メタセコイア盛衰史 白亜紀の誕生から日本での復活まで

文字数 7,048文字

 メタセコイアMetasequoiaは、中生代白亜紀後期に出現した裸子植物スギ科の落葉針葉樹であり、日本ではアケボノスギとも言う。新生代第三紀に繁栄した後、第四紀更新世に絶滅寸前まで追い詰められたものの、戦後の植林によって現在では世界各地に見られ、代表的な遺存種(生きた化石)の植物として有名である。

 メタセコイアは一見するとセコイアやヌマスギと似ているものの、以下の特徴によりほかの植物と区別できる。

1. 球果の鱗片が十字に対生する

2. 種子が偏平で両側に翼がある

3. 小枝に葉が2列に2枚ずつ向かい合って付いている

4. 葉が小枝とともに落ちる

5. 冬に小枝は落ちて冬芽で越冬する

 メタセコイア属は3種に分けられる。現存するメタセコイアは全て、中国原産のグリプトストロボイデスglyptostroboidesに属する同一種である。一方、化石として産出する絶滅種の大半はオキシデンタリスoccidentalisだが、例外として始新世中期のカナダにミレリーmilleriという別種が生息していた事も明らかになっている。

 本論に入る前に、地質学の前提知識である地質年代について確認しておく。地質年代とは、46億年に及ぶ地球の歴史(地史)を、生物の変遷に基づいて区分したものであり、古いほうから冥王代・始生代・原生代・古生代・中生代・新生代の6時代がある。「代」は複数の「紀」に分けられ、紀は更に「世」や「期」に細分される。

 本稿では主として地質学的視点からメタセコイアを取り上げ、その誕生・繁栄・衰退、そして「復活」の過程を概観していく。

白亜紀

 最古のメタセコイア化石は、東シベリアカナダなど北太平洋沿岸の後期白亜紀の地層から産出し、日本でも岩手県久慈市や福井県池田町などで白亜紀後期の化石が見つかっている。メタセコイアが中生代末に誕生し、北米アジアに生息していた事が分かる。

古第三紀

 暁新世から地球全体が温暖化し、メタセコイアは中緯度地域のみならず北極地域にまで分布するようになり、北半球に広大なメタセコイアの森林が形成された。

 1985年にカナダのアクセル・ハイベルグ島で大きな化石群が見つかり、翌年に始新世のメタセコイアを中心とする森林の化石である事が分かった。地球温暖化に関心が向けられる戦後の時流の中、「北極に森林があった」というニュースは注目を集めたという。こうしたメタセコイアを始めとする北極圏の森林は、第三紀周北極植物群と呼ばれる。

 しかし始新世末から漸進世に寒冷化が起こり、第三紀周北極植物群は消滅へ向かう。

新第三紀

 北極圏での生息が不可能になった後も、メタセコイアは北米・アジアで繁栄を続けていたが、更なる寒冷化によって次第に衰退へと向かっていき、中新世末には絶滅してしまう。しかし、僅かに絶滅を免れた地域もあり、それこそが日本中国であった。

 日本は鮮新世においても温暖湿潤気候であったため、寒冷化で南方に追い詰められたメタセコイアの最後の拠点だったのである。鮮新世から更新世における国内でのメタセコイアの存在を示す代表的な地層が、1949年に発見された大阪層群であり、近畿地方に広がっている。また滋賀県野洲川からも大阪層群とほぼ同時代の古琵琶湖層群が発見され、メタセコイアを含む野洲川化石林の存在が明らかとなっている。東京都内にもオキシデンタリスは生息しており、1967年に鮮新世の化石林が発見された八王子市北浅川は、宮城県仙台市広瀬川とともに規模の大きさで有名である。このほか1990年10月には滋賀県愛知川で鮮新世後期のメタセコイア化石林が台風の浸食作用で出現するなど、日本各地で発見が相次いでいる。

 高校地学の教科書では、新第三紀における日本などの代表的植物として、メタセコイアが重要語句で記述されている。

第四紀

 地質時代が更新世に至ると、日本のメタセコイア植物群は消滅期に入る。寒さに強いメタセコイアにとって、氷河期は必ずしも致命傷にはならなかったものの、気候変動や地殻変動に適応しきれず、今から約80万年前、ついに日本のメタセコイアも姿を消す事になる。かくして、中国を除く地球上の全地域から、メタセコイアは絶滅した。

 メタセコイアの遺体は単なる化石のみならず石炭を形成し、人類によって利用されていく。石炭は化石燃料の中でも環境への負荷が大きいとされているが、太古の温暖化の結果として生じた産物が、奇しくも現在の温暖化の原因になっているという事になる。

北極地域

 メタセコイアの絶滅から幾多の歳月が流れ、約1万年前には更新世が終わり完新世が幕を開ける。そして約6000年前、イラクの地に最初の文明が築かれ、以後ヒト科の動物たちは自らを「人間」と名乗り、大繁栄を遂げていく事になる。ここからは、メタセコイアが人類史の中で復活していく過程を見ていきたい。
 ヒトとメタセコイアが出会ったのは、19世紀、極地探検の時代であった。16世紀以降、英国やオランダなどの国々は、大航海時代の主役であるスペイン・ポルトガルに対抗すべく、北極海を経由して太平洋に向かう航路の開拓に取り組んでいた。具体的には北米大陸北方を通る北西航路と、欧亜大陸北方を通る北東航路である(極地探検についてはhttps://novel.daysneo.com/works/episode/113f49a74cf17545e08b9fa2fb49c3ab.html参照)。

 1850年から1854年にかけて、マックルーアは北西航路探検中に遭難したフランクリン隊を捜索するため、ベーリング海峡から北極海へ入った。この捜索に際してマックルーア隊は、バンクス島でメタセコイアを含む大量の樹木化石が山積しているのを発見した。マックルーア以外の捜索隊や、それ以後の北極圏探検家も同様の体験をしている。北極地方はかつて温暖であり、第三紀周北極植物群が生息していた事が明らかとなる。

 一方、1878年から1879年にかけての北東航路開拓で活躍したスウェーデンのノルデンシェルドも、ノルウェー北方のスピッツベルゲン諸島や滞在先の日本でメタセコイアの化石を採集していた。

 このように、極地探検を契機としてメタセコイアが人間の目に触れるところとなったわけだが、当時はそもそもメタセコイアという概念自体が存在せず、古植物学者はこれらの化石をヌマスギ属かセコイア属の一種だと考えた。スウェーデンのナトルストは、ノルデンシェルドが発掘した日本の植物化石をヌマスギ属に分類し、次いでスイスのヘールは、スピッツベルゲンの標本をセコイア属の新種と見做してディスチカdistichaと命名した。

 ところが、その後の古植物学では、新たな植物化石が発見されるたびに、それがセコイアなのかヌマスギなのか判別に迷うという問題が生じた。何故なら、ヘールがセコイア属に分類したディスチカは、球果はセコイアに似ているものの、小枝はヌマスギに似ているからである。

日本

 我が国の古植物学者三木茂は、ディスチカの球果を和歌山県橋本市で、小枝を岐阜県土岐市で入手して研究した結果、これはセコイアともヌマスギとも異なる新属であると判断し、1941年の論文「東アジアの第三紀以降の植物相の変遷について」でこれをメタセコイアと命名した。メタ(ギリシャ語)は「後の」という意味だから、直訳すれば「後のセコイア」となるが、「似て非なるセコイア」とでも解釈すれば分かり易いだろう。なお三木は同論文でメタセコイアにディスチカとジャポニカjaponicaの2種があると述べているが、1950年以降の研究により、両者はオキシデンタリス1種に統合される。

 ちなみにセコイアという植物名は、インディアンの一部族であるチェロキー族を率いた同名の人物に由来する。

 また、三木はメタセコイアに「イチイヒノキ」という和名を付けていたが、この呼称は一般には普及せず、1950年に植物学者の木村陽二郎が考案した「アケボノスギ」のほうが有名になった。この和名は英名と華名の意味を組み合わせたものらしく、メタには「曙」という意味もある事、また中国ではメタセコイアが「水杉(スイサ)」と呼ばれている事を参考にしたという。

 三木がメタセコイア属の発見に成功した理由としては、植物に対する真摯な観察姿勢はもとより、研究上の立場における特色が指摘されている。古植物学者には二つのタイプがあり、地質学の一環として研究している者と、生物学の一環として研究している者に分けられる。多くの古植物学者が前者であるのに対し、三木は京都帝国大学理学部植物学科で水生植物を究めた身であり、生物学から古植物学に入った。そんな三木が着目したのが、植物遺体と呼ばれる、石化があまり進んでいない植物化石であった。植物遺体は、茎・葉・種子・果実などがバラバラで産出し、しかも乾燥に弱いという難点があるものの、生育時の特徴が残存しているというメリットがある。

中国

 一方、三木茂がメタセコイア属を発表した1941年、日本との戦時下にあった中華民国では、驚くべき事が起きていた。南京大学森林学教授の干鐸が、四川・湖北省境の磨刀渓で現生するメタセコイア樹木1本を目にしたのである。高さ約30m、直径約3mの大木であった。

 戦後の1946年、北平静生生物研究所(現在の中国科学院北京植物研究所)所長の胡先驌と南京大学樹木学教授の鄭万均が詳細な調査を開始した。三木と面識があり、メタセコイア属についての論文も入手していた胡は、この樹木こそが三木の発表したメタセコイアである事に気付いた。更新世に絶滅していたと考えられていた植物が、実は中国奥地で生き残っていたのである。この発見は米国に伝えられ、カリフォルニア大学古生物学科教授チェイニーとハーバード大学アーノルド植物園園長メリルが中国での研究を支援するようになる。1947年の現地調査では磨刀渓のみならず、湖北地方約800km2の広範囲に1000本以上ものメタセコイアが確認された。

 そして1948年に胡と鄭は、静生生物研究所の論文「水杉新科及生存之水杉新種」にてメタセコイア現生種を正式に発表し、これをグリプトストロボイデスと命名した。

 なぜ中国のメタセコイアは絶滅しなかったのだろうか? 現生のメタセコイアが発見された磨刀渓村は、当時は四川省に属していたが、省境線の変更により現在では湖北省に属している。この地方には土家(トゥチャ)族という、漢族との同化が進んだ少数民族が暮らしている。彼らがメタセコイアを棺桶などの用材として大切に植林していた事が、絶滅を免れた一つの要因ではないかと指摘されている。つまり単純な自然淘汰ではなく、人の手によって守られてきたという事になる。磨刀渓のメタセコイア樹木の前には社が建てられ、村の人々から神木として信仰されていた。

 一方、古植物学においてメタセコイアの現生種を発見できた背景には、皮肉にも日華戦争が関係している。1937年、軍事力では圧倒的に優位な日本軍の攻勢により、中華民国政府は首都を江蘇省南京から四川省重慶に移転した。これに伴い重慶周辺の交通網が整備され、森林資源の確保のため、専門家たちがこの道路を通って調査に派遣された。その途上に磨刀渓があったわけである。
 採集されたメタセコイアの種子・苗木は欧米、次いで日本に送られる。現在、世界各地で見られるメタセコイアは全て、中国湖北地方で生き残っていたグリプトストロボイデスの子孫という事になる。
 しかし1949年に共産主義者が権力を握った事により、現生地への外国人立ち入りが禁止され、米国との共同研究は停滞を余儀無くされた。

メタセコイアの復活

 1949年3月、東京大学理学部植物学科助教授の原寛が、中国からメリル経由で送られて来た種子を播き、約1箇月に発芽した。この瞬間、80万年の歳月を経て日本列島にメタセコイアが復活した。その記念すべき樹木は現在、東大理学部付属植物園(小石川植物園)に植えられているという。

 続いて10月には、チェイニー経由で苗木が送られて来るが、その宛先は天皇だった。昭和天皇は変形菌類・ヒドロ虫類の研究で業績を上げた生物学者であり、ロンドンのリンネ協会にも名誉会員として名を連ねていた(昭和天皇の生物学研究については拙稿「科学者たちの皇室史」参照)。しかも天皇家(継体朝)は6世紀から続く世界最古の王朝だから、太古の植物を献上するのに相応しい人物だと考えられたそうである。苗は皇居の吹上御苑に植えられ、現在に至っている。

 このように小石川植物園と皇居吹上御苑には、現生種としては国内最古級のメタセコイアが根を張っており、我が国におけるアケボノスギの復活を象徴している。

 1950年にチェイニーから100本の苗木が届けられたのを皮切りに、メタセコイアは日本各地に広がっていく。メタセコイアは挿木(切り取った枝から新しい個体が発生する無性生殖)による繁殖が容易で、成長も早いため、国土緑化や林業資源への期待を背負って全国に植樹されていく。やがて、メタセコイアは必ずしも林業に適していない事が明らかになるものの、なお庭園樹・公園樹としての価値を有していた。そして1973年には、人の手を借りずに自力で雄花を咲かせ、有性生殖ができるようになっていた。かつて日本列島を覆っていたメタセコイアの大森林が、今ここに蘇ったのである。
 焦土から這い上がった我が国は、奇跡的な経済成長を成し遂げたばかりでなく、80万年前に失った神秘の森をも取り戻した。そしてその復興を知らしめるかのように、皇居に植えられたアケボノスギは20m余りに成長していた。

 1987年1月13日、昭和最後の新年歌会で、天皇は「木」というテーマで以下のような和歌を詠んだ。

わが国の たちなほり来し 年々に あけぼのすぎの 木はのびにけり

 中共の自由化が進められていた1988年、ようやく磨刀渓への外国人立ち入りが開放されたが、真っ先にこの地を訪れたのが三木茂の妻、三木民子だった。社は無くなっていたものの、現生する最古のメタセコイアは確かにその場所にあった。民子は亡き夫の遺影を抱えて頭を下げ、「あなた、とうとう来ましたよ」と語った。

 そして1989年1月7日、天皇が崩御される。11月に発刊された『皇居の植物』の中で、昭和天皇は三木茂によるメタセコイアの発見と、これに関連する中国・米国での研究に触れ、「米国と中国と日本とを結ぶ協力が調査に良い成果をもたらしたと言える事は誠に喜ばしい」と述べている。

 生きていた化石、メタセコイア。その悠久の歴史を刻んだ姿に見守られつつ、昭和という一つの時代が幕を下ろした。

後書き

 私は國學院大学で、主として地理学や自然科学を学んできました。卒論を始めとする必修科目の可否にもよりますが、恐らくは今年度で卒業という事になるかと思います。つまり、地球研究会の学部生メンバーとして記事を書くのも、これが最後という事になります。
 もうすぐ國學院高校の文化祭が始まりますが、思えば4年前の今頃、私は母校の地学部の一員として部誌の執筆に当たっていました。時間が経つのは早いものです。当時も今と同じように、あと半年で卒業という状況下における自分の想いみたいなのを書いていました。更に遡って中学1年の時、私は科学部の先輩方とともに発光ダイオードなどを使った星座模型を造っていました。そして今、私はこうしてメタセコイアの文章を書き終わりました。これはつまり、私の学生時代が地学に始まり、地学に終わるという事を意味します。
 文系の進路を選んだにもかかわらず、自然科学、とりわけ地学への執着をとうとう捨てる事ができなかった理由は、私の心の中に「神秘への憧れ」とでも言うべき、ある種の自然崇拝が存在したからではないかと思います。私は今までいろいろな鉱物を見てきましたが、このような美しい立体図形を創り出す自然の摂理に、しばしば驚嘆を覚えました。また、数々の化石から見えてくる地球の歴史を通して、想像を絶する世界の雄大さを私たちは知る事ができます。世界中の様々な民族の神話では、神が天地を創造する過程や、自然界に宿る精霊などについて語り継がれていますが、これらの内容にはもちろん作り話の部分もあるにせよ、一面の真理をも含んでいるのではないかと私は思います。同時に人間の心すなわち精神もまた、今流行りの脳科学だけで説明できるようなものではなく、肉体とは別個の実在としてあると私は信じてきました。私が地理学を研究しているのも、自然と人間の相互作用によって形成される地球上の景観を通して、そうした神秘性を感じ取りたいという意識に基づいているのではないかと思います。
 國學院大学地球研究会がこんにちまで活動できたのは、教職員の方々や、会員を始めとする学生の皆様のお陰です。また國大関係者以外でも、会報誌を受け取ったり、インターネットを通したりして、私たちの文章を読んで下さった方々がいらっしゃると思います。地球研究会を直接・間接に支えて下さって全ての方々に、初代代表として、そして地球研設立発起人として感謝の言葉を述べさせて頂きたく思います。
 本当にありがとうございました。

2010(平成22)年9月17日【敷地顕】

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色