メタセコイア盛衰史 白亜紀の誕生から日本での復活まで
文字数 7,111文字
1. 球果の鱗片が十字に対生する。
2. 種子が偏平で両側に翼がある。
3. 小枝に葉が2列に2枚ずつ向かい合って付いている。
4. 葉が小枝と共に落ちる。
5. 冬に小枝は落ちて冬芽で越冬する。
メタセコイア属は3種に分けられる。現存するメタセコイアは全て、中華原産の
本論に入る前に、地質学の前提知識である地質年代について確認しておく。地質年代とは、46億年に及ぶ地球の歴史(地史)を、生物の変遷に基づいて区分したものであり、古いほうから冥王代・始生代・原生代・古生代・中生代・新生代の6時代がある。「代」は複数の「紀」に分けられ、紀は更に「世」や「期」に細分される。

本稿では主として地質学的視点からメタセコイアを取り上げ、その誕生・繁栄・衰退、そして「復活」の過程を概観していく。
白亜紀
最古のメタセコイア化石は、東シベリアやカナダなど北太平洋沿岸の後期白亜紀の地層から産出し、日本でも岩手県 久慈市や福井県 池田町などで白亜紀後期の化石が見付かっている。メタセコイアが中生代末に誕生し、北米とアジアに生息していた事が分かる。
古第三紀
暁新世から地球全体が温暖化し、メタセコイアは中緯度地域のみならず北極地域にまで分布するようになり、北半球に広大なメタセコイアの森林が形成された。
1985年にカナダのアクセルハイベルグ島(ハイバーグ)で大きな化石群が見つかり、翌年に始新世のメタセコイアを中心とする森林の化石である事が分かった。地球温暖化に関心が向けられる戦後の時流の中、「北極に森林があった」というニュースは注目を集めたという。こうしたメタセコイアを始めとする北極圏の森林は、第三紀周北極植物群と呼ばれる。
しかし始新世末から漸進世に寒冷化が起こり、第三紀周北極植物群は消滅へ向かう。
新第三紀
北極圏での生息が不可能になった後も、メタセコイアは北米・アジアで繁栄を続けていたが、更なる寒冷化によって次第に衰退へと向かっていき、中新世末には絶滅してしまう。しかし、僅かに絶滅を免れた地域もあり、それこそが日本と中華であった。
日本は鮮新世においても温暖湿潤気候であったため、寒冷化で南方に追い詰められたメタセコイアの最後の拠点だったのである。鮮新世から更新世における国内でのメタセコイアの存在を示す代表的な地層が、1949年に発見された大阪層群であり、近畿地方に広がっている。また滋賀県 野洲川からも大阪層群とほぼ同時代の古琵琶湖層群が発見され、メタセコイアを含む野洲川化石林の存在が明らかとなっている。東京都内にもオキシデンタリスは生息しており、1967年に鮮新世の化石林が発見された八王子市 北浅川は、宮城県 仙台市 広瀬川とともに規模の大きさで有名である。このほか1990年10月には滋賀県 愛知川で鮮新世 後期のメタセコイア化石林が台風の浸蝕作用で出現するなど、日本各地で発見が相次いでいる。
高校地学の教科書では、新第三紀における日本などの代表的植物として、メタセコイアが重要語句で記述されている。
第四紀
地質時代が更新世に至ると、日本のメタセコイア植物群は消滅期に入る。寒さに強いメタセコイアにとって、氷河期は必ずしも致命傷にはならなかったものの、気候変動や地殻変動に適応しきれず、今から約80万年前、遂に日本のメタセコイアも姿を消す事になる。かくして、中華を除く地球上の全地域から、メタセコイアは絶滅した。
北極地域
1850年から1854年にかけて、マックルーアは北西航路探検中に遭難したフランクリン隊を捜索するため、ベーリング海峡から北極海へ入った。この捜索に際してマックルーア隊は、バンクス島でメタセコイアを含む大量の樹木化石が山積しているのを発見した。マックルーア以外の捜索隊や、それ以後の北極圏探検家も同様の体験をしている。北極地方はかつて温暖であり、第三紀周北極植物群が生息していた事が明らかとなる。
一方、1878年から1879年にかけての北東航路開拓で活躍したスウェーデンのノルデンシェルドも、ノルウェー北方のスピッツベルゲン諸島や滞在先の日本でメタセコイアの化石を採集していた。
このように、極地探検を契機としてメタセコイアが人間の眼に触れる所となったわけだが、当時はそもそもメタセコイアという概念自体が存在せず、古植物学者はこれらの化石をヌマスギ属かセコイア属の一種だと考えた。スウェーデンのナトルストは、ノルデンシェルドが発掘した日本の植物化石をヌマスギ属に分類し、次いでスイスのヘールは、スピッツベルゲンの標本をセコイア属の新種と見なして
ところが、その後の古植物学では、新たな植物化石が発見されるたびに、それがセコイアなのかヌマスギなのか判別に迷うという問題が生じた。何故なら、ヘールがセコイア属に分類したディスチカは、球果はセコイアに似ているものの、小枝はヌマスギに似ているからである。
日本
我が国の古植物学者三木茂は、ディスチカの球果を和歌山県 橋本市で、小枝を岐阜県 土岐市で入手して研究した結果、これはセコイアともヌマスギとも異なる新属であると判断し、1941年の論文「東アジアの第三紀以降の植物相の変遷について」でこれをメタセコイアと命名した。メタ(ギリシャ語)は「後の」という意味だから、直訳すれば「後のセコイア」となるが、「似て非なるセコイア」とでも解釈すれば分かり易いだろう。なお三木は同論文でメタセコイアにディスチカと
因みにセコイアという植物名は、インディアンの一部族であるチェロキー族を率いた同名の人物に由来する。
また、三木はメタセコイアに「イチイヒノキ」という和名を付けていたが、この呼称は一般には普及せず、1950年に植物学者の木村陽二郎が考案した「アケボノスギ」のほうが有名になった。この和名は英名と華名の意味を組み合わせたものらしく、メタには「曙」という意味もある事、また中華ではメタセコイアが「水杉」と呼ばれている事を参考にしたという。
三木がメタセコイア属の発見に成功した理由としては、植物に対する真摯な観察姿勢は元より、研究上の立場における特色が指摘されている。古植物学者には二つのタイプがあり、地質学の一環として研究している者と、生物学の一環として研究している者に分けられる。多くの古植物学者が前者であるのに対し、三木は京都帝国大学 理学部 植物学科で水生植物を究めた身であり、生物学から古植物学に入った。そんな三木が着目したのが、植物遺体と呼ばれる、石化があまり進んでいない植物化石であった。植物遺体は、茎・葉・種子・果実などがバラバラで産出し、しかも乾燥に弱いという難点があるものの、生育時の特徴が残存しているというメリットがある。
中華
一方、三木茂がメタセコイア属を発表した1941年、日本との戦時下にあった中華民国では、驚くべき事が起きていた。南京大学森林学教授の干鐸が、四川・湖北省境の磨刀渓で現生するメタセコイア樹木1本を眼にしたのである。高さ約30m、直径約3mの大木であった。
戦後の1946年、北平静生生物研究所(現在の中国科学院 北京植物研究所)所長の胡先驌と南京大学 樹木学教授の鄭万均が詳細な調査を開始した。三木と面識があり、メタセコイア属についての論文も入手していた胡は、この樹木こそが三木の発表したメタセコイアである事に気付いた。更新世に絶滅していたと考えられていた植物が、実は中華奥地で生き残っていたのである。この発見は米国に伝えられ、カリフォルニア大学 古生物学科教授チェイニーとハーバード大学アーノルド植物園園長メリルが中華での研究を支援するようになる。1947年の現地調査では磨刀渓のみならず、湖北地方約800km2の広範囲に1000本以上ものメタセコイアが確認された。
そして1948年に胡と鄭は、静生生物研究所の論文「水杉新科及生存之水杉新種」にてメタセコイア現生種を正式に発表し、これをグリプトストロボイデスと命名した。
なぜ中華のメタセコイアは絶滅しなかったのだろうか? 現生のメタセコイアが発見された磨刀渓村は、当時は四川省に属していたが、省境線の変更により現在では湖北省に属している。この地方には土家族という、漢族との同化が進んだ少数民族が暮らしている。彼らがメタセコイアを棺桶などの用材として大切に植林していた事が、絶滅を免れた一つの要因ではないかと指摘されている。つまり単純な自然淘汰ではなく、人の手によって守られてきたという事になる。磨刀渓のメタセコイア樹木の前には社が建てられ、村の人々から神木として信仰されていた。
メタセコイアの復活
1949年3月、東京大学 理学部 植物学科助教授の原寛が、中華からメリル経由で送られて来た種子を播き、約1か月に発芽した。この瞬間、80万年の歳月を経て日本列島にメタセコイアが復活した。その記念すべき樹木は現在、東大理学部付属植物園(小石川植物園)に植えられているという。
続いて10月には、チェイニー経由で苗木が送られて来るが、その宛先は天皇だった。昭和天皇は変形菌類・ヒドロ虫類の研究で業績を挙げた生物学者であり、ロンドンのリンネ協会にも名誉会員として名を連ねていた(昭和天皇の生物学研究については拙稿「科学者たちの皇室史」参照)。しかも天皇家(継体朝)は6世紀から続く世界最古の王朝だから、太古の植物を献上するのに相応しい人物だと考えられたそうである。苗は皇居の吹上御苑に植えられ、現在に至っている。
このように小石川植物園と皇居吹上御苑には、現生種としては国内最古級のメタセコイアが根を張っており、我が国におけるアケボノスギの復活を象徴している。
1987年1月13日、昭和最後の新年歌会で、天皇は「木」というテーマで以下のような和歌を詠んだ。
わが国の たちなほり来し 年々に あけぼのすぎの 木はのびにけり
中共の自由化が進められていた1988年、ようやく磨刀渓への外国人立ち入りが開放されたが、真っ先にこの地を訪れたのが三木茂の妻、三木民子だった。社は無くなっていたものの、現生する最古のメタセコイアは確かにその場所にあった。民子は亡き夫の遺影を抱えて頭を下げ、「あなた、とうとう来ましたよ」と語った。
そして1989年1月7日、天皇が崩御される。11月に発刊された『皇居の植物』の中で、昭和天皇は三木茂によるメタセコイアの発見と、これに関連する中華・米国での研究に触れ、「米国と中国と日本とを結ぶ協力が調査に良い成果をもたらしたと言える事は誠に喜ばしい」と述べている。

2010(平成22)年9月17日【敷地顕】