水環境論 ヨーロッパの河川

文字数 4,515文字

水環境論

ヨーロッパの河川

 本稿では、保屋野初子2003)氏の著作を拝読しながら、河川などの水環境問題を考察します。特に、ドイツ・ネーデルラントのライン川、オーストリアのドナウ川など、ヨーロッパ大陸の河川と、それに対する各国の政策の変遷を要約します。

ネーデルラント

 ネーデルラント王国(オランダ)は、16世紀に連邦共和国としてイスパニア王国スペインから独立したが、領土の大半がライン川などの三角洲で、平均海面より低い地域もある。国名「ネーデルラント」自体が「低地」を意味し、建国以前から堤防が築かれ、やがてポルダーと呼ばれる干拓システムを導入して現代に至る、まさに治水の国である。

 アルプス山脈スイスから流下したライン川は、ロッテルダム南方のハリングフリート湾で北海に注ぎ、淡水と海水が混合する汽水域を形成していたが、1953年の高潮大水害を機に、治水・利水のため河口堰が計画され、1970年に水門を閉鎖した。これにより、かつてのような高潮被害は発生しなくなった。しかしその一方で、汽水域を消滅させた結果、ハリングフリート湾やビースボス湿地帯の自然生態系景観は大きな打撃を受けた。また、水の運動が停止した事で、地盤沈下や水質汚濁が発生し、特に後者は深刻な問題と化した。

 1980年以降、ビースボス湿地帯の生態系回復と、治水・利水の両立を議論した結果、水門を漸進的に開放する潮汐調節案が採用され、2000年に合意した。多様な住民参加による、統合的アプローチで持続可能な開発を目指し、直接民主制を取り入れた合意形成は、ネーデルラントが社会経済改革でも実践したモデルとして注目された。江戸時代の日本にも、河川の上流・下流で利害対立が生じた際に、試行錯誤で妥協点を見出す伝統的智慧があったと指摘されている。

 ネーデルラントは、世界自然保護基金による「生きている川」運動の出発点であり、失われた河川生態系も復活できる事が示されている。ライン川などには多くの支流があり、余った農地を活用して、支流の河畔林を再生させている。このようにネーデルラントの事例は、水との共生を目指す転換点として把握される。

 千年前のネーデルラントは、広大な森林に覆われた三角洲であったが、長く農地開発を続けた結果、動植物の大半は二百年前に絶滅してしまった。河川の多面的な役割を評価し、史料・古地図などから「参照すべき自然状態」を推定し、その回復・再生が試みられている。1990年代の洪水を機に、ネーデルラントは「川に道を譲る」1996などの水管理政策を次々と打ち出した。生態系と洪水防止を両立させ、氾濫原の土地に対する利用規制を定めた。また、ネーデルラントにとって地球温暖化は国家存亡に関わる問題であるため、気候変動の影響が疑われるヨーロッパの大洪水を警戒し、最善の治水政策を摸索する意識が強い。その治水計画は、我が国の流域文化にも存在した「水害を受容する思想」と近い。

ライン川

 ライン川流域は、ヨーロッパ河川に始まる近代治水の主たる舞台である。アルプス山脈スイスからネーデルラント・北海まで、6国の領土を流れる国際河川であり、運河としての役割も担う。特に、スイス北西バーゼルからドイツ南西マインツまでの河岸段丘を流れる上流域「上ライン」は、欧州で最も集積した工業地帯であり、二百年に及ぶ大規模な河川改造が行われてきた。オーストリアのウィーン川のように、小川をコンクリートで3面護岸した、日本と同様の都市河川も存在する。

 ライン川のような国際河川の課題を考えるには、国境を越えた流域レベルの視野が重要である。ゆえにその河川管理は、欧州全体の自然環境・生態系を左右する。近代工学に基づく河川改修は、洪水防止などを目的としているが、もともと洪水の流路であった「氾濫原」に都市が進出し、特に下流域の洪水被害を増大させる皮肉な結果を招いた。生態系への影響でも、氾濫原の消滅は甚大である。我が国に比べ、氾濫原平野への定住が進んでいなかった欧州では、氾濫原を原風景の「景観」と捉える意識が強く、絵画に描かれる事も多い。景観は、自然環境と人間の相互作用によって、歴史的に形成された地域である(日本語の「風土」に近いと思われる)。こうした自然景観を取り戻す思想が、河川再自然化を支えている。西洋の自然景観保護運動は、19世紀後半のアルプス山脈スイスに始まるが、河川再自然化の端緒は、ドイツ帝国で1904年に始まった郷土保護運動(ドイツ人の国民アイデンティティー形成と関連)であり、近代工業都市化で失われつつある景観の多面的機能を評価し、風景を自然資源として国有化する事で保全を目指した。

 第一次大戦に敗れたドイツは、ベルサイユ条約1919でライン水利権をフランス共和国に譲渡し、上ラインに10基のダムが建設され、氾濫原を失い、洪水が激甚化した。州政府は、河川工学に生態学を取り入れた「統合ライン計画」を策定し、遊水地・堤防・水力発電所・ダムという4段構えの洪水調節を組み合わせた。浸水を遊水地に誘導して時間を稼ぐ「生態学的氾濫」は、氾濫原の再生にも貢献している。現代のドイツ法には、河川生態系への侵害行為を防止する「自然権」に近い思想が見られる。ヨーロッパ連合も、国境を越えた大陸レベルで水政策を統合する「水枠組み指令」2000を採択、翌年発効した。

ドナウ川

 オーストリア共和国がドナウ川のダム計画を中止し、ドナウ氾濫原国立公園を成立させた1980年代頃から、欧州各国で河川再自然化が始まった。背景には 、ダム建設と流路直線化が、ライン川などの洪水リスクを悪化させたという認識がある(生態学の発展と市民・学者の環境保護運動)。発電所も氾濫原生態系に影響を及ぼしており、フランスでは原発、独墺では水力発電所の問題が指摘されている。氾濫原は、河川と地下水を循環させ、生物多様性を育む自然界の結節点であり、洪水軽減の機能もある。

 ドナウ川の上流に位置するオーストリアは、氾濫原への建築を抑止する「新しい治水概念」を定めた。ミュンヘンやウィーンの近自然河川工法に対して、ドナウ氾濫原国立公園は再自然化を導入し、首都圏での生物多様性を実現した、欧州でも稀少な事例である。その森林管理は、放置による自然淘汰を重視し、都市の中に自然河川景観を取り戻すのが、オーストリアの政策である。ドナウ以外にも、多くの河川で「洪水予防と生態系保護との合体」が構想された。ドナウ河口三角洲などの国際流域では、冷戦終結後、東欧諸国も参加して保護プログラムを進めた。地下水・湧水を主たる飲料水源としている事もあり、地下水を含む水収支への関心が強い。ウィーン市においては、本流ドナウ川の運河機能を維持しつつ、氾濫原に新ドナウ水路を掘削し、洪水対策と自然環境保全も両立させた。

 欧州における河川政策の特徴として、世界自然保護基金などの非政府組織が積極的に関与する、住民参加の充実が挙げられる。我が国では1990年代、スイス連邦などの近自然河川工法を参考にした「多自然型河川工法」に基づく河川改修が試みられたが、再自然化には至らず、近年では「自然再生推進法」2002が注目された。

水環境問題

 以上のように、欧州の河川再自然化を見てきたが、その背景にある水環境問題は、共生科学概説でも言及された「三位一体の環境」として捉える事ができる。 第一に、河川に対する過度の人工開発を抑制したほうが、住民の水害リスクを改善できる「社会的環境」。第二に、生物多様性を育む氾濫原などの再生によって、生態系の保全を実現する「自然的環境」。第三に、そうした自然との共生を実現する豊かな景観が、人間の心身に効用を与える「精神的環境」の領域と言えよう。
 また、そもそも西洋ヨーロッパ世界と言えば、ベーコンデカルトを輩出し、人類が力で自然をコントロールする思想の発祥地であり、鬼頭秀一氏が著述されているように、キリスト教ストア派哲学の人間中心主義と、それに対抗する環境主義どの倫理学史を擁している。欧州における水政策のパラダイム転換にも、人間社会の利益を留保しつつ、河川生態系の存在価値を強調する思想が見られる。特に、氾濫原を「手付かずのvirginな景観」と表現する認識(生態学的な原生自然よりヨーロッパ固有のアイデンティティーという社会的ニュアンス)には、原生自然を讃美する環境主義的な価値観(日本同様ヨーロッパに原生自然はほとんど残っていなかったが、自然美に傾倒するロマン主義思想を生み、米大陸に渡って自然保護思想に受け継がれた)が含まれていると思われる。但し私は、この見解に若干の違和感を覚えた。氾濫原生態研究所が論じているように、氾濫原は林業の生産適地であり、実際に人為的な植林や林業が行われていた河畔林も存在する。歴史的経緯にもよるが、過去にヒトが何らかの形で関与していたのであれば、それは原生自然と言うより「里地」に近く、そのような環境を自然淘汰として放置するのが望ましいのか、地域に応じた柔軟な対応が必要であろう。

 なお、本稿を執筆していた2020年7月に九州豪雨が発生し、本書でも言及されている熊本県球磨川が氾濫した。報道によると、熊本県知事と民主党政権によって川辺ダム計画は中止されたものの、代替となる田畑などを活用した治水対策が実現できなかったという(産経新聞2020/07/08)。公共事業ありきで代替案を作成できないという、本書で指摘されていた我が国の問題点が、改めて浮き彫りになったと言える。国土交通省も、ダムや堤防だけでは洪水を防げず、貯水池(遊水地)や避難体制を整える「流域治水」の方針を示している(同07/11)

 本書でも述べられているように、日本列島の河川流域では、水田・森林の生態系が氾濫原の役割を担っている。こうした点では、芝川低地の緑地、大宮台地の斜面林を極力維持し、調節池の整備によって、環境配慮型の治水を目指した埼玉県見沼の事例は、首都圏において注目されるべきであろう。もっとも、見沼でも水路のコンクリート護岸は行われているし、まして東京などでは、眼前に河川を臨む沖積平野にまで都市化が進出し、そこで職住を営む人々もおり、欧州のような再自然化を、どこまで導入できるかが論点になる。折しも先日の都知事選挙には、川辺ダム中止を決断した、当時の熊本県政に携わった立候補者も参戦していた。日本列島の河川・水環境と共生する上で、我々は何を為すべきか? そのためには私達自身が、課題に対する充分な知識を学び、対話する事が大切である。

参考文献


◆ 坪内俊憲・保屋野初子・鬼頭秀一『共生科学概説 人と自然が共生する未来を創る(星槎大学出版会2018/03/31)


◆ 保屋野初子『川とヨーロッパ 河川再自然化という思想(築地書館2003/03/15)


◆ 鬼頭秀一『自然保護を問いなおす 環境倫理とネットワーク(筑摩書房1996/05/20)


2020/07/13

敷地(しきち) (あきら)

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登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

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