九月の風

文字数 3,986文字

 



 九月の風は祭の終わりを告げる風。
 祭が熱ければ熱いほど、それが終わった後、心の隙間に吹き込む風は冷たく感じる。
 
 早紀は、両親に帰省の日取りをわざと三日遅く伝えた。
 どうしても会いたい人がいたのだ。

 早紀は大学三年生、小学生の頃二年ほどピアノを習ったのだが、中学生になると止めてしまった、クラシックにはあまり馴染めなかったのだ。
 だが、その経験は高校で生きた。
 中二の頃から興味を持ち始めたロック、高校で軽音部に入ると、すぐにキーボードプレイヤーとして引っ張りだこになった。
 そして三年後、東京の大学へ。
 そこでも、もちろん軽音部に入った。
 しかし、高校の時のようには行かなかった、早紀より上手いプレイヤーはざらにいたのだ。
 最初の学園祭までは『あぶれた』新入生ばかりのバンドで、サザンのコピーなどをやっていたが、本来、早紀はハードロック指向、学内最高峰と謳われていたEx.と言うバンドに憧れていた。
 Ex.は軸足をハードロックに置くが、アドリブでのソロや掛け合いにも重きを置く音楽性の高さが早紀を夢中にさせ、早紀はひそかにキーボードのアドリブをコピーするなどして練習していたのだ。
 
 その年の学園祭後、四年生は引退し、Ex.はリードギター、三年生の貴章が引き継いだ。
 抜けてしまったのはドラムスとキーボード、ドラムスは貴章に意中のドラマーがいてすぐに決まったが、キーボードはオーディションをすることになった、立候補した三人の中で腕前は早紀が一番下、しかし貴章が選んだのは、意外にも早紀だった。
 
「バンドのコーラスアレンジ、君がやっていたんだろう? Ex.にもコーラスを取り入れたいんだ、やってくれるよね?」
 
 Ex.はインストメンタル主体のバンド、ただ、ボーカルには弱みを抱えていた。
 学内二、三番手と目されていたバンドのボーカルが新生Ex.への参加に色気を見せていたのだが、貴章はEx.を自分のバンドにしたいと考えていた、目立つメインボーカルや極度に腕の立つキーボードはある意味邪魔だったのだ、そしてボーカルパートの弱さを補う方法としてコーラスの多用を考えていた、その思惑に一致するのが早紀だったのだ。
 
 曲作りやアレンジは貴章の担当、そしてコーラスアレンジは早紀、バンドとしての活動以外にも二人で顔を合わす機会が多くなるのは当然、そして偶然にも同郷である事がわかると、二人の仲は急速に接近して行き、直に自他共に認める恋人同士の間柄に発展して行った。
 
 貴章はプロ指向だった。
 ロックで、ギターで身を立てたいと願っていた。
 新生Ex.のコンビネーションが落ち着いてきた新学期となると、ライブハウスに出演し、コンテストに出場し、レコード会社のオーディションも受けた。
 就職活動もままならない貴章の猛進ぶりに三年生のベーシストは音を上げてバンドを離れてしまっても、貴章は他のバンドから腕の立つベーシストを強引に引き抜いて挑戦を続けた。
 既に就職を決めていた四年生のドラマーも、貴章の挑戦にあまりにも頻繁に付き合わされることに不平を漏らす。
 そんな中、早紀はバンドの一員として、そして恋人として貴章を支えた。
 自身はプロになることなど考えてもいなかったし、それに挑戦する場に身をおいてすら、あまりに遠い目標のように思える。
 しかし、音楽を熱く語る貴章が好きだった。
 ギラギラと輝くその目が好きだった。
 強引に仲間を引っ張るガムシャラさが好きだった。
 そして、音楽を離れて過ごす二人の瞬間が好きだった、ふと見せる優しい瞳が好きだった、ベッドの中で全てを貪られる時、早紀は貴章に癒しを与えられることを幸せだと感じた。
 
 しかし、貴章の挑戦は実を結ぶことはなかった。
 ろくに就職活動をしていなかった貴章だが、小さな信用金庫の営業に職を見つけ、郷里へと帰って行った。
 まだまだ音楽への、プロへの熱い情熱を抱えたまま。
 そして早紀への想いも……。
 
 
 それから三ヶ月あまり。
 どうしても会いたい人と言うのは、もちろん貴章のことだ。
 貴章と早紀の郷里は、学生や社会人一年生の身で気楽に行き来できるほど東京から近くはない。
 毎日のように交わすメールで繋がってはいたが、会いたいという気持ちは抑えきれないほどに膨らんでいた。
 
 久しぶりに会う貴章。
 ローカル空港、貴章は満面の笑みで出迎えてくれたが、早紀は違和感を持たずにはいられなかった。
 
 メールの調子が変わって来ていることには気づいていた、しかし、学生時代の猪突猛進とも言うべき調子が長く続けられるものでないことも理解できる、社会人になってもバンド活動を続けているのだから、腰を落ち着けて音楽と向き合っているのだと思っていた。
 ギラギラした感じが少し薄れるのはむしろ貴章のためにも良いのでは? と思っていたが……目の前の貴章からはその頃の熱気が微塵も感じられない。
 レストランに落ち着いて昼食を共にしながら、近況などを報告しあう……。

 貴章が卒業した後、Ex.は受け継ぐ者がなく、自然消滅した。
 早紀とベーシストは残ったが、どちらもEx.を引き継ぐのは荷が重い、ベーシストは自分のバンドを結成し、早紀は請われるままによりポップで軽い調子のバンドに参加していた。
 そして、貴章。
 すっかり信用金庫の営業マンが板についていた。
 地元限定で見ても大きな金融機関ではない、中小企業や個人商店を地道に巡り、懇意になり、信用を勝ち取って取引先を開拓し、既存の取引先を逃さないように足を動かす。
 そういう仕事であることは知っていた、しかし、瞳の光はおろか、顔つきまですっかり柔和になっている。
 しばらく話していても音楽のおの字、ロックのロの字も出てこない。
 
 思い切って音楽のことを訊いてみる、『夢はまだ捨てていないよ』、貴章はそう口にしたものの、それを掴み取ろうとしているようには見えなかった……。


 夕刻、貴章が参加しているバンドがライブハウスに出演しているのを聴きに行った。
 会場の雰囲気からして違和感を感じていたが、演奏が始まると違和感は脱力感に変わった。
 貴章の軽妙なおしゃべりを交えて和気藹々と進行するステージ、ロック調のフォークソング、あるいはポップスとも言うべき音楽、ご当地ソングまで交えてオーディエンスを楽しませてはいるが、Ex.を率いていた頃の情熱はそこにはなく、触れただけで血が出そうな緊張感もない。
 メンバーは全員信用金庫の先輩たちだと言う、貴章のギターテクニックはその中では光ってはいたが、まぶしいほどの輝きは消え失せていた。

 ライブの後、貴章のアパートへ行き、かつてのようにベッドを共にした。
 貴章は変わらず情熱的に早紀を愛してくれたし、早紀の体も貴章を覚えていてその情熱に応えた、しかし、早紀の心には冷たい風が吹き込むばかりだった……。

 翌日は日曜で貴章も休日、一日デートを楽しんで、もう一晩貴章のアパートに泊まる予定だったが、早紀は夕刻の電車に乗り込んで貴章に別れを告げた。
「また来てくれよな」
 貴章はそう言った、その言葉に嘘はないと思う。
「うん」
 早紀はそう答えたが、その時、もう貴章は早紀にとって特別な存在ではなくなっていた。
 
 実家には明日の昼頃着くと伝えてある。
 早紀は途中下車して安っぽいビジネスホテルに部屋を取った。
 とにかく独りになりたかった……。

 貴章に落ち度はない、学生時代音楽に入れ込んでプロを目指したが、夢叶わず、郷里で就職し、音楽は趣味で続けながら地道に働いている、それは至極真っ当な生き方だ。
 そして、早紀への想いは今も持ち続けてくれていて、不実な部分もない。
 貴章は何も悪くない……でも、早紀が狂おしいほどに愛した人はもうそこにはいなかった。

 涙は流さなかった……悲しい思い、辛い思いをしたわけでも、させられたわけでもないのだから。
 独りになりたかったのは、自分の気持ちにけじめをつけたかっただけ……貴章には申し訳なく思う、彼は何も悪くないのだから……しかし、まだ二十歳の早紀には、自分の気持ちに嘘はつけなかった、自分の気持ちを押し込めて自分自身を納得させることは出来なかった……。

 翌朝、安ホテルの殺風景な部屋で目覚めた早紀は、貴章からのメールに返事を打つこともなく電車に乗って実家に向かった。

 祭が熱ければ熱いほど、人波が去った会場に吹く風は冷たい。
 
 早紀は自分でもわかっていた。
 もう、あんなに熱い恋をすることはないだろう、音楽に打ち込むこともないだろう。
 ほどほどに恋をし、ほどほどに音楽を楽しみ、ほどほどの幸せを求めて結婚するのだろう。
 それは、Ex.を背負うことを避けた時に薄々わかっていたことだ。
 それなのに貴章には、熱に浮かされるように突っ走った頃の熱意を求めて、彼がそれを失っていたからと言うだけの理由で別離を心に決めている。
 それは貴章との別離なのか、自分自身との別離なのか……。

 そう、あれは祭だったのだ、そして祭は終わった……。
 開け放した車窓からは、祭の熱気を連れ去る風が吹き込んでいた。

 貴章からのメール、そこには早紀への想いが記されていた。
 優しく、暖かな調子で……。
 それを何度も読み返し、早紀も文字を打ち込んだ。

(いままでありがとう、そして、ごめんなさい……)

 そう打ったメールを、散々迷った末に送信した時、一粒だけ涙が頬を伝わった。
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