ヒマラヤ山脈の国々 ブータン王国の照葉樹林文化を中心に

文字数 10,513文字

ヒマラヤ山脈の国々

ブータン王国の照葉樹林文化を中心に

 本稿では、ヒマラヤ山脈の東部南面に位置するブータン王国を中心に、ヒマラヤ周辺地域の地誌を、日本列島と比較しながら考察します。

 ヒマラヤ山脈(約7000m)は、高いだけでなく東西にも長く、西のパキスタン(インダス川)方面は乾燥しているが、東のブータン方面は季節風で湿潤、両者の中間がネパール。地形・文化的に、ネパールはインドに、ブータンはチベットに近い。

 日本・ブータンの最大の相違は、島国か山国(内陸国)かである。日本の海岸線3万5293km(世界6位)に対し、内陸国ブータンは海岸線ゼロである。

 ブータン王国の面積は、日本の九州と同じ程度。直径は南北130km、東西300kmの長さで西部・中部・東部に分けられる。古来から西部がブータンの中心で、現在も首都圏になっている。中部・東部は開発が遅れ、東端には国境未確定のマクマホンライン地方がある。
 ヒマラヤ南麓なので、ブータンの河川は南流し、アッサム州でブラマプトラ川に注ぐ。ブータンの地形は、南(低高度)から北(高々度)に向かうほど、ヒマラヤ山脈を登るため標高が上がる。標高に応じて植生が変わるため、国内の植物が多様で、住民の衣食住も様々である。

湿潤のブータン 乾燥のチベット ブータンは領海を持たぬ内陸国だが、ベンガル湾から季節風が吹き付けるため、この点で海と縁がある。ベンガル湾で蒸発した水分が雲になり、季節風に押されてヒマラヤ山脈にぶつかり、ブータンに雨を降らせる。そのため、ブータンには豊富な植生が育まれ、多くの動植物が棲息するので食生活に困らないが、移動に難あり。

 一方、ヒマラヤを越えた季節風は乾燥しているので、チベット高原の植生は貧弱になるが、大きな樹木が少ないチベットは移動し易く、交易に有利。

 この差異は葬制にも反映されており、樹木から薪を得られるネパール・ブータンでは火葬、木が少ないチベットでは鳥葬(肉体を天空に運ぶ儀礼)が普及した。ヒマラヤで蛇行した季節風は、日本列島にも達する。

 低い平野部には亜熱帯密林が、標高2000mには照葉樹林帯が広がり、その少し上が人口密集地で、首都ティンプーは約2400m。高くなるほど森林が減り、高山気候の草原になる。

ヒマラヤ諸国の歴史

5000万~2000万年前 新生代 古第三紀 始新世から新第三紀 中新世にかけて、インド亜大陸ユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈・チベット高原が形成される。この地形は、季節風や偏西風を通して、アジア南東部の気候に影響を及ぼすようになる。

4000年前(紀元前2000年) この頃、ヒマラヤ山脈ブータン地方に人類が定住し始める。

 ヨーロッパ諸国(ポルトガル・英国)が来訪する前のブータンは、第一にチベット、第二にインドと交流。チベットは稲作に適さないので、米を確保するためにもインドとの関係が生じ、そこからサンスクリット語が入って来る。植物の種子は(人間以外の)動物も運ぶが、言語を伝えるのは人類だけなので、言葉から文化の伝播が分かる。第三に、チベット経由で中華からの影響も考えられる。

隋書附国伝 隋帝国(581~618)の頃、ブータン人の存在が中華に知られるようになる。『隋書』83巻「列伝」によると、吐蕃王国(チベット)の南方に、チベットと同じ風俗の人々(薄縁夷・薄緑)が居ると書かれている。この記述は「隋書附国伝」と呼ばれ、ブータンに関する最古の文献史料と考えられる。

南蛮薬草国 600年頃のチベット人は、ブータン地方を「南蛮国」「生薬草地域」などと呼んでいた。ブータンの植生は、古くから民間薬の確保に適していたのだろう。この薬草から毒矢を作る事もでき、チベット方面での戦いに役立った。

658 唐帝国王玄策使節が、吐蕃・ネパール経由でインド(バルダナ王国)を訪問。チベットのネパール国境に、砂質頁岩(けつがん)(脆い泥岩)の石碑が遺されている。この頃インドでは、ビハール地方のナーランダー僧院(5世紀にグプタ朝マガダ王国が建立)が、大乗仏教を中心とする世界最古級の大学として発展。インド・中華・日本などの僧侶は、教養・実学を併せ持つ知識階級であった。

 17世紀前半、チベット密教(ラマ教)活仏を中心に、統一国家としてのブータン王国が成立し始める。この頃、欧州との交流も始まり、イエズス会の宣教師(ポルトガル人)が、ヨーロッパ初のブータン訪問。サンスクリット語・ヒンディー語・英語の「ブータン」は「チベットの端」という意味で、ブータン人自身は祖国を「雷龍国」と呼ぶ。

1642(寛永十九) 活仏法王ダライラマ五世チベット王国を統一。更にチベット人は17世紀、ブータンとネパールの間にシッキム王国を建てた。

1757(宝暦七) ムガル帝国(インド)ベンガル平原に進出したブリティッシュ東インド会社は、現地のコルカタ(カルカッタ)を首都に定めたが、雨季には拠点をダージリンに移していた。そのため、現在もダージリンにはブータンの資料が充実している。

1769(明和六) インド・ヨーロッパ系ネパール人(ヒンドゥー教徒)ネパール王国を統一し、グルカ王朝が成立。

1772(明和九・安永元) ブータン王国が西ベンガルの藩王国を攻撃し、ブータンの存在が英国に知られる。

1774(安永三) 東インド会社、ブータン王国に使節団を派遣。栽培植物を初めて世界戦略にした英国は、ベンガルを北上し、ブータン経由でチベットに進出するため、その道中にあるネパール・ブータンを影響下に置こうとする。

1814(文化十一)~1816(文化十三)グルカ戦争 英国(東インド会社)とネパールが交戦し、ネパールは英国の保護国に。

1858(安政五) ムガル帝国と東インド会社が解体し、英領インド帝国が成立。ネパール・インドの次は、ブータン王国が標的になる。

1864(文久四・元治(げんじ)元)~65(元治二・慶応元)年 ブータン戦争 ベンガルを北進する英国は、これに抵抗するブータン王国と衝突し、遂に全面戦争が勃発。西部の五大都市(五谷)が、英軍との戦闘で活躍。戦争の様子は、英国議会の公式記録に残されており、ミリタリーレポートにはブータンの橋について(戦略目標として)記述されている(後述の多田等観の著作と矛盾)。ブータンは、チベットに支援を求め調停を試みる。ブータンが領有していたベンガルの一部を割譲する代わりに、英国から賠償金を受け取る条件で講和。この戦争を機に、ブータンと英国の交流が深まり、英国によるブータン研究が盛んになる。

 ブータン戦争が勃発した1864年(元治元年)、日本では池田屋事件(京都)が起こり、米国は南北内戦(1861~1865)の最中であった。そして南北戦で余った銃器は、グラバー商会から薩長に流れ、討幕運動に使用された。ブータンが英国と戦火を交わしていた時、我が国も西洋との対峙を余儀なくされ、幕末・明治維新に至ったのである。

 この頃、ベンガル地方の文芸作家タゴール(インド国歌の作詞者)が活躍。ベンガルは多くの著名人を輩出し、国境を接するブータンとの縁も深い。

1907(明治四十) 英国の支持を背景に、ブータン初の安定した世襲王朝であるワンチュク朝(ドルジ家)が成立。内乱の時代、終わる。

1910(明治四十三) ブータン戦争の後始末の結果、ブータン王国は外交権を英国に委譲し、英国の保護国に。外交権を失ったブータンは(チベット以外の)外国との自由な交流を制限され、以後ブータンを「鎖国の秘境」と捉えるイメージが広まる。但し、鎖国という言い方は「建国以来ブータンには国際関係が無かった」かのような誤解を招く恐れあり。

1912(明治四十五・大正元) インド帝国の首都、コルカタからデリーに移転。

1913(大正二) 西本願寺(浄土真宗)出身の多田等観が、ブータン経由でチベットに入国したとされ、これが日本人のブータン初訪問と言われる。しかし、等観の著書『チベット』には「ブータンには橋が無く、ブータン人は猿のように移動する」という、事実に反する記述が見られる。ブータンに橋が存在する事は、ブータン戦争の際に英国が明記しており、等観はブータンに入っていない可能性がある。等観が、このような言動をした理由は、次のように考えられる。

1. 日本人の僧侶である自分が、仏教国ブータンに初入国した事で、日本とブータンの交流が(大乗仏教の縁によって)始まったと主張したかった。ブータンとの関係を喧伝するのは、一部の新宗教も採った手法。


2. チベット人は、ブータン人を「田舎者」と見下す傾向があり、チベットに10年間滞在した等観も、チベット人のブータン観を刷り込まれ、ブータンに偏見を抱くようになった。

 従って、初めてブータンを訪れた日本人は、多田等観ではなく中尾佐助(後述)の可能性がある。ダライラマ十三世に弟子入りした等観は、河口慧海(チベットに初入国した日本人)と共に、我が国のチベット仏教学を発展させた。

1914(大正三) 英領インド帝国アッサム州とチベット王国の国境線「マクマホンライン」が定められるが、後に国境紛争の火種となる。

1940(昭和十五) チベット王国でダライラマ十四世、即位。第二次大戦中、チベットは中立の態度を取り、軍需品の輸送に関与していないとされるが、実際には英国が、コルカタ→ヒマラヤ→チベット経由で中華民国(成都)に物資(殺傷兵器以外)を送る援蒋ルートを担っていた。ヒマラヤ山脈を通過する取引であり、ブータン王室もこれに関与・受益していたと言われる。

 東郷茂徳外相(開戦と終戦に携わる)ら日本政府も、東南アジア・インド経略に関連して、ブータン王国に関心を持つ。また、季節風によるビルマへの強い雨季の到来は、日本軍の進撃を阻む懸念となった。ブータンの土地は、インパール作戦(日本軍がビルマからインドに侵攻)の捕虜を収容するのに使われた。ブータンとの国交を目指す夢は、東郷文彦らに受け継がれる。

1947(昭和二十二) 独立運動の結果、インド帝国が解消し、バーラト(インド)連邦共和国パキスタン イスラム共和国に分離独立。懸案だったベンガル地方は、インド西ベンガル州と東パキスタン(バングラデシュ)に分割される。

1949(昭和二十四) インド・ブータン友好条約により、ブータン外交権が英国からインドに引き継がれる。

1951(昭和二十六) 中華人民共和国解放軍チベット王国を占領し、ブータン王国の眼前に中共軍が迫る。これを機にブータンは、教育と軍隊の近代化に着手。近代的な教育制度は、若者の未来を創るだけでなく、国民を軍隊的に統率するシステムとも繋がっている。中共への安全保障対策を兼ねて、飛行場が整備される。もっとも、チベットからヒマラヤを越えてブータンを攻略するのは(地形的にも歴史的にも)不利であり、過去にブータンはチベットに連勝している。

1958(昭和三十三) のチベット学者マイケル アリス博士(オックスフォード大学)ら英人によるブータン研究を経て、植物学者(農学博士)中尾佐助(恐らく日本人初の)ブータン入国を果たす。英国による(世界戦略の国策を兼ねた)ブータン植物研究の蓄積が、中尾博士の調査に受け継がれた。アリス博士は、ビルマ連邦共和国(ミャンマー)スーチー書記長と結婚し、この人脈が、オックスフォード留学経験のある浩宮(ひろのみや)徳仁(なるひと)(令和今上天皇)陛下のブータン御訪問に繋がった。

1959(昭和三十四) チベットのダライラマ十四世、インドに亡命し、ダライラマに続いたチベット人らはブータン王国に寄る。但し、ダライ当人のブータン通過は、チベット動乱に巻き込まれたくないブータン政府に断られた。

 ダライラマの亡命を機に、マクマホンラインで中印国境紛争(1959~1962)が勃発。結局、この地域は帰属未定のままインド実効支配に。

1961(昭和三十六) セイロン共和国(スリランカ)コロンボ計画に基づき、ドルジ家と親しい東郷文彦(茂徳の娘婿)が、インド経由でブータン支援に取り組む。

1965(昭和四十) 日本が国際通貨基金に加盟したのを機に、米国の平和(ピース)部隊(コープ)を参考として青年海外協力隊が結成される。ブータン王国の農業・バイオテクノロジー発展に尽力した西岡京治により、養蚕・絹糸のブータン照葉樹林文化が明らかに。

1975(昭和五十) シッキム王国がインドに併合された(シッキム州になった)のを機に、ブータン王国はインドから外交権を回収し完全独立する事に。東郷文彦(外務事務次官)らの紹介で、糸永正之氏がブータン入国。

2008(平成二十) ネパール王制政府に対する小作農民の反乱を機に、極左党派が議会を掌握し「ネパール連邦民主共和国」を樹立。

 現在、ブータン人口は約78.2万人。

照葉樹林文化

 ブータン地方は、照葉樹林文化のセンター地帯である「東亜半月弧」の西端に位置し、発酵食品・麹酒・養蚕・漆器・藍染・和紙など、典型的な照葉樹林文化が見られる。その中には、中華江南地方西日本と共通するものもある。

 ブータンでは陶磁器が発達せず、木製の漆器が主流。これは、寺院巡礼の旅行箱などに用いられる。照葉樹林帯の竹(平行)と、亜熱帯密林のバンブー(放射状)は、同じ竹類でも生え方が異なる。

 ブータン・ネパールには、日本のような酒屋(店内醸造)が見られない。

 日本の酒屋は、余った米を酒にするので、それだけ余剰のある富裕層が酒屋を営む。

 これに対し、自作農民が多い(不在地主が少ない)ブータンでは、家庭内で酒造し、祭礼での飲酒の習慣もあり、お酒に困らない国である。ブータン人にとって、酒は売買の対象と言うより、各家庭で自給自足する物である。これは(米を主食とするのは共通でも)日本と異なる点だが、現在はブータンでも商業的な酒造が行われる。

 他方、小作農民・不在地主が多いネパールでは、小作人に酒造する経済的余裕が無く、祭礼では酒の代わりに大麻を摂取する事もある。貧民にとって、大麻は酒の代用品と化している。小作人の反乱が、ネパール王制の廃止に繋がった。同じヒマラヤ地域でも、こうした所にブータン・ネパールの相違がある。

 大麻以外でストレスを発散できず、政府もそれを抑えられなくなった国・州では、大麻が合法になり易い。政府の責任で薬物を管理する代わりに、民間の医薬知識は衰退する。ネパールや、北米アラスカなどの事例。ブータン王国では、都市化と共に社会的孤立のストレスを深めた若者が大麻・アルコール依存に走る。

 大乗仏教(多神教)神仏像などが示すように、照葉樹林文化には具体的な概念(具象)が多く、かつ融通無碍(むげ)(臨機応変)な傾向があるように思われる。

食生活

 食生活は、芸術や思想より先行して存在するものであり、文化の根底である。食文化を無視した文化論は、それを見落としている事になる。

 ブータンでは、標高によって主食・副食が変化する。亜熱帯は麦、照葉樹林帯は米、それより上は蕎麦を主食とする。多様な自然環境が、多種の食材を育んだ。穀物の食べ方は、粒のまま調理して食べる「粒食」と、消化に良い粉に加工してから食べる「粉食」に分けられる。

 ブータンは仏教国であるため、殺生・肉食を忌避する建前になっているが、農閑期の巡礼などで効率的な栄養が必要になるので、実際は動物性蛋白質を摂取している。チベット・ヒマラヤの牛科哺乳類であるヤクは、ブータンの主要な家畜。

 日本と異なり、ブータンはチベットからの影響で、昔から乳製品(チーズ・ヨーグルト)が多い。日本で乳業が展開するのは、北海道を開拓した明治時代(中期)以降である。

 日本国内のブータン料理店として、千代田区 麹町(市ヶ谷駅前)https://www.lasola-bhutan.com/や、渋谷区(代々木上原)https://www.gatemotabum.com/がある。

 フランスや米国などのように食糧自給率が高い国は、外国に依存せず自己主張できる。その対極は、かつてベンガル地方でも発生した飢餓である。食糧は戦略物資であり、安全保障など全ての根幹である。

衣服

 ブータンの染織は、インドの綿花(植物)と、チベットの毛糸(動物)に支えられ、合成繊維(ナイロン)や力織機は普及していない。素材の種類によって、デザインの幅が制約される。服のデザインは、男女同形から別々の形へと変化したらしい。近年は、香港製のキラキラした金糸が若者に人気である。

住居

 かつてブータン国民は、水の流れ道を知り、獣害(熊)対策で2階に住むなど、自然と共生してきた。都市化と共に、土石流など水害に弱い場所へと人間が進出し、被災リスクが高まっている。しかも(日本同様)プレート境界上に位置するブータンでは、いつ地震活動が起きても不思議ではない。山脈ゆえに高低差が大きい国なので、水力発電・ダム開発も進む。これらは、いずれも日本と共通する課題と言える。

言語

 チベット語の方言で、ブータン西部の人々が使ってきたゾンカ語が公用語。北部高地はチベット語、南部平野はヒンディー語の影響が大きい。文法は、主語・目的語・動詞・形容詞の順序であり、主語・目的語・動詞までは日本語と同じSOVだが、動詞の後ろに(フランス語のように)形容詞が来る。英語や中華漢語がSVOなので、日本人は外国語を難しく感じているが、アジアにはそうでない言語も多い。

 僧侶は読み書き能力が高く、それは商売でも役立つため、村落の女性に求婚され易い。しかし現在、英語教育が推進される一方で、自国語を読み書きできない住民も多く、まして仏典を読める人は限られるだろう。その意味で、ブータンの言語文化は危機的とも言える。

宗教と政治

 かつては、神仏の転生者である活仏が祭政一致の君主(法王)を務めていた。現在は、人間(活仏でない)大僧正(ジェイケンポ)が国王を補佐し、統治システムを「俗界」と「法界」に大別している。国王を中心とする俗界(議会)は、政治経済を担当。ジェイケンポなどの法界は、人間の心を探究する宗教界である。

 なお、誰を活仏と認定するかは寺院の判断であり、そこに王国政府は深く介入しない。そのため、政治権力を持たない民間の活仏は、ブータンやインドに複数存在する。このほか、チベットからインドに亡命したダライラマ十四世の存在を挙げられる。

 ブータン人の多くが信仰するチベット仏教(ラマ教)は、密教(ヒンドゥー教の影響を受けた大乗仏教の一派)とチベットのボン教(ポン教)が習合した宗教である。かつての日本もそうだが、女性との関わりを制限された仏教寺院(特に密教)では、欲求不満の代償行動として男色に走る者がおり、ブータンでも、寺院の師弟で関係が生ずる場合ありと言われる。

社会経済

 日本が(皇室から庶民まで)長男相続なのに対し、ブータン集落は母系制社会であり、家庭では妻の力が大きく、長女が家を継承する。乳幼児死亡率が高いため、子供(将来の労働力)を産んでくれる女性を尊重する慣習。王室は男子継承で、一夫多妻が認められる。

 民法の整備が不充分で、認知されない子供などの問題がある。

 伝統的な教育は(日本の寺子屋と同様)寺院で行われてきたが、王室(ドルジ家)によって教育の近代化、学校建設が進められている。しかし、学歴と結び付いた格差が広がり、国内での安定した就業を見通せず、豪州(オーストラリア)への移民(20~30代)が増えている。これは、資本主義の底力である中間層が崩れ始めた事を意味する。

 ブータン語には「娼婦」を意味する単語が無かったが、近年は若者や尼僧の中に、外国人観光客への売春を働く者もおり、目的は携帯電話を買うためという。「性」の解字は「心・生」だが、資本主義の急速な流入により、心を伴わない性の商品化が起きているのかも知れない。

 ブータンには、西洋医学と伝統医療という2種類の国立病院がある。若者の間では西洋医学が人気だが、東洋伝統医学(鍼灸療法)は年配に支持され、欧州連合の支援も受けている。

 ブータンでは化学肥料を使わず、工業でも天然素材を使ってきたが、都市化と共に(中華系小売店などで)プラスチックが普及。廃棄物を排出するライフスタイルへの移行により、廃棄物処理が深刻な問題になっている。日本のような湾岸への埋め立て処分ができず、山脈の谷間に埋める事となるが、谷には降雨・河川の水が流れ、その水は下流域の集落に達するので、廃棄物による水質汚濁が懸念される。

塩と油 国際関係で見ると、ブータン王国は中印という人口世界最多の核保有国に挟まれている。その中でブータンが最も専心せねばならない問題は、食塩と石油の確保である。ブータンは(日本と異なり)内陸国なので、製塩も原油も自給不能である。食塩は、伝統的にチベット方面から入手していた。石油は、前近代には必要なかったが、自動車の普及と共に需要が生じた。現在は、食塩も石油もインドから輸入している。

 これは事実上、インドに生命線を握られているとも言える。南アジア諸国(ネパール・ブータン・パキスタン・バングラデシュ・スリランカ・モルディブ)は、いずれもインドを経由しなければ互いを行き来できず、インド(ルピー通貨)の存在感を高めている。

 こうした中で、ブータン政府が注力しているのは観光と金融である。持続可能基金税という名目で、外国からの入国者に一日200$課税し、入国者は旅費と合わせて一日450$も支払う必要があるが、この税金の使途は不透明。また、国を挙げてビットコイン(仮想通貨資産)を推進しており、貨幣のデジタル化を目指しているようだが、万が一のリスクも小さくない。

 ブータン王国の社会情勢は、ネパールと同じではないが、今後もし不正・利権への不満が高まれば、王室の信頼に関わる恐れもある。

国民総幸福量

 ブータン王国は「世界一幸福な国」と言われるが、実際にはブータンより日本、日本より北欧のほうが幸福度は高い。また、独裁政権が幸福度を強引に高く粉飾する事もあり得る。まず、幸福感を数値化・比較する事自体が困難。幸せを意味する単語のニュアンスも、国によって異なる。そもそもブータン語にはhappinessに直接対応する単語が存在せず、幸福に近い表現は「心が好き」であり、自己肯定感に近い幸福感である。

 英単語に関しては、瞬間的なhappiness(幸せ)と、持続的なwell-being(安泰)を区別する議論もある。その場合も、幸福度の上下を他者・他国と比較する事自体が不幸の始まりではないか…という疑問は残る。また、こうした幸福論を主唱するのは、収入が安定した大学教員などであり、どこまで国民の目線に立っているかも問われる。結局、確実に計れるのは、勤労者(時間・人事権を経営者に売る代わりに安定した給与を得る生活者)の増加といった数値である。

 ブータン王国は、理念(イメージ戦略)を示し、それを対外広報するのに長けているが、どう実現するか選択肢が狭いのが課題。GNHそのものと言うよりは、それを議論の入り口としつつ、ブータンの対外広報戦略を学ぶべきと言われる。

映画『ブータン 山の教室』

 歌手を夢見て豪州への移住を目指すティンプーの若者が、ヒマラヤ奥地のルナナ村(標高4800m)で学校教諭を務める事に…というストーリーの映画。西洋の若者ファッションが浸透した首都と、伝統的な生活と神霊信仰を維持する村落の対比が描かれている。しかも、それらは実際にブータン現地で撮影された映像なのでリアリティーがあり、標高が上がるほど森林が減る植生環境なども確認できる。家内酒造や、ヤクの牧畜なども撮られており、ブータン人の生活文化を知る上で有益な作品である。

 個人的には、峠の守護神に感謝を捧げる場面など、ブータン住民の穏和な信仰心に共感しました。

感想

 ブータンに関する学修を機に、以前から関心を持っていた照葉樹林文化を学び、我が国からヒマラヤへと至る地域に広がる、共通の文化圏への理解を深める事ができました。また、ブータンの首都圏が急速に現代化している事や、日本とブータンの課題と共通点・相違点を考える、大変貴重な機会になりました。ありがとう御座いました。

参考資料

◆ 中尾佐助『栽培植物と農耕の起源(岩波書店1966)


◆ 上山春平『照葉樹林文化 日本文化の深層(中央公論社1969)


◆ 上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流(中央公論社1976)


◆ 佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ(日本放送出版協会1982)


◆ ジェームスFルール・瀬戸口烈司『地球大図鑑(ネコ パブリッシング2005)


◆ 佐々木高明『照葉樹林文化とは何か 東アジアの森が生み出した文明(中央公論新社2007)


◆ 武井正明・武井明信『新版 図解・表解 地理の完成(山川出版社2007)


◆ 中尾佐助『秘境ブータン(岩波書店2011)


◆ 伊藤隆・渡辺利夫・小堀桂一郎・田中英道『世界の中の日本が見える 私たちの歴史総合(明成社2022)


◆ 糸永正之「ブータン学 幸福とは何か ブータンのGNHから考える(星槎大学共生科学部2023)


春原(すのはら)(アキラ)照葉樹林物語 失われた大陸と長江文明、そして日本建国への道(デジタルアートセンター横浜2023)


◆ 外務省「ブータン基礎データ


在東京ブータン王国名誉総領事館

星槎大学 共生科学部(共生科学専攻)卒業

敷地しきち あきら

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登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

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