)というピラミッド的階層が成立した。同時に、女性が霊力で男性を守護する「姉妹神信仰」が形成された。また、祭祀執行の「公務員」に当たるノロに対して、民間の私的なシャーマンを「ユタ」などと称し、現在も人々の相談役として活躍している。

 久高島では、島内出身で30歳以上の既婚女性がイザイホーを経て神女に成り、年齢によってナンチュ・ヤジク・ウンサク・タムトといった分類があり、70歳で引退する。「ナンチュ」はこれからイザイホーで神女になる女性、「タムト」は神を表現する(神が憑依する)神女、タムトに神酒を捧げる神女が「ウンサク」である。ウンサクは「ミサゴ」とも言われ、神酒を意味する琉球古語である。
 久高島には「男は海人、女は神人」という言葉が伝わっており、成人した男性は漁師に、女性は神女に成るのが慣例であった。但し、旧暦3月に漁業代表者が島北端のターキビシ岩礁やカベールの森を訪れて竜宮神と交流する「ピシクミ」という儀礼があり、必ずしも神女だけが祭祀を担っていたわけではない。
 我が国では、男系男子の天皇が世俗的君主と最高祭祀者を兼ねているが、皇祖の天照大御神は女神であり、史実でも女帝が存在する。より古くは卑弥呼の事例を含め、男女の宗教的役割に関する日琉比較を行う事ができる。但し、神女を「巫女」と表記する際には注意を要する。広義の巫女、特に「ふじょ」と読む場合は女性シャーマンを意味するが、ミコと読む場合は「未婚の少女が多い」(広辞苑)イメージがあり、既婚の成人女性である琉球神女とは乖離する。神道などの日本文化を題材に取り入れた、現代の漫画・アニメ等サブカルチャーにおいても、登場する巫女は大抵「美少女」キャラクターとして表現される傾向が見られる。

3.6口返し

 久高島には「口返し」(クチゲーシ)という言霊信仰があり、人に害を与える悪しき言霊を、シャーマンが土中に埋めて封印する儀式が行われる。クチゲーシの背景には、久高島の面積が狭く、言葉がすぐに広がり易いという地理的要因もあるが、より本質的には、何気ない悪口・陰口が人から人へと拡散するうちに、発言者の意図を遊離した悪意の集合体に増幅し、遂には化け物・邪な神とでも言うべき恐ろしい存在になるという発想がある。『古事記伝』『直毘霊』を著した国学者の本居宣長は「神」に関して、天照大御神を始めとする記紀の神々だけでなく、人知を超越したあらゆる存在が神であり、邪神(禍津日神)も存在すると述べている(中西正幸2007)。

3.7イザイホー

 「イザイホー」は12年に一度の午年に行われ、ナンチュが魂替えして神女に就任する儀式である。ここでは現状、最新最後のイザイホーである1978(昭和五十三)年の例を取り上げる。

 宗教人類学者の佐々木宏幹氏は、イザイホーについて「女性が聖なる力を身につけて、俗事にかかわる男性を守護し、男性が女性を豊穣をもたらす神秘の存在として敬愛するという伝統は、古代日本の文化を縦に貫いていた」(『聖と呪力の人類学』90~91頁)と述べ、若者を始めとする千人以上の島外者が見に来た理由を含め、現代の日本人が忘れつつある精神文化をイザイホーに見出した。

 民俗学における一般的な人生儀礼の解釈と同じように、佐々木氏もイザイホーを「分離」「移行」「統合」という三段階のプロセスで理解している。そうした順番に沿って、具体的な内容を見てみたい。
 此度のイザイホーで神女になるナンチュは、実施の1箇月前から神の住む「七岳七森」に7回お参りし、神女としての可能性を備える。一方、舞台準備として、島における最高の女性司祭者である外間ノロの指揮下で、イザイ山という森に「七つ家」が建てられる。外間ノロは『オモロ草子』にも謡われており、歴史的に由緒ある家柄と思われる。祭祀の前日には、赤瓦の小神殿「神アシャギ」の四囲が、村の男性達によってクバの葉で覆われる。また、ナンチュには海岸から白砂を祭場に運ぶという作業もある。アマミキヨが降臨した島であるから、やはり「聖なる砂」を意味するか?
 一日目(12月14日)の「夕神遊び」は分離の儀礼であり、聖なる世界への旅立ちという重大性から、四日間の中で最も注目される。ナンチュ達は「七つ橋」という木製の七段梯子を渡って神アシャギに入り、クバの戸が閉じられる。但し、一直線に駆け抜けるのではなく、神殿への出入りを繰り返し、七つ橋を7回も往復する。佐々木氏は「七つ橋を渡った彼女らが、そのまま神アシャギの奥に消えないで、七回もこの世とあの世の境い目を往復するのはなぜだろうか。この世との縁を断ちきれず逡巡しているのであろうか。それは、あの世が途方もなく遠いことを示しているのであろうか。それとも、この世とあの世とが切断されているようで実は連結されているという日本的な世界観を象徴するのであろうか」(97頁)と推測しているが、久高島自体がニライカナイに限りなく近い場所であると考える事によって、より理解が容易になるのではないだろうか。
 二日目の「頭垂れ遊び」は移行・変身の過程(境界の儀礼)であり、一日目ほど緊迫してはいない。三日目の「花さし遊び」は、ナンチュが晴れて神女に成る統合化の儀礼に位置付けられ、ナンチュは外間ノロから神聖の証を授けられる。四日目の「アリクヤーの綱引き遊び」は、御殿庭(ウドンミャー)から東方に向かって4列に座り、三度礼拝して神謡オモロを捧げる。祭りの終了を告げる「桶回りの儀式」では、クバの葉で覆われた神酒を取り巻くように舞うが、この時、ナンチュはクバの葉の扇を手にしており、先輩神女らは表に太陽と鳳凰、裏に月と牡丹の描かれた大扇を手にしている。その後、全員が東方に礼拝する。ここで東方礼拝について考えてみたいが、筆者としては、沖縄島の斎場御嶽から東方の久高島を遥拝するのと、その久高島から更に東方に礼拝するのとでは、意味が若干異なるのではないかと思う。沖縄島から久高島の方位に対して拝む場合、久高という島その物を神聖な対象と意識し得るのに対し、久高島から東方の海上を拝む場合、その意識の対象は島自体ではなく、ニライカナイや太陽神に限定されると考えられるからである。

 イザイホーでは、海の彼方のニライカナイから神が白馬に乗って久高島を尋ねると伝承されているが、実際にイザイホーの期間中に、ナンチュや神女は「たえず馬の(ひづめ)の音が聞こえ、イザイ山の木々が突如としてざわついた」「自宅で仮眠をとろうとしたが、神のお告げによってしばしば起こされた」(98頁)といったシャーマニズム的体験を証言している。ところで、神が馬に乗って来ると云う伝承は、イザイホーの実施が「午年」である事に関係しているのだろうか?

 イザイホーの内容を大まかに見て来たが、祭祀全般を通して「クバの葉」が多用されている事が分かる。久高島のクバと言えば、アマミキヨが創造した蒲葵御嶽が島内最高の聖地として知られ、カベールにもクバ林があるが、イザイホーにおいてもクバが神聖な植物としての意味を与えられている可能性が考えられる。更に気になったのは「七岳七森に7回参る」「七つ家」「七段梯子の七つ橋を7回往復」など「七」という数字の多さである。そう言えば、琉球の開闢七御嶽も七つである。西洋の場合、例えばタロット占いの7は勝利などを意味する「戦車」のカードだが、琉球における数字の意味や、それに対する日本・中華の影響などがあれば興味深い。
 その後、人材不足などの理由で1990(平成二)年及び2002(平成十四)年のイザイホーは行われず、1978年を最後に、古来からのイザイホーは途絶えてしまっている。そして2014(平成二十六)年夏、法政大学地理学科で琉球民俗学を履修していた筆者は、イザイホーの実施可否に関して、久高島振興会の方々から話を伺う事ができた。その結果、下記のような情報を教えて頂いた。
 イザイホーが実施されるか否かはまだ未定で、久高島のカミンチュの方々によって話し合われている。ただ、まだ正式に決まったわけではないが、本来ならば始まっているはずの準備が行われておらず、今年の開催は難しい情勢ではないかと思われる。困難な理由として、両親が久高島出身で、今後とも島内に住み続けるナンチュ候補者が少ない事が挙げられる。また、イザイホーに重要な役割を果たして来た久高家・外間家のうち、久高家は神女家系としては続いておらず、外間家の方も普段は沖縄島に在住されている。但し、イザイホーは「中止」されるのではなく「延期」されるのであり、1990・2002年にはイザイホーの延期を神にお伝えする儀礼が事実上の代替行事として行われ、今年イザイホーが不可能になった場合も、慣例に従い同様のお祈りになる可能性が高い。
 私の不躾な質問に対し、丁寧懇切にお答え下さった久高島振興会の方々に対し、心より感謝の意を申し上げます。2014年のイザイホーは延期されたが、その翌年には、1966(昭和四十一)年のイザイホーを記録したドキュメンタリー映画『イザイホウ』(野村岳也監督)が、那覇で上映される事になった(琉球朝日放送https://www.qab.co.jp/news/2015010761710.html)。久高島の宗教儀礼はイザイホーだけでなく、数多くの年中行事が行われている。なお、伝統文化の保全に関しては、歴史地理学の立場から「町並み保全」や「文化的景観」を論じた吉田敏弘氏の研究もある。
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登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

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