この馬鹿馬鹿しき、面白き人生

文字数 4,301文字

 
 

 私の名前は佐藤幸恵、ありきたりな名前だが、別の名前も持っている。
 今昔亭つば女(め)。
 私は女流噺家なのだ。

 噺家に学歴は関係ないが、実は東京大学を卒業した。
 噺家になったばかりの頃は『東大出の女流噺家』ともてはやされ、逆に東大出であること、女流であることばかりに注目されることが嫌で、わざと男名の『燕吉』を名乗っていた。
 師匠が二つ目時代に使っていた名前を貰ったので、それ自体出世名だが『芸は売っても色は売らない』深川芸者の心意気を気取っていた部分は確かにあった。
 二つ目に上がるのはすぐだった、大学で落研に所属し、学生名人のタイトルも取った私の芸は高く評価されたのだ、『真打に』と推す声がかかり始めるのも早かった、だが師匠はなかなか首を縦に振ってはくれなかった。
 そんな折、私も一人前に恋をしたのだが、その相手は結婚詐欺だった。
 中々真打にしてもらえない鬱憤が溜まっていた心の隙に付け込まれたのだろうが、私にとっては何を棄ててでも飛び込みたい恋だった。。
 だが、現実には彼が逮捕されて正体がわかり、私の一世一代の恋は終わった。
 そんな折、『三枚起請を演ってみな』と言われ、それを聞いた師匠は真打になることを許してくれた。
 それまでの私は、自分が女であることを無理に押し込めて、男性が大多数を占める落語界に喧嘩を売っていたようなところがあった、そして東大出をことさらに取り上げられることを嫌っていたくせに、自分の噺は完璧だと思い込んでいた……実際には登場人物のうわっつらをなぞっていただけだったのに……。
 だが、恋をし、それが破れたことで自分が女であることを自覚し、自分が結婚詐欺に引っかかりそうになったことで、人間の弱さ、愚かさを悟り、自分なりの噺と言うものが見えて来たのだ。
 師匠に真を打つことを許された時に『つば女』と改名した、女であることを否定せずに自然体で演じて行こうと心に決め、わざと『女』の一文字を入れたのだ。

 それから五年が経った。
 噺家としてのキャリアはまずまず順調だ、『燕吉』を名乗って突っ張っていた頃とは違う味を出せていると自分でも感じているし、客席の反応も上々だ。
 だが、女であることをむしろ意識した高座とは裏腹に、実生活ではとんと浮いた話がない。
 真打になる前の自分ならともかく、今は恋の訪れを拒むような気持はさらさらないのだが……。

 テーブルの上には編みかけのカーディガン。
 高校時代からの友人がもうすぐ二人目の子供を出産する、そのお祝いにと編んでいる物だ、もういつ生まれてもおかしくないので早く編み上げてしまいたい、そう思って少し根を詰めていた。

「ふう……」
 少し肩が張って来たのを感じ、熱いお茶を淹れて一息入れる。
 大学を出て真打になるまでに十年、それから五年……私は三十七歳になった。
 友人も有名私大を卒業後、商社に就職してバリバリと働いていたのだが、一人目の子供を産む時に産休を取り、そのまま会社を辞めて子育てに専念していた、そしてあまり間を置かずに二人目だ、おそらく彼女が社会復帰するのはだいぶ先になるだろう。

『子供を産んで育てるって、仕事の片手間に出来るようなことじゃないわ、どうしてもそうしないと暮らしが成り立たないんじゃ仕方ないけど、幸い主人の収入だけでも充分にやっていけるの、だから当分仕事する気はないわ、だって人一人を、それも自分のお腹を痛めた子供を大きくするのよ、それってビジネスなんかよりずっと複雑で難しいこと、そしてずっとやりがいのある楽しいことなの、私は今幸せよ』

 彼女がそう言うのを聞いて(愛する人の子供を産んで育てて行く喜びってどういうものなんだろう?)と思った。
 古典落語にも母親の愛情を扱ったものは多々ある、それがテーマではなくとも母親の愛情を描いたシーンはしばしば出て来る。
 それは想像で演じる他ないのだが、それを身をもって知ったら、もっと深みが出るだろうな、とも……。

 ふと、それを思い出して、私はちょっと苦笑した。
(女性が一生を賭けるに値する大事を落語に結び付けて考えるなんて……)
 そう思ったのだ。
 だが、芸はともかくとして、その喜びを知らずにいるのは、せっかく女として生まれて来たのに勿体ないな、とも思う。
 噺家は個人事業主、定年はない、体が続く限り、声が出る限り続けて行くことは出来る。
 子供を産んで育て上げてから復帰することも十分可能なのだ。
 だが……出産にはタイムリミットがある、生物学的に仕方がないことだ、いくら医療が進歩して高齢出産の危険は小さくなっていると言っても妊娠できなくなってからでは遅いのだ。
  
(ふふふ……相手もいないのにね……)
 そう思った時、あの結婚詐欺師の顔がふと浮かんで来た。
(馬鹿馬鹿しい……)
 そう思ったのだが、彼の顔はなかなか消えてくれなかった。

 彼を愛したのは確かな気持ちだったと今でも言える。
 彼が逮捕されて結婚詐欺師だとわかった時は目の前が真っ暗になった。
 騙されていたんだ、とわかったショックからばかりではない、彼を失ってしまうことが心底怖かったのだ。
 だが、彼が詐欺師であったことは紛れもない事実、ロクな男ではないことも……。

(……馬鹿馬鹿しい……よね……)
 そう自分に言い聞かせたが、別の考えも浮かんでくる。
(しょせん噺家の人生だもの、馬鹿馬鹿しくたって良いじゃない……)

 彼が捕まった時、色々と自問自答したことが思い出される。
 当時の自分は二つ目、それなりに人気はあったが収入は知れている、そんな私に近づいたのは何故? 詐欺を働くつもりなんかなかったんじゃ……。
 そう思いたかったが、その頃の私は噺家としてはまだまだでも、テレビや雑誌などで顔は売れていた、もっとお金を持っているに違いないと考えたのかも……そうも考えられる。
 そして真相は今塀の中にある……。
 
 手にしていた湯呑はいつの間にか空になっていた。
(そうよ……馬鹿馬鹿しい人生だった、でも面白かった、そう思えればそれは良い人生だったと言えるんじゃないかしら……)
 

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽


「鷲田、面会だ」
 俺の名は鷲田雄太郎、結婚詐欺を働いていた罪で服役している。
 詐欺師なら偽名を使うのは当たりまえだが、本名がかなり勇ましい感じなのでなるべく単純で記憶にも残りにくいだろうと言う理由で田中一郎と名乗っていた。
「面会? 誰です?」
「佐藤幸恵と言う女性だ」
 ドキリとした。

 佐藤幸恵……当時は今昔亭燕吉と名乗っていた女流落語家だ。
 バーで一人飲んでいる彼女を見かけた時、どこかで見た顔だなと思った、おそらくはテレビか雑誌で……そして彼女の様子がちょっと普通じゃない事にも興味を惹かれた。
 当時、真打になれる実力は充分なのになかなか師匠がそれを許してくれないことにいら立ちを募らせていたのだ。
 落語界のことにはあまり詳しくなかったので彼女について調べてみた。
 東大出身の女流、学生名人のタイトルを引っ提げて入門した当時はずいぶんと話題になって人気も高かったが、二つ目では大した収入はなく、入門時の騒ぎの後は彼女の意向もあってメディアにはあまり顔を出さなくなっていた。
 つまり大して金は持っていないと言うことだ、詐欺の相手としては適していない。
 だが、それがわかっても俺は姿をくらませたりしなかった、落語に打ち込む彼女に強く惹かれていたのだ。
 そして深入りし、どんどん惹かれて行くにつれて俺は苦しくなって行った。
 俺は彼女に相応しいような男じゃない。
 詐欺師も落語家も舌先三寸の世界、しかし隙だらけの女性を狙うだけの俺と、耳の肥えた好事家を唸らせる彼女とは月とすっぽんだ、ましていつ捕まるかわからないような詐欺師が彼女を幸せにできるはずもない……。
 以前に働いた詐欺の罪で手が後ろに回った時、俺はどこかホッとしていた。
 これで彼女と離れられる……詐欺師だったとわかれば彼女もきれいさっぱり俺のことなど忘れてくれるだろう……と。


「お久しぶりね」
「ああ……あの後すぐに真打になったんだな、塀の中じゃ君の噺を聴くこともできないが、高く評価されていることは知ってるよ」
「そう……」
「こんな詐欺師に、今さら何の用だい?」
「あの時の事……今なら冷静に聴いて判断できると思うの……あの時、私に近づいたのは何故?」
「バーで一人酔っぱらってる女性ってのは隙だらけだからね、心に何らかの隙間を抱えてそれを埋めてくれるものを探してることが多いものさ、それに君の顔には見覚えがあった、特に落語ファンでもない俺でも知ってたくらいだからかなり有名でしこたま稼いでいるんだろうとも思ったんだ……それだけさ」
「そうなの……わかった……私は本気だったのよ……」
「まあ、本気になってもらわないと詐欺は成功しないんでね」
「お金も地位もなかった私に近づくメリットって何だったんだろうと思って……それを確かめたかっただけ」
「そうか……でも、まあ、聞いての通りさ」
「わかったわ……会ってくれてありがとう」
「いや、囚人や看守以外の人間と話す機会はめったにないからね、俺も娑婆の空気に触れられて良かったよ」
「じゃあね」
「ああ、じゃあな」


 私は『さよなら』とは言わずに面会室を出た。
 彼の刑期がもうすぐ終わることは知っている。
 
 それを切りとるような高い塀に囲まれた刑務所の門を出ると、青空が果てしなく広がっていた。
(彼が出所する時、あたしはきっとここの門で出迎えるんだろうな)
 とも思った。
 彼の言葉に嘘があることを感じていたのだ。
 近づいて来た時の嘘とは逆のベクトルを持つ嘘が。
 出迎えることで大きく人生が変わって行くのか、ちょっとしたクスグリにしかならないのか、それはわからない。
 だが彼が自分の人生にかかわって来たことで、私は自分が自分で思うほど完璧な人間じゃないと悟った、女であることも身に沁みてわかった。
 結局、それが芸の肥やしになって今の自分がいる。
 完璧な人生なんてありえないし、全てが計画通りに進んだら面白くもなんともない、二つ目までの私の落語のようなものだ。
 落語に登場する人物は大抵どこか抜けているものだ、抜けたところがあるから面白い。
 完璧な人間などいない、だから完璧な人生などあり得ない、それだからこそ面白い。
 今の私にはそれがわかる、それが受け入れられる……。
 
(死ぬ時に『ああ、面白かった』と思えればいいのよ、人生なんて)
 そう思うと肩の力が抜けて、気持ちがこの青空のように広がって行くのを感じた……。
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