草枕

文字数 1,953文字



           2016.05 『草枕』


書店で『平積み』と言えば新刊本、話題の本と相場が決まっている。
 しかし、その書店には文庫コーナーに小さな平積みコーナーがある。
 僕はこの本屋に来れば、そのコーナーに立ち寄ってたいてい何か一冊買う。
 
 読書好きは自認しているが、古典と言うのはなかなか手に取る機会が少ない、タイトルと作者、あらすじや名台詞、名文くらいは知っていても、なかなか読むチャンスはないものだ。
 その点、このコーナーは興味深い。
 古典が平積みされていて、短い紹介文が添えられているのだ。
 店員の誰かが担当しているのだろうが、添えられた紹介文を頼りに買って、これまでに失敗したと思ったことはない、少なくともハズレはなかったのだ。
 考えてみれば古典として残っていると言うことは、突出した名著であると言うことに他ならない。
 現代の感覚では理解しにくいものも多いことは確かだが、要はとっつきにくいので投げ出してしまうことが多いというだけのこと。
 その点、ハズレはないと信用して買い、冒頭は少々とっつきにくくても、必ず面白くなると信じて読み進めれば、読んだだけの価値はある作品ばかりなのだ。

 今回の平積みの紹介文は。
(冒頭の『智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい』と言う冒頭部分は有名ですね)
 夏目漱石の『草枕』だ。
 漱石は『坊ちゃん』を読んで面白かった記憶もある、(ああ、あの台詞、この本だったのか)と思い、手に取った。
 丁度職場での人間関係に少しばかり悩んでいたのでしっくり来たのだ。


「カバーはおかけいたしますか?」
「あ、お願いします」
 レジを打ってくれた女性……。
 この本屋は一年前に開店したばかり、その当初からここで働いている。
 まあ、と言うことは僕も開店当初からの客と言うわけだが……。
 ちょくちょく来るから店員の顔はだいたい覚えているが、彼女はちょっと特別だ。
 知的な感じ、それでいて穏やかで柔らかい雰囲気は僕の理想とするところ。
 細過ぎず、柔らかな曲線を描く眉、そのすぐ下の知的好奇心に輝く瞳、ナチュラルなピンクの口紅をつけた、笑うと口角がきゅっと上がる唇……それらも全てドンピシャなのだ。

「いつも古典コーナーをご利用頂いて、ありがとうございます」
「え?……それじゃ、あのコーナーは貴女が?」
 彼女は小さく頷き、ピンクの口角がちょっとだけ上がった……。


 アパートに帰って『草枕』を開く。
『智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい』
 冒頭の一文は、どうしたって彼女を思い起こさせる。
(いつも……ってことは、彼女も僕の事を憶えてくれてたってことだよな……)
 そんな事を考え始めてしまうと、文字は全然頭の中に入ってこなかった……。


(ちょっと出かけてみるか……)
 次の日曜は初夏らしい爽やかな天気だった。
 読書と映画鑑賞くらいしか趣味らしい趣味がない僕だが、さすがにこの天気をアパートの中で無駄にするのはもったいない気がしたのだ。


「あ……」
「あら……」

 アパートから自転車で20分くらいの所にある大きな公園。
(せっかく公園に来て本を読もうってのは、我ながらどれだけインドア派なんだよ)
 と苦笑しながらも、『草枕』を手に歩いていると、彼女に出くわした。
 ちょっと使い込んだ感じの敷物に座って、やっぱり手には文庫本……。

「あの……何を読んでるんですか?」
「『枕草子』です……そちらは『草枕』ですか?」
「え、ええ……」

 何を買ったのかも憶えていてくれた……。

「よろしかったら」
 彼女はお尻をずらせて、敷物を進めてくれた。

 彼女いない歴もうすぐ30年……胸がどきどきしたが、こんなチャンスって滅多に巡って来る物じゃない。

「あ、どうも……それじゃ遠慮なく」
 香水でも化粧品の匂いでもなく……でも何だか良い匂い……。

「『枕』つながりですね」
「え? あ、そうか、『枕草子』と『草枕』……ホントだ、草まで一緒ですね」
「……あら、どうしよう、なんだかどきどきして来ちゃった……」
「ははは、全然モテないネクラ男ですよ」
「そんなこと……古典文学のお話ができる男性って、滅多にいないんですよ」
 彼女はそう言って、口角をちょっと上に……。


『草枕』は『旅』の枕詞。
 これが恋の旅路の始まりだったらこの上なく幸せなんだけどな……。

              (終)


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