寿能城 乱世に翻弄された見沼の砦

文字数 5,752文字

寿能城

乱世に翻弄された見沼の砦

 埼玉県南東部の見沼田圃は、江戸時代に開発される以前は広大な湖沼湿地であった。拙稿「文化景観としての見沼の形成に関する研究」において、埼玉県見沼の景観を正しく理解するためには、見沼田圃と呼ばれる芝川低地だけでなく、隣接する大宮台地の斜面(見沼台地)を含めた視点が必要であると述べた。そして台地の景観要素の一つとして氷川神社を取り上げ、同社が見沼における水の信仰と深く関わっている事を確認すると共に、見沼を含む地域を支配する政治権力とも密接な関係がある事を明らかにした。


 これらのほかに、見沼低地との関係性を想定しうる台地上の景観要素として、今回取り上げる寿能城がある。


 寿能城は潮田(うしおだ)資忠(すけただ)の居城で、氷川神社・大宮公園の北東に接する大宮区寿能町1・2丁目の東西約870m・南北約440mに広がり、標高13m、田圃から5~6m高い台地上に位置する平山城である。戦国時代末から桃山時代にかけて岩槻城の出城として機能した。大手・本丸・出丸の3箇所に分けられ、大手は現在の大宮北中学校本丸寿能公園周辺、出丸大宮第二公園西部に当たる。岩槻城と並ぶ埼玉市の有名な城址である。

築城―戦国期
 武州における戦乱の波は、見沼にも及んだ。1529(享禄二)年、吉野原[北区吉野町]で江戸太田氏関東管領山内上杉氏が、見沼低地を挟んで戦ったとされる(吉野原合戦)。

 1560(永禄三)年、太田資正(すけまさ)長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵に乗じて、後北条氏から松山城[東松山市]の奪還を企図した。同年、資正はこうした好戦気分を背景として、岩槻城の出城として寿能城を建設し、彼の子とされる潮田 出羽守 資忠を城主に任じた。藤木久志氏は、戦時に大宮一帯の民衆を保護する避難所として、このような広い城が必要とされたのではないかと述べている。

 名称の由来については、「洲の城」を意味するという説、元来の「神野原」(氷川神社の土地)という地名が「寿能原」に変わったとする説、城の安寧を願って縁起の良い漢字を当てたという説があり、はっきりしていない。
 城の立地する台地は東・南・北を見沼低地に囲まれた半島になっており、寿能城は「寿能の浮城」とも呼ばれた。このような地形は、敵軍が西側の大手門からしか侵入できない要害であると同時に、岩槻との連絡が取りにくいという弱点にもなった。

↑『戦国時代のさいたま』より引用

 出丸は半島状の台地から更に東に突き出ており、本丸よりは低く、湖面よりは高い微高地になっている。現在も見られる土地の起伏から、土塁が築かれていたと考えられる。本丸に建てられた物見(やぐら)からは、西側の状況だけでなく、南東の出丸と周囲に広がる広大な見沼低地を一望できたであろう。

↑物見櫓跡の墓碑前から東を臨む

 寿能城は見沼低地の北東約800m対岸の伊達城[見沼区大和田町]とも密接な関係を保ったと考えられ、北条氏の河越城と対峙する中世大宮の軍事拠点となった。潮田氏の勢力は大宮から桶川市河田郷辺りまで及んでいた。
 しかし、わずか数年後の1564(永禄七)年に太田氏は北条氏に降伏し、寿能城は北条に従う事になった。
落城―桃山期
 1590(天正十八)年、豊臣軍の小田原征伐が始まると、資忠は子の潮田資勝(すけかつ)と共に小田原城の籠城戦に参加し、4月18日に戦死した。蒲生氏郷羽柴秀勝との戦闘中の事と思われる。
 一方、城主不在の寿能城では、北沢宮内(くない)加藤大学などの僅かな家臣が奮戦した。だが、寿能城の性格は城と言うより砦であり、大軍相手に持ち堪える程の防衛設備は施されていなかった。そして5月の岩槻城陥落とほぼ同じ頃、寿能城も炎上し、大宮一帯は豊臣軍に制圧された。城内に居た後継の潮田資政は、宮内・加藤に助けられて常陸(茨城)に逃れ、ここに寿能城は一代30年で滅亡した。
 やがて、人々の間で「寿能の蛍」という伝承が語られるようになった。寿能城陥落後、見沼低地に投身自殺した領民達が、竜神の慈悲によってに転生した。ある夏の晩、小笛という少女がこの蛍を目撃し、現れた女性と会話する。真実を知った小笛は、村民と共に彼らを供養したという。
継承―事後
 蟄居刑に処せられた潮田遺臣は帰農し、大宮宿場町の中心人物になっていく。宮内は毎年、出丸の物見塚で資忠・資勝の慰霊祭を行った。城址の土地は江戸時代、大宮宿開発に貢献した北沢甚之丞に与えられ、彼によって新田が営まれた。江戸中期の1738(元文三)年、子孫の潮田資方が本丸の物見櫓跡と伝わる場所に墓碑を建てさせた。

↑墓碑

 その後、寿能城址は林地となっていたが、1926(大正十五)年に埼玉県名勝史蹟に指定された。しかし、第二次大戦で高射砲陣地に改造され荒廃する。
寿能城址を歩く
 現在、寿能城址の大半は市街地となっている。

↑『戦国時代のさいたま』より引用

 かつての大手門は現在の北中学校に比定されているが、具体的には、奇妙にも学校の正門付近と考えられている。
 出丸の微高地は大宮第二公園の一部となったが、本丸との境界に見沼代用水西縁が流れ、土塁に沿って道路が敷かれたため、地図や空中写真で容易に範囲を確認できる。宅地も進出してはいるが、土塁跡が残っている。寿能公園に向かう橋は「潮田橋」と呼ばれ、城主の名を今に伝えている。

↑寿能公園

 そして本丸の墓碑周辺0.387haは、1958(昭和三十三)年に寿能公園となって現在に至っている。開園式は潮田家の慰霊祭を兼ねて行われた。今、寿能公園を訪れて見ると、墓碑以外に城の面影を直接示す物は残っていない。しかし公園内に見られる段差や樹木は、斜面林の茂る台地に囲まれた見沼の歴史的景観を今に伝えている。山林的な立地は、史跡を目立たせる面では不都合だが、見沼田圃に接する景観としては、歴史的に自然な姿と言える。そしてこのような場所に建てられた寿能城もまた、当時の見沼低地と一体になった景観を形成していたのではないかと考えさせられる。

↑公園内部

考察
 当初の予定では、寿能城の本城である岩槻城についても取り上げたかったが、時間の制約で扱う事ができなかったので、参考文献として『岩槻城と城下町』を挙げるに留めておく。
 大宮第二公園では建設に際して寿能泥炭層遺跡が発掘され、縄文時代から平安時代の遺物が出土した。しかし寿能城に当たる区域での発掘調査は未だ行われておらず、地理学・文献史学的研究に対する考古学的検証が不可能な状況にある。今後の進展を待つほかない。
 今回の報告では、筆者が当初期待した、寿能城と見沼の関係性を充分に立証するには至らなかった。しかし以下に挙げる間接的な論拠をもとに、可能性を推測する事はできる。
寿能城と氷川神社
 私は前回の論文で「一宮氷川神社は、見沼を含む地域(足立・武州・関東)を支配する権力者に宗教的権威を与える役割を担ったのであり、国家レベルで喩えるならば天皇のような存在だったと言えるのではあるまいか」と述べ、丈部(はせつかべ)武蔵足立徳川各氏と氷川神社の関係に言及した。寿能城を通して大宮を支配した太田・潮田・北条も同様の文脈で捉えられるはずだが、ここで注目したいのは寿能城と氷川神社の地理的共通性である。
 寿能城の西方に位置する大宮公園は、元来氷川神社の境内であったから、かつて寿能城と氷川神社は隣接していた事になる。そして両者は共に、見沼田圃を見下ろす台地上に立地している。浦和市緑区の氷川女体神社も同様の台地上にあり、やはり見沼との関係が深い。もともと見沼低地自体が、竜神の居る神秘的な空間と信じられており、その岸に立地する建築物が神聖性を帯びるのは必然でもある。
 こうした点を踏まえると、当時の人々の空間イメージにおいて、寿能城がどのように位置付けられていたかを想像できる。湖上の船から寿能城を眺めると、すぐ横に氷川神社が見えたはずである。彼らの目には、氷川神社に並ばずとも劣らない存在として寿能城が映っても不思議ではない。その城主たる資忠公は、太田・北条に従う立場ではあったものの、見沼の地域制においては相応の位置にあったと考えられる。
 つまり寿能城の存在は、30年という短い期間ではあるものの、宗教的権威としての「社」と政治的権力としての「城」が並立ないし一体化した景観を、見沼史上初めて現出したのではないだろうか。そしてそれこそが、寿能城の建設地としてこの場所が選ばれた、地政学的要因と並ぶもう一つの理由ではないか。北条氏の埼玉支配を阻止したい太田氏にとって、武蔵国一宮たる氷川神社への接近は有力な一手と考えられたはずである。一方の氷川神社にとっては、境内のすぐ背後に迫る城は脅威だったかも知れない。1574(天正二)年には、祭祀用の樹木伐採をめぐって潮田氏と氷川神社の紛争が起きており、両者の緊張を窺わせる。
寿能の蛍
 もう一つ、寿能城と見沼を関連付けているのが、先述の「寿能の蛍」である。この伝承においては、生き残った寿能の人々が見沼低地に入水し、そこに竜神が登場する事によって、寿能城と見沼がストーリー的に結ばれている。伝承を信じる者にとって、寿能城と見沼は一体的な景観としてイメージされる。多くの人々に伝承が共有されていれば尚更である。
 私は前回の研究において、土着的な竜神信仰のある見沼に、大蛇退治の神である氷川神社が進出したにもかかわらず、両者は今に至るまで共存しているという事実を指摘した。この伝承からも似たような構図が見えて来る。潮田氏に従った人々は、死しても滅びる事はなく、蛍となって見沼を生きている。見沼には、神であれ人であれ、そして外来の者であれ、それらを水にまつわる信仰に取り入れ、新たな物語を紡いで行く力があるように思われる。
追記
 資忠公を主人公とした歴史小説「寿能城物語」(『武蔵国の物語Ⅱ』に収録)では、寿能の蛍が小笛にこう語っている。

 私は、むかし、ここにあった城の者です。戦に敗れ、男たちは討ち死にしました。女たちも、この城を守るために戦いましたが力尽きました。生き残った女や子供は、一人残らず城内の古井戸に身を投げて死にました。おびえる子供を抱いて死にました。そのとき、見沼の竜神様が哀れんで、私たちの姿を蛍に変えてくれたのです。蛍になった今も、好きな笛を吹きますが、それも蛍となって飛ぶ前のほんの一時です。私たちのことを誰かにお伝えしたいと思っても、この笛の音はどなたの耳にも届きませんでした。どうぞ、このような悲しい最期を遂げた者たちがここにいた、ということを、お心にとめてください。それだけでいいのです。

 本稿で私は、寿能城と氷川神社の関係についての自説を展開したが、その検証のみならず、寿能城と見沼の関係、更には広く寿能城についての研究が進み、一般の人々にも共有されて行く事を望む。そしてそれが、豊臣に討たれた資忠公を始めとする寿能武士と、あの城の落日に蛍となった人々への鎮魂歌となる事を願っている。
資料

◆ 敷地顕「文化景観としての見沼の形成に関する研究」2010

◆ 埼玉市立博物館・埼玉市立浦和博物館『戦国時代のさいたま 城と館からさぐる』2005

◆ 埼玉市立博物館『岩槻城と城下町』2005

◆ 飛田多恵子『武蔵国の物語Ⅱ』2003

◆ 大宮市立博物館『寿能城と戦国時代の大宮』1990

◆ 大宮市『大宮市史 古代・中世編』1971

2011/7/25【敷地 顕

國學院 文学部史学科 卒業論文

文化景観としての見沼の形成に関する研究

 近年、人間が自然に手を加えて形成した景観が「文化景観」として評価されるようになっている。地球上における自然と人為の空間的研究を任務とする地理学にとって、「景観」は古くて新しいテーマである。
 見沼は、首都圏において広大な自然が人間と関わりながら現代まで残されてきた貴重な文化景観である。しかし後述するように、見沼の文化景観については、学術レベルあるいは一般レベルにおいて、充分に検討し周知されていない部分が少なくないように思われる。また見沼は現地住民のみならず、首都圏の市民、また解釈によっては日本国民の誇りと言っても過言ではなく、その保全は同様の文脈において重要である。
 そこで本研究では、地理学に軸足を置きつつ、自然科学などの援護も得て、見沼の歴史的価値を明らかにする。具体的には、見沼を構成する個々の景観要素のレベルにおける考察を行う。そしてそれによって、見沼における景観保全の意義を導きたい。
 見沼には数多くの景観要素があるが、あえて選別するならば、低地上の「八丁堤」「見沼代用水」「見沼通船堀」と、台地上の「斜面林」「神社」という五つの景観要素が軸になっていると思われる。これらが歴史の中でどのような役割を演じてきたかを考える。次に見沼の低地・台地を一体的に保全する方策について、「見沼三原則」「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」などを参照しながら検討する。
 見沼田圃の歴史は現代に至るまで一貫してと深い関わりを持っており、「水と人の文化景観」が全体を通してのキーワードとなるであろう。
 これまでの見沼に関する文献は、当然と言えば当然だが、一般書と専門書のどちらかに偏りがちであった。見沼に興味を持つ人々の多くが一般書に手に取るであろうが、しかしその本当の魅力は専門的な研究を参照しなければ分からない。ゆえに広く歴史地理的空間としての見沼を対象としながら、各種研究成果を踏まえた、つまり一般性と専門性を兼ね備えた地誌が必要とされていると考える。
 本研究の目的を要約すると以下のようになる。

◆ 見沼とその景観要素の歴史的価値を検証する

◆ 見沼における文化景観の保全・再生を検証する

◆ 上記2点に基づく『見沼地誌』制作の可能性を模索する

 文中では数多くの先行研究を参照しているが、そのままの引用では頁数が多くなってしまうため、筆者による要約が施されている。先行研究の要約と筆者自身の考察の間には極力改行を入れ、区別し易いよう工夫したつもりではある。
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登場人物紹介

 地球研究会は、國學院高等学校地学部を母体とし、その部長を務めた卒業生らによって、2007(平成十九)年に「地球研究機構・國學院大学地球研究会」として創立された。

國學院大学においては、博物館見学や展示会、年2回(前期・後期)の会報誌制作など積極的な活動に尽力すると共に、従来の学生自治会を改革するべく、志を同じくする東方研究会政治研究会と連合して「自由学生会議」を結成していた。


 主たる参加者が國學院大学を卒業・離籍した後も、法政大学星槎大学など様々な舞台を踏破しながら、探究を継続している。

ここ「NOVEL DAYS」では、同人サークル「スライダーの会」が、地球研究会の投稿アカウントを兼任している。

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