極地探検 アムンゼンを中心に
文字数 8,480文字
―アムンゼンを中心に―

はじめに
19世紀後半~20世紀初頭の地球では科学が発展し続けていた。だが、一方で「秘境」と呼ばれる場所も残っていた。この時代では中央アジア、南北両極地がメインに置かれていた。その代表として「北西航路」「北東航路」「北極点・南極点」があり地理学上の新発見地として注目を浴びた。本文は著名な極地探検家
ここは大きな港もあり、海獣猟船の基地でもあった。
アムンセンは幼少から帰還した船員の極地での体験を聞き、極地そのものに興味を持っていたようだ。
だが、将来の目標に決めた切っ掛けはイングランド(イギリス)の極地探検家ジョン フランクリンの伝記を読んだ事が直接の原因である。
ジョン フランクリンは北西航路発見のために2隻の探検船を率いて出発したがそのまま行方不明となり捜索隊が派遣された。
しかし、その捜索隊自身が遭難するほど捜索は困難を極めたが、先住民イヌイットの情報や遺品などから全滅した事が分かった、極地探検史上悲惨な探検であった。
北西航路に関しては後述する。
アムンセンはフランクリンの伝記を読んで、その困難に対してどのように立ち向かった、荒ぶる極地の大自然との対峙にアムンセンは大いに感銘を受けた。
そして彼はこれを読み終わると既に探検家を目指していた。
だが、アムンセン自身当時は医者になる事を母親から強く勧められていた。
父親自身船員だったが、ふとした事件を切っ掛けに船を降りた。
母親はそのために息子には絶対に海上生活をさせたくはなかった。
だが、アムンセンは、スキーを中心とするスポーツや耐寒訓練を行って将来を目指した。
大学に進学した後、勉強していたが、一方で極地の地理・住民などに関する知識・情報は欠かさず調べていた。
しかし、母親が亡くなると、大学を退学して探検家への道を進んだ。
本人としては自分の進むべき道を決めたのだった。
退学後、極地探検の訓練としてクリスチャニア西方にある台地を冬期に横断する事を試みた。
友人と一緒に出発したが、猛吹雪に遭い遭難しかけ退却する羽目に陥った。
だが、めげずに今度はアザラシ猟船に乗り込んで船員になるための修行を積んだ。
ここで船内生活・航海術を学び急速に才能を見せた。
1897年、25歳の時、ベルギー探検隊の南極学術調査船ベジルカ号の航海士募集に応じて初の極地探検へと出発した。
南極ではビタミン不足から来る壊血病完治のために奔走したり、航海者としての頭角を現した。
帰国後には船長の資格を得た。
だが、探検したいと言っても、金もスポンサーも無かった。
そこでベジルカ号での体験から学術的調査をする事で探検への目的を設定して、援助資金を得ようと考えた。
そのためにも科学者としての知識が不可欠であり、地磁気観測の研究とドイツで気象学を研究した。
そして1900年頃、北西航路の発見と北極の地磁気観測のための準備をし始めた。
次は北西航路の探検史とアムンセンの成功までを見てゆきたい。
2 北西航路
スエズ運河も出来ていない当時、アフリカの喜望峰経由で行くしかなくかなり時間の掛かる航路であった。
また、欧州各国の利害も絡みお互い妨害し合っている仲であった。
そこで、短距離で他国に妨害されず欧亜間を行き来する航路としてユーラシア北辺を行く北東航路と北アメリカ大陸北辺を行く北西航路の発見に当時の探検家達は異常なほど熱意を示した。
北東航路はネーデルラント(オランダ)によるバレンツの探検や後述のハドソン、ロシアの探検家によって行われたが、1878年にスウェーデンの探検家Eノルデンショルドによって開拓された。
両航路も開拓されるまでに行く手を阻む極地の大自然を目の前に大勢の命が北洋に散っていった。
特にイギリスでは当時のエリザベス一世の時代から北西・北東航路に熱心であった。
だが、失敗したり、成果も見せず1610年にヘンリー ハドソンを隊長とする探検隊が派遣されカナダの大きな湾にまで到達したが、この探検隊は最後ハドソンと部下の対立から叛乱を起こされ、ハドソンとその息子と従う部下だけをボートに乗せ追放してしまった。
ハドソンが発見、追放された大きな湾は現在のハドソン湾である。
その後数回北西航路への探検家が行われ、バフィンによるバフィン湾への到達やRバイロットによるランカンスター海峡の発見、前後してバットンやギボンズのハドソン湾の調査などが行われたが、肝心の航路開拓は芳しい結果を上げる事ができなかった。
その後も引き続き北西航路探検が主にイギリス人によって行われ、当地の地理学などについて功績を上げたが、航路開拓とはいかず、次第に北西航路探検は話題とならなくなったが、たびたび探検された。
19世紀に入りWパーリーによる探検以後、極地探検再び話題に上った。
1845年に王立地学協会と海軍省は先述したジョン フランクリンを隊長にテラー号とエレブス号の2隻による探検が行われた。
バフィン湾での目撃を最後に行方不明になった。
数年分の食糧を積んでいたために楽観していたが、2、3年も音信不通だとさすがの海軍省や世間も心配になり捜索隊が出され、フランクリンの奥さんも自ら救援を差し出した、当初、何も良い収穫を得ず、逆に捜索隊が遭難するなどミイラ取りがミイラになる状況も発生した。
粘り強く捜索した結果遺品やイヌイットの情報から断片的に分かりつつあったが14年後の1859年にイギリスの探検家マックリントクがカナダ北方キング ウィリアム島のビクトリア岬で遺書と遺体を発見した事により事の次第が明らかとなった。
最初の越冬は僅かな損害で成功したが、次で思わぬ氷に囲まれ身動きも取れなかった。
また、食糧にも様々な問題があり、最終的に2隻の船を捨てて歩いて脱出行を試みただが、厳寒と餓えで一人また一人と倒れて行き、とうとう105人全員が帰らぬ人となった。
フランクリン捜索はまた、ついでに地理学的成果も多く上げた。
その後もアメリカ、ロシア、イギリス、イタリア、ノルウェーの探検家が果敢に挑戦して成果を持ち帰った。
また、グリーンランドや北極点を目指す探検も行われた。
アムンセンの先輩でもある探検家フリチョフ ナンセンによる探検が有名である。
アメリカ船ジャネット号漂流によって触発を受け氷に乗って北極横断を考えた。
そこで船底が卵の様に丸い耐氷設計にしたフラム号に乗って2年に渡る冒険の末にイギリス人探検家に救助された。
この時まで水路の大部分が明らかとなった。
そして、アムンセンは今までの探検記録を熟読して遠征計画を立てた。
大きな点は今までの遠征隊はほとんど大型船舶で航行する例が多い事である。
これは氷山などに囲まれればその船舶の大きさが仇となり閉じ込められて一巻の終わりである。
だが、小型船舶なら巨大な氷山でもその合間を縫ってかつ、カナダ北方の島々の浅い海域でも大丈夫ではないかと考えた。
そこで白羽の矢が立ったのは元ニシン漁船のユア号である。
一本マストの動力を備えた機帆船で全長21メートル、総数47トンであり、小型船であった。
アムンセンは自宅を抵当に入れて購入した。
探検資金の出資者達はこの船を見て大丈夫かと思ったほどであった。
1903年に数年分の食糧や科学観測器具、航海用具、防寒服などを装備してクリスチャニアを出発し足掛け3年に渡る冒険が始まった。
吹雪に巻かれたり、座礁しかけ、ボヤの発生、厳しい越冬、キング ウィリアム島南岸小湾で(ユア ヘブンと名付けた)地磁気や沿岸の地質学、動物学など科学的調査、隊員の病死やイヌイットとの交流そして星条旗の旗とサンフランシスコ船籍の捕鯨船であった。
遂に北西航路完走に成功は目の前だった。
途中成功電報を打つために通信設備があるカナダ内陸の町への旅行を挟んで、遂にアラスカのノーム岬に到着した。
彼が初めて北西航路完走に成功したのだった。
だが、困難が立ちはだかった。
幾らアムンセンでも北極点は無理だろうと援助者達は思っていたのである。
また、科学的調査より未知地域到達を優先としたい他の隊員と援助者達の相違もあった。
だが計画を着々と進め先輩でもあり、助言者でもあったフリチョフ ナンセンは以前北極漂流旅行に使ったフラム号を譲り受ける事に成功した。
また、支援者が増え始め、一方で探検訓練も行い準備は万全であった。
だが、ライバルが北極点到達を虎視眈々としていた。
スウェーデンでは気球で北極点へ行く事が試みられたが、失敗し全員死亡している。
アメリカのRピアリー中佐が既に数回も調査していた。
そしてとうとう1909年にピアリー隊による北極点到達成功の一報が入って来た。
周囲はどうなるのかと思ったが、アムンセンは予定通りに出航した。
そして真逆の方向、つまり南下して行ったのだ。
他の隊員達はこの行動が分からなかったが、一方でオーストラリアでは、イギリス海軍大佐Rスコットによる南極点到達隊が作られていた。
そこにアムンセンは大西洋のポルトガル領マデイラ島から電報を打った。
スコットはメルボルンで電報を受け取った。
「我、南極に向かう マデイラにてアムンセン」といった内容だった。
ピアリーの北極点到達によって今度は南極に方向を変えたのだった。
また、日本でもピアリーの北極点到達によって方向を変えた人物が居た。
日本帝国陸軍中尉の白瀬矗である。
彼もアムンセンと同じく幼少にフランクリン話を聞き大いに感銘を受けた。
極地探検家として、同じく軍人の郡司成忠大尉の千島列島探検に同行し、後に北極探検のためアラスカで極地生活の修行も行った。
南極探検を志すと国は冷淡であったが、国民から期待を寄せられ、大隈重信を会長とする後援会も結成された。
開南丸に乗り込み出発した。
かなり前途多難な探検行であった。
ところでスコットは1901年ディスカバリー号にて南極探検を行っていた。
隊員の一人に後に仲違いになる探検家のAシャクルトンがいる彼はエンデュラス号での南極漂流で後に有名になった人物である。
シャクルトンは再び1907年に南極探検を敢行したが南極点まで150キロの所で引き返した。
そこでスコットは政府の援助を得て捕鯨船でもあるテラノバ号を仕立て南極へと出発した。
既に古代のポリネシア人達が南極付近まで行ったと言われる伝説が伝わっているが、正確に南極についての知識が初めて断片的に伝聞したのは探検家Jクックによる航海であった。
後にロシア、アメリカ、イギリス、フランスの捕鯨船、海獣猟船、探検船などが少しづつ南極近辺を探索し、大陸である事が分かってきた。
1841年にJロスによってロス海とロス氷棚が発見された。
1895年にノルウェーの捕鯨船南極号に乗り込んだ博物学者カルステン エゲ、ベルグ ボルシュグレヴィンクが初めて南極大陸に人類として足を踏み入れた。
同年の国際地理学協会では南極探検の重要さが話し合われていた。
1898年にはアムンセンが乗ったベジルカ号の調査が行われた。
20世紀に入りイギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンにより探検隊が派遣され南極探検が旺盛を極めた。
それぞれが科学的調査を行い貴重なデータを収集し、かつ様々な冒険を経験した。
ドイツ隊は気球を飛ばして大陸全体が氷結しているのを確認した。
スウェーデン隊は危うく遭難しかけた。
そしてイギリス隊は名誉を掛けて南極の調査を行っていた。
さて、話を戻して1911年1月にスコットはロス氷棚に到着した。
スコットはロス島西端のマクマード湾を基地とした。
アムンセン隊は東端の鯨湾に到着して基地を作った。
両者は少しづつ奥地へ進み基地を建設し、事前調査を行った。
スコットはアムンセンの登場に不安を覚えていた。
アムンセン隊は10月20日にアムンセンを含むアタック隊5人と56匹の橇犬、4か月分の食糧を持って南極点へと出発した。
一方のイギリス隊は、10月24日に先発隊を送り、スコット等は11月1日に本隊として出発した。
この時、イギリス隊の装備として、寒冷に強い満洲馬、雪上車、シベリア犬を輸送力として総勢16人で出発した。
だが、マイナス30から60度もの酷寒の中、雪上車は壊れ、満洲馬は飼料不足と疲労によって途中射殺する事態となった。
途中途中で隊員を帰還させ、犬橇と人力で引くだけとなったが、後に犬橇を帰還させて人力で重い荷物を引いて出発する事になった。
一方のノルウェー隊は、氷壁の割れ目に足を取られ、台地を登り、雪原を進んだ。
途中食糧貯蓄場(デポ)を3箇所設けた。
進んで行く事12月14日、とうとう南極点に到達、ノルウェー国旗を立て、一帯を当時のノルウェー国王ホーコン七世の名を取り、2日間調査した。
1ヶ月後の1月25日にフラム号に帰着して南極点到達に成功した。
イギリス隊はウィルソン博士、オーツ大尉、エバンス下士官ら5名と共に悪天候の中を進んで行った。
人力橇や天候が体力を奪って行った。
途中橇の跡を見付けた。
これはノルウェー隊のものであり、イギリス隊はショックを受けた。
そして、1月18日にイギリス隊も南極点に到達したが、そこで見たのはノルウェー国旗とテント、イギリス隊への手紙と食糧だった。
帰路に就くに当たり、それこそ悲惨であった。
悪天候と橇によって体力が弱っていき、凍傷にも罹り歩みを遅らせた。
エバンズ下士官が死亡し、弱っていたオーツ大尉は自分が皆の邪魔になると考え「ちょっと外へ出て来る」と言い残し自ら命を絶った。
残った3人も少しづつ歩み続けたが、食糧貯蔵所まで18キロの所で全員死亡した。
8ヶ月後に捜索隊が3人の遺体を発見した。
スコットは気力で妻、同僚の両親へと遺書をしたためていた。
日記は3月29日付で終わっていた。
ところでこの二つの探検隊の運命はどこで分かれたのだろうか。
アムンセンもスコットも立派な隊長でもあった。
だが、極地探検における洞察・準備ともアムンセンが一枚上手だった。
アムンセンは極地探検の経験者でもあるが、南極はベジルカ号の探検隊に乗り込んだ経験があるだけである。
スコットもディスカバリー号の探検を含めて2回南極へ探検に出たが、アムンセンは既に北極での経験を充分積んであってそこに勝利の原因があった。
また、先人の探検家の記録から推理して計画を立てた事も成功を後押しした。
設置基地についての例がある。
スコットはいわゆる氷の割れ目であるクレパスを避け比較的安全なロス島にて設営した。
だが、この距離は100キロぐらい無駄になってしまう。
一方のアムンセンは過去の南極観測を参照にして南極の氷棚が60年くらい微動だにしてないと判断してより南極点へ近いポイントへと基地を立てるのに成功した。
二つ目に移動手段である。
イギリス隊は犬橇より雪上車や満洲馬に頼っていた節がある。
だが、極地では橇に犬橇が役に立った。
これは北西航路探検の際に使用され、その効果に自信を持っていた。
そして橇自体軽量化を重ね、スピード化を図った。
最大の特徴として衣服も挙げられる。
イギリス隊は自分達で衣服を作成したが、牛革を用いた物であり、問題は防寒は良いが水分などを吸収し易く、汗や雪の水分を浸み込んで服自体が重くなり、保温効果も薄れる結果となった。
ノルウェー隊は、アザラシ皮の防寒服を身に付けていた。
これは防止機能や保温機能に優れていた。
以上は北西航路探検の際イヌイットから学んだ技術であった。
極地に欠かせないスキー技術も雪に慣れ親しんでいるノルウェー人の方が上手であった。
食糧や装備に関してでも、ノルウェー隊は荷物の半分以上を食糧とし、他に着替え、燃料、テント、護身用の銃、寝袋、軽い観測器具を持って行ったが、荷物をできるだけ最小限にした。
最終的に犬橇の荷物が軽くなったらその犬を射殺して食糧にまでした。
味は結構おいしかったらしい。
また、栄養など綿密に計算していた。
イギリス隊は学術的探検も兼ねていたために、不必要な荷物を携行し、標本を捨てずに持っている例があった。
それにより16人もの人数が増えて行動が緩慢となった。
アムンセンは学術調査を二の次にしてともかく極点を目指す事に全神経を集中させた。
また、アムンセンは食糧貯蔵所デポを3ヶ所置いたが、スコットは1ヶ所しか置かなかった。
イギリス隊の食糧はビタミン不足があり、食糧を節約しなければならない状態に追い込まれていた。
また、燃料缶の不具合により燃料が無くなり、食糧に染み渡った例もある。
アムンセン隊ですら半田で何回も缶を修理した。
以上がアムンセンとスコットの両者の分析の結果である。
だが、スコット自身その日記に著している通りに隊員に対する献身的な努力を重ね、また、学術面から貴重な標本やデータを持ち帰る事に成功した。
スコットのその面は最も立派であり、現在でもその行動を見る価値がある。
次にアムンセンは北極探検を再び計画した。
探検船マウド号を建造し飛行機まで載せた。
目的は北極航路の開拓であった。
だが、これに失敗したアムンセンは、破産の危機に陥ってしまう。
だが、アメリカの資産家リンカーン エルスワースの援助を受けて、北極探検に向かう。
次に飛行船を使って探検飛行を考え、飛行船先進国のイタリアへと向かい、ウンベルト ノビレ大佐に会い共に飛行船探検を行った。
そこで極地横断航空路の開拓を目指した。
1926年に北極点を通り念願の北極点を空から目の当たりにした。
彼の眼には涙が流れた。
アラスカに到着した事により初めて北極海横断を成功させた。
後にアムンセンはこれを機会に引退を考えたが、ノビレとの反目があった。
それはアムンセンはただの客に過ぎず飛行船を設計したのは自分だと吹聴さえした。
最も基地や飛行船の改造、計画自体作ったのはアムンセン自身でもあったが、ノビレはまた、飛行船による探検を計画した。
ノビレはイタリア号と命名された飛行船に乗り出発したが、北極にて飛行中に遭難してしまった。
だが、無線がまだ使えるために各国が捜索に出た。
アムンセンも捜索隊を編成し出発した。
なぜ敵対していたノビレを助けるのかと問うた人に「危険に冒された人々は、誰でも救いを求める権利を持っている」と言った。
飛行機をチャーターしたアムンセンは北極点付近に居るノビレの所に向かったが1928年6月28日の連絡を最後にぷっつりと消息を絶ってしまった。
ノビレ達は後にスウェーデンの探検隊に救助された。
「あそこで命を落とすのならば本望です」とアムンセンは出発前に言った言葉がある。
その言葉通りならアムンセンにとってその本望を果たしたと言うべきではなかろうか。
ノルウェーは捜索隊を派遣したが、発見できずにいる。
アムンセンの遺体は北極海のどこかに眠っているに違いないだろう。
南北極地を渡り歩いた探検家は後の冒険家や探検家の鑑でもある。
その鋭い洞察力や計画性と言い、探検家の素質に恵まれていた。
極地の自然と人々をこの上なく愛していた。
極地という厳しい気候のもとで、西国の空白地を埋めて行った探検家の中でもアムンセンの動きは評価に値する。
そもそも探検家はどのような場合でも適切に判断して行動する事が求められる。
アムンセンはそれを持っていたが、それはアムンセンが過去に学び応用した事が大きい、経験と過去の調査という方式で大自然を克服した。
これがアムンセンの力となったのではなかろうかと思う。
そして、現在に生きる我々も如何なる時こそこれが求められるべき素質ではなかろうかと考える。
それこそアムンセンの生き方から学び通したい。
「世界最悪の旅」ACガラード 戸井十月訳 CWニコル解説 小学館地球人ライブラリー 1994年11月20日
「文庫クセジュ 極地探検物語」Aトマジ著 近藤等訳 白水社 1954年4月5日
「世界探検史」長澤和俊著 白水社 1996年6月25日
「探検家アムンゼンのユア号航海記」Rアムンセン著 長もも子訳 フジ出版社 昭和57年3月25日
「週刊100人第083号 ロアルド アムンセン」編集人清原伸一 ディアゴスティーニ ジャパン 2005年1月25日