失われた半生をもう一度

文字数 4,546文字



「由紀ちゃん!?」
 脳外科医の佐々木和男は、交通事故に遭って緊急搬送されて来た患者に見覚えがあった。
 ストレッチャーに横たえられているのは佐々木由紀……和男と姓が同じなのは偶然ではない、由紀は一年前に大学進学のために秋田から上京して来た長兄の娘、つまり姪なのだ。
 驚きで一瞬頭の中が真っ白になったが、ベテランの婦長が付いていてくれて助かった、和男が我に返るのを一瞬待ってから患者の状態を説明し始めてくれたのだ。 おかげで和男はその情報を一つも聞き漏らすまいと神経を集中することができた。
 だが、由紀は正直かなり危険な状態だった、

 由紀が十八歳で上京して来た時、和男は三十五歳、脳外科医として脂が乗って来る時期を迎えていた。
 和男は妻帯していない、別に女性に興味がないわけではなく、特にイケメンと言うほどではないがルックスもまずまず、そして医師と言う社会的に重要な職にあり収入も充分、実際、交際した女性はそこそこいるのだが結婚までは辿り着けなかった、あえて理由を挙げるとすれば医師としての仕事、使命に重きを置き過ぎたことくらいだろうか。
 実家は農家だったから兄は後継ぎ、流石に完全同居と言うわけではなく母屋の隣に一軒家を建てて暮らしていたが、義姉も農家の出で家事にせよ農作業にせよ母屋の方で過ごしている時間は長かった、それゆえに由紀も生まれた時から知っていたし、学生時代帰省した時はよく一緒に遊んでやった、由紀も『叔父さん、叔父さん』と慕ってくれた。
 そして由紀が上京してからも月に一度は会って食事などを共にしてきた、長兄からも『よろしく頼む』と言われていて、いわば東京での父親代わりと言った関係だ、頭から血を流して青白い顔をしていても見まがうはずもない、自分の娘のようにとまでは言わないまでも身内の子供として可愛がってきたし、二人きりで会えば普段は封印している方言やイントネーションも解禁出来て心休まる、そしてこのところの由紀には女性としての魅力も備わって来て、月に一度の『デート』を楽しみにしていたくらいだ。
 医師として患者に優劣はつけない、だがいつもよりも気持ちを込めて手術に当たったことは否めない、だがそれは人間として当然のことだろうと思う。

 一時は生命さえも危ぶまれる状態だったが、幸い手術は成功してその危険は去った、だが脳は現代の医学をもってしても未知の領域が多い臓器だ、危険を取り去ることはできるがその結果完全に元通りになるかと言えばそれはわからない。

 そしてその危惧は現実のものとなってしまった。
 
 逆行性健忘症……頭部の損傷や心理的負荷によってそれは起こる、由紀の場合は前者だ。
 症状は発症以前の記憶が失われること、その期間は数日の場合もあるし自分が誰だかも思い出せない場合もある。
 思い出せるようになるまでの期間も様々、数日間の場合もあるが一生元に戻らない場合もある、そして脳に長い間蓄積されていた古い記憶ほど失われにくい。

 由紀の場合はかなり症状が重かった、麻酔から目覚めた由紀は記憶をかなり失っていたのだ、元々は聡明で頑張り屋な娘でかなり名の通った大学に通っていたが、そこに至るまでの、そしてそこで学んだはずの事の大半は失われていた。
 報せを受けて秋田から駆け付けた両親や祖父母、兄弟が誰であるのかはわかるし名前も思い出せる、和男のこともちゃんと認識できたが、何故白衣を着ているのかまではわからないようだった。
 
 傷が回復するまで母親が東京に残り由紀の身の回りの世話を焼くことになった、そして無理のない範囲でどれくらいの期間の記憶が失われているのか探った。
 結果、確実に憶えているのは就学前、つまり幼稚園時代まで、その後の記憶は曖昧だったり割と鮮明だったりして一定しない、強く印象に残っていること、強い興味を持ったことは憶えているがそうでないことは失われていた。
 記憶が失われた期間が短い場合は数日で記憶が戻る場合もある、しかしここまで長い期間の記憶が失われていると言うことは一生戻らないことも考えられる、と言うよりその可能性が高いと判断せざるを得ない。
 由紀が由紀でなくなってしまったとは言わない、だが一瞬の事故が、由紀が積み重ねて来た十四~五年分の知識と経験を奪ってしまったのだ。
 幼稚園児並みの知識と経験は残っているので生活にはそう困ることはないものの、聡明で頭の回転が速く、大学で専門にしていた日本文学の豊富な知識を持つ由紀を知っていて、その由紀との会話を楽しんでいた和男にとってはそんな由紀を見るのは辛かった。
 ただ、由紀がそのことをあまり気に病んでいない様子なのは救いだった、自分がどんな子供時代、青春時代を過ごして来たのか、何を学んで来たのかを憶えていないのでそれを『失った』とは感じていないようなのだ。
 そしてもう一つの救いは、今、ものすごい勢いで記憶の失われた分を学び直していることだ。
 五~六歳児並みの記憶しか残らなかったと言っても、二十歳の頭脳を持つ由紀が新しい事を学ぶ速さは幼稚園児とは比べ物にならない、ある意味、新しい人生を歩み直しているかのようだ……。
 
 傷が癒えると、由紀の父親、つまり和男の兄は大学に休学届を出し、由紀を秋田に連れて帰った、そうする他はないしそれが由紀にとっても最も良いことだろう、和男もその判断に賛成だった。

▽   ▽   ▽   ▽  ▽   ▽   ▽   ▽

 そしてその年の暮、和男は一年ぶりに帰省した。
 その年の盆は由紀のことで実家も手一杯、兄や両親にも東京で会っていたので帰省しなかったのだ。

 約半年ぶりに見る由紀は見違えるように元気になっているように見えた。
 入院していた頃はまだ事故のショックも抜けきらずに少し生気が感じられない、ぼうっとしているような様子だった、和男は回復するにつれて記憶を失っていることに新たなショックを受けるのではないかと心配し、兄にも時折連絡をしていた。
 兄はその様子はないと言っていたが顔を見るまでは安心できなかったのだ。
 だが由紀は以前と変わらず快活な様子だった。
 もちろん、事故に遭う前の聡明な感じは戻っていない、しかし、前向きな様子もうかがえる、和男はずいぶんとほっとした。

「その後どう?」
 医師としては後遺症など出ていないかと言う意味の質問、叔父としては心の状態を心配しての質問だったのだが。
「うん、別に何ともない、叔父さんが手術して助けてくれたんでしょう? ありがとう」
 由紀は体の状態だけを答えた、記憶を失ったことをどう思っているのか、それをストレートに聞くわけにも行かない。
「久しぶりにデートしようか、どこか行きたいところない?」
「う~ん、映画が見たいかな」
 由紀が口にした映画はお正月向けに封切られたばかりの娯楽作品だったが、子供向けの物でないことには少しほっとした。
「いいよ、その映画は僕も見たかったんだ、帰りに何か美味しいものでも食べよう」
 そう言って由紀を連れ出した。

「今年はちょっと雪が遅いんだって、お父さんがそう言ってた、これからもっともっと積もるんだよね」
 この十五年ほどのことは憶えていないのだから、積雪が早いか遅いかわからないのは当然、それを憶えていないことは自然に受け入れているようだ、だが冬にはたくさんの雪が降るということは憶えていた。
「そうだね、今年は雪が遅いみたいだ」
 和男は何と言っていいかわからずに、意味もなく繰り返した。
「あ……降り出した……」
 由紀が不意にしゃがみこんで雪を掌に受けた……そして……ぽつりぽつりと話し始めた。
「あのね、記憶がなくなっちゃったことに気が付いた時、すごくショックだった、あたしって誰なんだろうって思ったよ……今のあたしって体は二十歳でも頭の中はまだ子供なんだもん、友達とかと会っても誰だか思い出せなかったりするし、誰だかわかってもその友達と何をして来たか、どんな話をして来たか思い出せないの、あたしだけ十五年前に戻っちゃったみたいで……それってすごく悲しいし寂しかった……でもね、そんなことをお父さんやお母さんには言えないとも思ったの、あたしの事すごく心配してくれてるのわかってたから……だから一生懸命明るくふるまって来たの、悲しそうな顔は見せちゃいけないと感じたから……」
 やはり和男の心配は当たっていた、聡明な娘だからこそ記憶を失ったことに対するショックは強かったのだ。
 だが、由紀はそれを隠した……それは思いやりの心を失っていなかった証拠だが、それを一人で抱え込むのは重すぎる……和男にだから話せたことなのだろう。
「辛かったね……でも、僕には話して良いんだよ、僕は医者だからね、由紀は僕の患者でもあるんだから」
「うん……ありがとう……たまに電話しても良い?」
「もちろんいいよ、電話番号は知っているだろう? すぐには電話に出られないかもしれないけど必ずこっちからかけ直してあげるから」
「うん……」
 話しているうちに雪はだんだんと強く降るようになって辺りの景色をけぶらせ始め、 和男には由紀だけがその中に浮き上がってくるように見えた。
 それまで掌に落ちる雪を見つめるようにして話していた由紀だったが、ふと顔を上げると、そこには悲し気な色は浮かんでいなかった。
「あのね、あたし文学部だったんでしょう? 今も本は読んでるよ、難しい漢字がたくさん出て来ると読めないからまだ子供向けの本だけどね、きっとあたし作家になりたかったんだと思う、そう心に決めていた気がするの、だからもう一度その夢を追いかけようと思ってるの」
「そうか、作家なら年齢とかあんまり関係ないしね」
「うん、なんかね、ちゃんと作家になりたいって思って子供時代からやり直せるのって、もしかしたらラッキーだったのかもしれないって思うの、だってもう学校には行かなくていいし、受験勉強もしなくていいんだから時間はたっぷりあるんだものね」
 その言葉を聞いて和男は胸につかえていたものがすっと抜けて行くような心持がした。
 記憶を失ったことは辛いことには違いない、だが、由紀はそれを前向きにとらえようとしているのだから。
 おそらく大人になって行く過程で失われて行ってしまう感性はある、普通はその感性が失われて行くことに気が付かない、しかし、その感性を大事に守りながら知識や経験を積み重ねて行けたら……作家になると言うのは簡単なことではないと思う、だが二十歳の能力を持ちながら手垢のついていない子供の心を持っている由紀にならできるのではないかと思う。
「そうだね、由紀は頑張り屋さんだからきっとなれるよ、作家に、僕も応援するよ」
「うん、ありがとう」
 そう言って微笑んだ由紀……子供のように屈託のない、しかし二十歳の娘としての知性も湛えたその微笑みは、降りしきる雪のように白くきらきらと輝いて見えた。

(終)


 

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