風土と内発的発展 ―地球生命の歴史―

文字数 6,889文字

 前稿では、千葉県市原市山形県西川町の事例から、地域の持続可能な内発的発展を考察しました。本稿では、先月13日(月曜)の星槎大学における議論を踏まえ、宮崎県綾町熊本県水俣市宮城県南三陸町の事例から、風土に根差した「内発的発展論」の意義を論述したいと思います。まず『地理学概論』「自然と風土と人間と」(山下脩二)に基づき、風土の意味を再確認します。

「自然と風土と人間と」

 自然と人間の関係に基づく環境論を考察する場合、我が国では「風土」という日本語が存在する。風土は、単なる自然環境よりも広い意味を持つ。例えばエジプトの風土には、砂漠気候だけでなく、ピラミッドや、それを建築した古代エジプト人の存在も無視できず、人間と自然の交流によって、歴史的・社会的に形成された環境が風土である。特定の地域だけでなく「地球」もまた、生物が自然環境に適応したり、大気と相互作用したりしながら形成され、その中に生物としての人間の進化も存在しているから、巨視的には風土と同じ構造を持っている。

 ヨーロッパの地理学史と同様に、日本でも人間(主体)と自然(客体)を二元論的に峻別し、その連関を問う研究が、鈴木秀夫らによって行われた。そして、環境決定論や環境可能論と同様に、関係性に対する二つの見方が提示された。市川健夫は、伝統的な環境決定論の立場を継承し、自然環境を前提として、人文現象を説明している。これに対して千葉徳爾は、人間存在の前提に自然環境を置きつつも、心霊現象と風土の関わりなど、個としての人間の心理を重視する、民俗学的な地理学を展開した。

 こうした日本における環境論・風土論の原点として、和辻哲郎『風土』(1935)を挙げる事ができる。和辻風土論は、一見すると環境決定論に思われるが、風土が人間存在を規定するのではなく、主体的な人間存在の構造契機として風土性を捉えている。環境決定論を批判するベルク(フランス)も、和辻風土論を理解・評価して発展させ、風土を「通態」という哲学的概念で定義している。

日向 綾川

 このように、風土には気候・自然環境と人間の歴史(人と自然の相互作用)が含まれており、地域の持続可能な発展には、風土の理解が重要であると考えられる。この点を踏まえ、地球世界における日本列島に着眼したい。柳田國男は、日本文化が黒潮海流に乗って伝播する『海上の道』仮説を構想していた。東アジア江南韓国西日本には照葉樹林帯(常緑広葉樹林帯)が広がっており、山の神を信仰する稲作農耕儀礼など、地域に多くの共通性を見出す「照葉樹林文化論」が提唱されている(文化地理学)。西日本には北方渡来系の部族が多く、古くから低地を開発し、照葉樹林を里山とする文化が形成され、鎮守と呼ばれる神社の森が残っている。我が国における神社と森林の大切さを、早く明治時代に説いたのが南方熊楠であり、神社は民衆の信仰の中心であるだけでなく、その神林が災害対策にも有用であると指摘した(神社合併反対意見)。

 南九州において、照葉樹林の保全に取り組んでいるのが、九州山地宮崎平野の扇状地に広がる宮崎県綾町である。綾町は、大淀川水系の綾北川綾南川が合流する中流域に位置し、古くは奈良・平安時代の日向(ひゅうが)に見られ、江戸時代は薩摩藩に属した(ブリタニカ国際大百科事典)。

 戦後の綾町は、宮崎県の綾川総合開発事業というダム建設バブルが崩壊し、夜逃げ的な人口流出の試練に直面していた。綾町を構成する複数の区は、町から派遣された区長がトップダウン的に治めていたが、この区長制を自治公民館制度に統廃合し、集落単位の地方自治を、全国に先駆けて導入した。自治公民館の起源には、の伝統的共同体による習俗が存在している。また、開発事業の伐採政策から転換し、照葉樹林帯を世界自然遺産候補地として保全し、綾ユネスコエコパーク(綾生物圏保存地域)を実現した。普遍的な生態学と、山神を敬うローカルな価値観が、保全の両輪を担っている。更に、照葉樹林プロジェクトと並行して「自然生態系農業」と呼ばれる有機農業にも早くから取り組んでいる。

 自然的環境として照葉樹林保護、社会的環境として自治公民館制度、経済的環境として自然生態系農業を融合し、これに精神的環境(郷土学習)の観点をも加える事によって、稀少になりつつある現代日本の照葉樹林文化が、綾町においては持続可能な発展を遂げている。地域住民の生活空間にある「内発的地域資源」を主体とし、自治公民館から町政にも影響を与え、更にユネスコという外部の枠組みをも活用したのが奏功したと言える。

肥後 水俣

 綾川が合流する集落は、肥後に通ずる街道の要地であり、ここから西北西に南九州を横断すると、その果てには熊本県水俣市がある。県南西部の水俣市は、その名の通り、九州山地から不知火海(八代海)の水俣湾リアス式海岸に注ぐ水俣川の流域に立地し、山→川→海へと水が輪廻する景観を見られる。幕末に生まれ、戦後まで生きた徳富蘇峰を輩出した地でもあるが、それが暗示しているかのように、水俣は近現代日本の光と影を体現する事になる。言うまでも無く、それは水俣病であり、水俣は「持続可能な発展」などとは無縁の場所であるかのような印象もある。それが、内発的発展論の原点と評されるようになった経緯を総括したい。

 日本窒素(チッソ)肥料の社史は、まだ町村であった20世紀初頭の水俣に遡る。大日本帝国と共に繁栄した新興財閥コンツェルンであり、朝鮮半島でも活躍したが、公害企業に共通する傾向として、その労働条件は好ましくなかったと言われる。水俣病自体は、既に戦時中から発生していた事が後に発覚するが、公害問題として社会に認知されたのは戦後で、人間だけでなく魚類や猫にも発症した。水銀排水が水俣川から水俣湾まで拡大するに伴い、水俣だけでなく不知火海を渡った天草諸島でも症状が確認された。熊本県は水俣湾での漁獲操業を禁止し、熊本大学を中心に原因究明が進められたが、有機水銀説に懐疑的な東工大などの専門家や、日窒の企業城下町として恩恵を受ける「オール水俣」との対峙を余儀なくされた。折しも新潟県阿賀野川でも新潟水俣病が発生し、訴訟が引き起こされる中、水俣工場が水銀排水を必要としない石油コンビナート生産方式に転換するに及んで、ようやく政府も公害病を認定した。学校教科書でも有名な四大公害訴訟が展開され、原告の訴えが認められた。しかし、被害者の受難はむしろここからで、補償対象となる患者の認定が紛糾し、偽患者不正受給騒動のような形で市民の分断が進んだ。更に、患者を差別していた人々や、水俣から関西などに転出した人々も発症が相次ぎ、公害問題は近年まで続いている。水俣の作物が売れなくなり、昨今の放射能風評と同じく、水俣という地名のイメージ悪化を招いた。

 水俣病事件が、判決後も多くの課題を残した事実は、政治権力や市場経済だけでは解決できない「魂の救い」という精神的環境の領域を明らかにした。そのため、水俣の内発的発展論には、行政府・大企業に依存した「システム社会」から脱却せんとする「オルタナティブ社会」の志向が顕著に見られる。こうした中で、水俣という郷土を市民が再発見する「地元学」が提唱され、地域の絆を結い直す試みが模索されている。綾町と同様に、郷里の神社や照葉樹林が生い茂る風土が再認識された。島原一揆の天草諸島に面した不知火海の地域では、キリシタン浄土真宗の信仰が習合し、海の自然に往生する「魂の行方」が説かれた。それは、ただ行政府や大企業の罪を糾弾し、賠償を勝ち取るだけでは成就し得ない。水俣湾埋立地に安置された手造り石仏(水俣本願の会)は、犠牲者の方々だけでなく、この地下に眠る魚類をも含めた、一切衆生の生命を尊ぶ精神が示されている。水俣病をめぐる「浄土」「常世」「魂」といった言葉は、この公害事件が自然環境や政治・経済だけでなく、民俗信仰をも含む精神的な問題である事を示している。

 窒素社は現在も、高度な技術力と人材を駆使して経営され、液晶画面開発や分社化によって売上を得ており、そこで働く人々の物語もある。水俣病は、政府が財閥を支援し、個々人の権利より、国家全体の殖産興業を優先する時代に発生した公害であり、足尾銅山鉱毒事件や福島原発と類似する構造を持っている。公害を理解し解決するには、客観的・中立的な政策論だけでなく、実際にその場所で生きている一人ひとりの個別性と向き合い、そこから全体の本質を捉える視点が求められる。環境教材としても、映像などを活用し、そうした当事者のリアルに迫りたい。風評対策として、水俣病の名称を改める議論も考えられるが、(広島が平和を祈る都市として再生したように)環境・持続可能性教育の拠点として「水俣」を積極的に捉える事もできる。

 なお、地域の伝統的な古称には、場所の歴史が刻まれているが、かつて熊本県は「肥後」「肥国」「火国」と呼ばれ、その語源は、天から降った不知火の神話に由来する(ブリタニカ・日本歴史大事典)。水俣の人々が、不知火海に生活世界のアイデンティティーを感じる起源は、古代まで遡るのかも知れない。

陸前 南三陸

 九州を事例に、公共事業や公害という社会変動の中で、森や海と共生する持続可能性の再構築に挑む地域を見て来た。これに対して環境変動としては、地震津波などの自然災害を挙げる事ができる。早くも十年を迎えつつある東北大震災では、迅速に的確な判断を下せるか否かが、人々の生死を左右し、特に大人が多数の子供を引率する学校では、この傾向が顕著であった。「自然の禍」との対峙において、持続可能性のあり方が示された地域として、宮城県南三陸町がある。

 県北東部に位置する南三陸町は、日本列島の代表的なリアス海岸に面し、北に歌津崎、南に志津川湾がある。陸前仙台藩の統治を経て、歌津町・志津川町が合併し南三陸町が成立した。伊里前川が流れる歌津町には、奥州藤原氏が霊山として信仰した田束山(たつがねさん)があり、また中生代三畳紀の歌津魚竜など化石も産出している(ブリタニカ)。東北地方の集落では、結と呼ばれた相互扶助の仕組みが「契約講」という閉鎖的な組織として残存している。この地域では、元禄時代17世紀の宿場町整備に際して伊里前契約会が結成され、三嶋神社大祭や山林管理を担っている。結婚した長男が参加する慣習だが、妻や分家の人々を対象とする契約講もある。

 伊里前小学校は、宮城県における歴史上の地震津波に対する予備知識があり、防災意識が高く、東北大震災に際しても、速やかな台地への避難に成功した。また、地元で最大の組織動員力を持つ伊里前契約会が、自主防災会を主導し、避難所運営に当たった。行政の支援が遅れる中で契約会は、ボランティアが急遽編成したレスキュー市民災害救援センターや、栗原市で自然体験学習を実践していた栗駒高原自然学校と同盟し、歌津中学校を拠点に、三者の協力体制が構築された。

 持続可能教育の先進地域である気仙沼市に刺激を受け、伊里前小学校でも、契約講をヒントに総合学習の授業が展開されたが、この経験が、被災後の避難所という「生きる力」の現場において、実践的に役立った。外部ボランティアとの協働による歌津の復興は、神社と学校…即ち信仰と教育から始まった。更に、伊里前小学校とボランティアの叡智が融合した自然体験学校が開かれ、動植物と触れ合い、民俗を学び、河川環境を保全し、気仙街道など津波からの退路を確保し、アンモナイト・ベレムナイトの化石を見付けるなど、その内容は自然から歴史文化まで総合的に網羅している。このように、契約講と他者の交流から「伝統の再創造」が実現した。一連の経験によって、子供時代の遊びが、危機対応能力を育む事が見直された。宮城県は三陸海岸の防潮堤復旧を計画し、伊里前も建設対象に含まれたが、これに対し、自然生態系と調和した遊水池などの代替案も提唱されている。

 受験・就職から企業に至るまで、自由主義市場経済は、法の支配に基づく競争社会を大前提にしており、努力や切磋琢磨が、市民・地方・国家の発展に寄与する事は否定できないだろう。しかしながら、誰もが常に成功し、勝者や強者でいられるとは限らないし、人間の力を遥かに上回る自然災害は、今後も必ず発生すると予測される。そこで、地域における互助の絆が、その重要性を再認識される事になる。

風土に根ざした「内発的発展論」の意義

 地形・気候などの風土を理解した上で、人間を含む生命の居住を捉える考えは、人為的国境を持つ米国でも、生命地域主義(Bioregionalism)として提唱されている。地球世界と私達の未来には、我が国の先駆的な公害教育と、持続可能性概念の展開を踏まえ、社会的包摂や経済成長の視座をも調和させた、新しい環境倫理と教育の必要性が指摘されている。

 星槎大学での議論は、持続可能な発展をめぐる様々な課題を明らかにした。例えば、台風などの水害が多い日本列島において、ダムや堤防をどこまで建設すべきか問われる。昨秋の台風では、試験運用中のダムが空いていたので、一定の役割を果たしたが、本来ならばダムは貯水しており、常に期待できる機能ではない。大規模堤防を造っても、支流の被災まで防げるわけではない。江戸時代には、水辺に桜を植樹し、人足で土を固める「桜堤」の発想があった。コンクリートへの依存は最低限に抑え、緑地の遊水機能を充分に活用する事が望まれる。

 市場経済がグローバル化する中、一人ひとりが主体的に生きる上で、地域社会における共同体の役割が注目され、日本の結・講もこれに当たる。但し、例えば日本史教科書で江戸時代の「結」を調べると、同じ段落に「村八分」「五人組」という用語もあり、助け合いだけでなく、村民を束縛する役割を担った側面も否定できない。現在も男性優位や長子相続の慣習が残り、近代的な自由・平等の観念と摩擦する場合もある。そこで、歴史・伝統を保守しつつ、必要な部分を改革する柔軟な姿勢が求められる。家という概念も、個々人が自らの可能性を創発できる形で、本来あるべき姿として存在するのが望ましい。

 均一的なグローバル化に対抗せんとする側も、インターネットに代表される大企業などの経営・広報戦術を参考にし、それを自分達に相応しい形で活用する事が考えられる。少子高齢化は、持続可能性を困難にする課題と捉えられる事が多いが、高齢者の方々が訪れ続ける事で、地域として持続している事例もあるので、必ずしも悲観だけではない。また、地域の内発的発展に際して、その場所における「祈り」即ち信仰が重要な役割を果たしているのは、ともすれば唯物的な科学技術しか見ようとしない視野を広げてくれる。

 大学での議論には、カジノ誘致が検討されている横浜のほかにも、相模湾・江ノ島で知られる藤沢、憲法ワークショップが取り組まれている町田、そして見沼という自然学習の舞台を擁する埼玉川口など、様々な地域の方々が参加し、それぞれの課題が提示された。神奈川県では、水質汚濁や水害の問題を抱えて来た、鶴見川での流域教育を実践した事例もある。

 それでは、西部の多摩丘陵を除く大半が宅地化している東京では、持続可能な内発的発展の模索は困難なのだろうか? 幸いにも『東京の自然史』に詳述されているように、武蔵野台地(山手台地・下町低地)という地形をキーワードに、コンクリートの下に隠された自然を考察する事ができる。筆者の郷土である大森・蒲田(合併して「大田区」と略称される)は、武蔵野の中でも下末吉面・荏原台という地形に分類され、特に大森(写真参照)では、洪積台地の大森貝塚池上本門寺や、沖積低地にある呑川馬込の谷を把握する事ができる。大森貝塚と言えば、日本考古学を開花させた縄文時代の遺跡であり、往時の照葉樹林は今も本門寺周辺に保全されている。更に本門寺の隣では近年、弥生・大和時代の「堤方権現台古墳」が発掘され整備されている。このように、東京の地元でも風土の再発見は可能であり、寺社・同窓会・町興しなどが活動しており、筆者も参加経験がある。このような所から、内発的発展共育を実践したいと思う。

◆ 杉谷隆・平井幸弘・松本淳『風景のなかの自然地理 改訂版』(古今書院2005)

◆ 貝塚爽平『東京の自然史』(講談社2011)

◆ 中俣均・近藤章夫・片岡義晴・小原丈明・伊藤達也・米家志乃布『人文地理学概論』(法政大学2014)

◆ 岩佐礼子『地域力の再発見 内発的発展論からの教育再考』(藤原書店2015)

◆ 上野和彦・椿真智子・中村康子『地理学概論』(朝倉書店2015)

◆ 坪内俊憲・保屋野初子・鬼頭秀一『共生科学概説 人と自然が共生する未来を創る』(星槎大学出版会2018)

 ありがとう御座いました。

2020/02/16

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登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

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