生涯勉強 前編

文字数 3,056文字



「こら、寺を下着姿でうろつくんじゃない」
「だって暑いんだもん、庫裏でならいいでしょ? 本堂とかをこの格好でうろついたりはしないわよ」
「お前なぁ、庫裏と言えども寺の一部なんだぞ、それにそんな恰好でいるところを檀家に見られたら誤解されるだろうが」
「あら、誰か来る予定があるの?」
「いや、そう言うわけじゃ……」
「いきなり庫裏には来ないでしょ? 本堂の入り口にピンポンだってあるんだもん、大丈夫、その時はちゃんと着て応対するから」

 全く……暖簾に腕押しとはこのことだ、何を言ってもそれが「悪いこと」だとは思っていないので気に掛ける様子はない。
 もっとも、裏を返せば、章子は章子なりの行動規範を明確に持っていて、それに沿った行動をとっているだけ、もっと言えば自分の行動規範に背くようなことはしないことも信用できる。
(淑子に似て来たものだな……)
 章栄は頬が緩むのを禁じ得なかった。
 そもそも、娘の下着姿が眼福であることも否めないし……。

 中村章栄・戸籍名中村章は住職の家系に生まれついたわけではない、大学の経済部を卒業して商社に勤めたものの、何事も金、金、金の仕事に嫌気がさし、学閥を基本とした人脈の中で昇進を目指すばかりの人間関係にも閉口した。
 学閥が最優先されるならば、章栄が卒業した大学は会社では少数派、学内ではトップに近い成績を収めていたので一流商社に就職はできたが、昇進の上限とスピードは見えているようなもの、何事も利益優先で社会への悪影響も顧みない体質に疑問を持ったところで、ある程度昇進しないことには改善の声を上げることすらできない。
 激務をものともしない体力には自信があったが、精神的に持たないと考え、彼は会社を辞めた。
 それから一年ほどニートを決め込んでいたが、その時に図書館で借りた本で出会った仏教に魅せられ、自分から比叡山の門を叩いた。
 だが、ほとんどの寺は世襲で住職が決まる、そこにもいささか幻滅を感じたが、この村に住職を失って荒れ果てていた寺を見つけて再興し、住職に収まったのだ。
 片付けや清掃は自分でやったし、素人の工作で済ませられる部分は自分でやった。
 初めは『酔狂なこった』と冷ややかに見ていた村人も手伝ってくれ、そう多くはないがカンパも集まった。
 
 後に妻となる淑子はその時に積極的に手伝ってくれた村の娘だった。
 淑子の「淑」は淑女の淑だが、実際の淑子はあけっぴろげな娘だった。
 どちらかと言うと自分に厳格で融通の利かない性質の章栄はそんな淑子に惹かれ、淑子の方でも自分とは正反対のようでいて通じるところのある章栄に惹かれ、二人は結婚してほどなく章子が生まれた。
 だが、淑子は五年前にがんを患って他界してしまい、今はこの庫裏に父娘二人暮らしをしている。

 そんな章子が昨年、彼氏を連れて来た。
 名前を山本勉と言い、何と東大経済学部金融学科を卒業した銀行マンだと言う。
 この寺を再建する時、かなりの借金を背負ったが、なにぶん田舎の山寺、細々としか返せないし滞ることもある、そんな時は章栄が出向いて頭を下げるのだが、普段の出し入れは章子に頼むことが多い、そこで知り合ったらしい。

 会ってみると中々の変わり者だった。
 そもそも、章栄が思うに、東大に合格するほどならば、小さい頃からガリ勉だったのではないかと思うのだが、そうでもないらしい。
 本を読むのは小さい頃から好きで、自然と勉強ができるようになり、ごく当たり前の公立小学校と中学校を卒業すると、県内トップの公立高校に『なんとなく』合格してしまい、『普通に』勉強していたら高二の模試で東大合格圏内の成績を収め、『面白そうだから挑戦してみるか』と一年間試験勉強に集中したら受かってしまったのだそうだ。
 羨ましいほどの地頭の持ち主であることは間違いない。
 東大での成績は低空飛行を続けていたそうだが、何とか留年することもなく卒業し、別段これと言って就きたい職業もなかったので銀行に勤め、『東京は何となく性に合わない』から地元の支店に配属を願い出て勤めているのだと言う。
 普通に考えて、支店長くらいにはすぐなれそうなものだが、それにも興味はないと言う。
 そんな風に飄々と生きて来た性格が、あけっぴろげな章子と波長が合ったらしい。

 だが……。
 章子には悪いが、一人娘を嫁に出すことは出来ない、この寺を存続して行くためには婿に入ってもらうしかない、だから相手は僧侶でないと困る、それも世襲する寺を持っていない僧侶でないと。
 なんとなく政略結婚のようだが、今やこの寺は村にはなくてはならないもの、村の為、寺の為にはそうしてもらう外には……。

「ああ、婿入りしても良いですよ、どうせ次男ですし」
 二度目に寺を訪れた時、勉はこともなげに言った。
「銀行の仕事もちょっと底が見えて来ました、金融学のほんの初歩しか必要ありませんし、別に僕がいなくても銀行はちゃんと続いて行きますしね、何かを変えようと思っても血の巡りが悪くて遅々として進みませんし……」
 そこまで言うと、彼は居住まいを正した。
「婿入りの条件を受け入れれば、章子さんと結婚させていただけますか?」

 う~ん、まあ、変わり者だが章子とは波長が合うみたいだし……悪い人間でないことは間違いないようだから……。
 しかし……。
「僧侶になる覚悟はあるのか?」
 そこも婿入りと同じくらい大事な条件なのだ。
「あります」
 またあっさりした答え。
「修行が必要なんだが……」
「ああ、そのことなら知ってます、比叡山に登り、天台僧としての基礎的な教義や儀式作法を習得して、前行(ぜんぎょう)と四度加行(しどけぎょう)という密教修行を中心とした行を履修することが必要なんですよね、でもそれだけじゃ不充分でしょう? 入壇灌頂(にゅうだんかんじょう)、開壇伝法(かいだんでんぽう)、円頓受戒(えんどんじゅかい)、広学豎義(こうがくりゅうぎ)なども修めないといけませんよね」
 まあ、すらすらと……。
「どこでそれを?」
「今時、ネットを見ればそれくらいは簡単に調べられます、それぞれの行に関しては専門書を読みました」
「それで?」
「興味を持ちました、金を相手にするより人間を相手にする方がずっと面白いです、仏教書も何冊か読みましたが、深いですね……仏門に入れば一生勉強ですよね、その方が金勘定してるより間違いなく性に合ってます、教養課程の頃に読んでおけば良かったですよ、そしたら東洋思想史とかインド哲学を専攻したんですけどね」
 ひょっとしたらこの男、仏教界に新風を吹き込むことになるかも……。
 そんな男になら章子をやることもやぶさかではない。

 そんなわけで、今、章栄と章子は勉が比叡山での修行から帰るのを待っているところだ。
 僧侶となって帰ってくれば、章子の婿として、後継者として迎え入れることになっている。

「あ~、やっと汗が引いたわ」
 扇風機を抱え込んでいた章子が洋服を取りに広縁を歩いて行く。
 その後ろ姿を、章栄はチラチラと盗み見た。
(この眺めもそのうちに見納めになるかもな)
 そう思った章栄は自分の頭をぴしゃりと叩いて苦笑した。
(わしもまだ修行が足りないとみえる……僧侶は生涯修行、生涯勉強だぞ……)


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