手は口ほどにものを云い

文字数 6,447文字

 


僕はデスクに向かう幸恵の後ろから、少し屈むようにしてポンポンと肩を叩いた。
 幸恵とコミュニケーションを取ろうとする時はこうして少しかがむことにしている、立ったままだと何か威圧的になるような気がするのだ。
 幸恵が振り向くと、僕は書類の束に重ねたメモを見せ、片手で拝むようなポーズをとる。
 幸恵は書類にさっと目を通すと片手で胸をなでおろすようなしぐさをして見せた。
 拝むポースは【お願いします】、胸をなでおろすしぐさは【わかりました】。
 簡単な手話だ。
 そう、幸恵は生まれつき耳が聞こえない、従って喋ることも苦手だ。
 読唇術は身に着けているので人がしゃべることはある程度分かるらしいが、昨今のマスク環境の中では意味をなさなくなってしまっている。
 字を読むことは全く問題がなく論理的な思考もちゃんと身に着けているが、人が話している声を聴いたことがないので声に出して喋ることができないのだ。 
 いや、実は少しは喋れる、そういう訓練を受けたことはあるらしい。
 だが、正直言って何を言っているのかよくわからない、「わかりました」と言ったつもりでも「わあいまいあ」のようになってしまう、母音は唇の形で発音するが子音は舌を使うことが多いので難しいのだ、それが恥ずかしいらしく幸恵はほとんど言葉を発しない。
 顔立ちは癖がなく整っていて素直で大人しそうな印象、笑顔を振りまいていればおそらくはかなりモテるだろうと思うのだが、障害を気にしてかいつも少しオドオドした感じ、人に心を開くようなそぶりを見せることもあまりなく、ほとんど喋らないことでそっけない印象を与えてしまう。
 
 幸恵が入社してきてから経理部の人間はあいさつ程度の手話は覚えたが、業務にかかわる指示や報告まではできない、それらは筆談なり書面を使用することになる。
 幸恵に渡したメモには(この伝票を今日中にデータ化してもらえるかな?)と書いた。
 少し分量は多かったが幸恵ならできるだろうと踏んだのだ。
 
 幸恵は障害者雇用枠で採用した。
 ウチはあまり大きな会社ではなく、経理部のメンバーは部長の僕を除いて5人、そのうち2人は派遣社員だから正社員は3人、そのうちの1人が幸恵だ。
 はっきり言ってウチ程度の会社で障害者を雇用する義務を負うのはつらいのだが、幸恵はちゃんと戦力になる、と言うより他より仕事が早いくらいだ。
 雑音に惑わされることがなく作業に集中できる、と言うよりもずっと音のない世界で生きて来ているので自然に集中力が普通より高くなっているらしい。
 会話ができないので営業などはもちろん無理だが、対外的な仕事があまりない経理ならば充分務まる、社内、社外を問わず説明の必要があれば僕がその役を担えば良いだけのこと、幸恵の集中力はそれを補って余りある、今や経理部の戦力として欠かせないくらいだ。

 6時を少し回った頃、幸恵がデスクの前に来てメモを渡して来た。
(ご指示のデータ入力、終わりました、社内メールで転送済です)
「ああ、ありがとう、残業ご苦労様」
 幸恵に聞こえないのはわかっているが、僕はそう言いながら【ありがとう】を手話で伝えると、幸恵は笑みを浮かべて少々大げさなお辞儀をした、言葉を発しない分、幸恵は身振りを大きくして意思を伝えようとするのだ。
 それを見ると僕は思わず頬が緩んでしまう、僕はそんな幸恵のしぐさが可愛らしいと思っているのだ。
 いや、しぐさだけでなく容姿も好みのど真ん中だし、折り目正しい態度、控え目な性格、こまやかな心遣いができるところも好ましく思う……つまりちょっと惚れちゃってるわけだ。
 ただ、まだ20歳の幸恵に対して僕は35歳、独身で離婚歴もないが15歳の年齢差は気になるし、それだけ歳が離れている女性に惹かれることに気恥ずかしさがあり、少しばかり気後れもしている。

 誰にでも心を開くわけではないが、幸恵には親しくしている派遣社員が一人いる。
 それは48歳になる田辺さん、派遣としてウチに来て4年になる。
 彼女には大学4年になる一人娘がいて、高校生の時からボランティア部に所属し大学でもサークル活動で続けているらしい、その関係で彼女も手話に興味を持ちテレビ講座を録画して勉強しているそうで、日常会話から一歩踏み込んだあたりまで手話を使える。
 経理部の社員が挨拶程度の手話ができるのも彼女に教わったおかげ、そして幸恵とプライベートな会話を交わせるのは彼女だけなのだ。
 年齢的にもちょうど幸恵の母親くらいと言うこともあって、幸恵は田辺さんには身の上話などもするらしい。
 一度田辺さんに探りを入れたことはあるのだが。
「彼女、あんまりプライベートなことはおおっぴらにしたくないみたいですよ」
 そう言われてしまってはそれ以上突っ込んで聞くわけにも行かない。
 その状況を打開する方法がひとつある、そう、僕も手話ができるようになればいいのだ。
 実は通信教育の教材を取り寄せて勉強を始めている、まだまだ田辺さんには遠く及ばないが、田辺さんと手話で話しているのをチラチラと眺めているうちに幸恵のことは少しづつわかって来た。

 幸恵はごく普通のサラリーマン家庭に生まれた、幸恵と言う名前は『耳が聞こえなくとも幸せに恵まれるように』と言う両親の願いが込められていること。
 耳が聞こえないのは先天性のもので妊娠期間中の病気のせいらしい、母親は病弱で彼女が8歳の時に他界してしまっていて、今は父親と二人暮らしであること。
 父親はごく普通のサラリーマンで、貧しくも裕福でもない中流ど真ん中と言った暮らし向きであること。
 そして、僕にとって最も重要な情報。
 異性に対してはちょっとした憧れ程度の経験はあるが恋と呼ぶには程遠かったこと、そしてそれは今も同じだということ。
『今も同じ』と言うのは『憧れ程度の感情を抱いている異性はいる』と言うことなのか、まるで恋の気配もないと言うことなのか、僕の手話能力では良くわからなかった。

 幸恵が入社してから1年後、田辺さんが辞めることになった、旦那さんが地方の関連会社に出向になったのだ。 
 娘さんも社会人となり自活を始めるタイミングでもあり、ついて行くことにしたらしい。
 誰よりも別れを惜しんだのは幸恵、唯一手話で会話できる相手がいなくなるのは寂しいというよりもつらいだろう。
 その田辺さんの送別会で、名残を惜しんでいる幸恵と田辺さんの手話に、僕は割って入った。
【話し相手がいなくなると寂しいだろうが、これからは僕が相手になるよ、まだ田辺さんと同じようには行かないだろうけどね】
 鳩が豆鉄砲を食らった……幸恵の表情はそんな感じだった。
 これまで挨拶程度の手話しか使っていなかったから、意表を突かれたのだろう。
 田辺さんはと言えば、最初は目を丸くしたが、驚きが去るとちょっとニヤリとした……どうも見透かされていたようだ。

 送別会も終わり、小さな花束を添えた記念品を手渡す時、田辺さんに囁くように言われた。
「幸恵ちゃんは部長に憧れてますよ、大事にしてあげてください」
 今度は僕が目を丸くする番だった……。

 それからと言うもの、僕は時折幸恵を夕食に誘った。
 本心を言えば毎日でも誘いたかったのだが、『時折』なのはやはり年齢差が気になっていたから。
 しかし、誘えば幸恵は必ずOKしてくれたし、部内の空気も僕の背中を押してくれた。

【いつから手話を?】
 昨日、テーブルをはさんで幸恵にそう尋ねられた。
【半年くらい前から】
【どうして手話を?】
【君と田辺さんが手話でやり取りしているのを見て興味を持ったんだ】
【そうですか……】
 しばらくの間幸恵の手は動きを止め、幸恵はうつむき加減に視線を自分の手に落としていた。
 何か言いたいのだが、言うべきかどうか迷っている感じ……。
 それを見て僕は腹を据えた。
【いや……幸恵ともっと話したかったからさ】
 幸恵はまた目を丸くした。
 これまでは『君』と呼んでいた、名前をちゃんと呼んだのは初めてだった。
【僕はもう36歳、幸恵より15歳も年上だ、だけどずっと独身だし……恋をしたことがないとは言わないけど、一人の女性と一生を共にして行きたいと思ったのは初めてなんだ】
 もう少しオブラートに包んだ言い方をしようと思っていたのだが、つい『一生を共に』と言う言葉が口を、いや、手をついてしまった。
【あ、いや、幸恵はまだ21歳だし、僕なんかより良い出会いがこの先待ってるかもしれない、そう思うんだ、そう思うんだけど……それでも良かったら結婚を前提につきあってもらえるかな……】
 僕の手をじっと見つめていた幸恵だったが、僕が掌を重ねると、左手を水平にして右手で拝むしぐさ……【ありがとう】だ。
 それからは食事に限らず休日にもデートに誘うようになったし、社内でも公認のカップルと言うことになり、冷やかされたりする毎日なのだが、それが妙に嬉しかった。
 
 それから3か月ほどして、経理部に一本の電話が入った。
「部長、お電話です、藤村さんとおっしゃる方から」
「あ、うん」
 ちょっと焦った、藤村は幸恵の姓だから。
 電話を回してくれた社員も気づいていたようで軽くウインクして見せた。
 幸恵には電話は聞こえないのだが……。
「お電話代わりました、佐藤です」
「お仕事中申し訳ありません」
 電話の相手は落ち着いた感じの中年男性らしき声。
「そちらにお世話になっております藤村幸恵の父親です……」

 終業後、指定された会社近くの喫茶店に向かうと、目印としていたクリーム色の封筒をテーブルに置いた中年男性が座っていた、封筒にはウチの会社のロゴ、間違いない。
「初めまして、佐藤です」
「初めまして藤村です、娘がいつもお世話になっております」
 声の印象と同じく落ち着いた感じで、深々と頭を下げられた。

「早速ですが、娘がお付き合いさせていただいているとか」
「あ、はい」
「結婚を前提に、と仰っていただいたとか……」
「だいぶ年齢が離れていますのでおこがましいとは思ったのですが……」
「いえ、ご存じの通り、あの子は耳が聞こえませんので落ち着きと包容力のある、ある程度の年齢の方の方が、と常々思っていたのです」
「はぁ……そうでしたか……」
 正直言ってほっとした、15歳も上の男になど娘はやれん、と言われるのではないかとハラハラしていたのだ。
「初めてお会いしましたが、娘が言う通りの実直な方のようですね、社会的地位も収入もおありですし、なかなかのハンサムでもいらっしゃる」
「いえ、そんなことは……」
「あなたのような方に想われるとは、願ってもないことだと思ったのですが……」
「……」
 藤村氏がちょっと言い淀む……ちょっと雲行きが怪しくなって来た。
「生まれつき耳が聞こえないあの子と暮らすのは大変です、いえ、会社ではもう1年以上触れ合っていらっしゃるのは承知しています、ですが日々の暮らしとなりますとまた違うのです、夫婦なり家族なりの間ではニュアンスのようなもので伝え合うものも多い、私はもう20年近く手話を使っていますが、それでもまだ伝わりにくさを感じてしまいます」
 そこまで言うと、藤村氏は一口コーヒーを口に運んで言った。
「あの子はあなたに夢中です、浮かれていると言っても良いくらいに……私もそんなあの子の姿を見ているのは嬉しい……ですが、だからこそ今、あなたには慎重になっていただきたいとも思うのです……あの子はやはり普通の子とは違います、耳が聞こえないというのは大きなハンデです、それを乗り越えていけるかどうか、よくよく考えていただきたい……その上でやはり無理だと思われるようなら、きっぱりと別れてあげてください、それがあなたのためでもあり、あの子のためでもあるのです」
「……仰ること、よくわかります……」
 年頃の、しかも障害を持つ娘の父親として色々と心配になる気持ちはわからないでもない、ただ、僕にとっては(何をいまさら)なのだが……。
 反論を始めようとすると、そこに思いがけない人物が現れた。
「おとうあん!」
 幸恵だった。
 どうやら近くのテーブルにいたらしい、ただ、僕らの会話は聞こえていなかったはず……そう思って見回すと派遣社員の吉田さんの姿が目に入った。
 吉田さんは田辺さんと年齢も近く仲が良かった、部内で一番手話を使えるのも彼女だ、そして必然的に幸恵とも一番親しい。
 僕と幸恵の関係は部内で好意的にとらえられているが、吉田さんはさしずめその応援団長と言ったところ、おそらくは昼間電話があったことを幸恵に伝え、一緒にこの喫茶店に潜入していたらしい、テーブルに紙とペンが置かれているのでたぶん話の要点を幸恵に書いて見せていたのだろう、彼女もそこまでは手話を使えないから。
【お父さんは佐藤さんとの交際に反対なの?】
【いや、反対と言うわけではない、彼と会って安心もした、でも……】
 僕も黙ってばかりはいられない。
【お父さんの気持ちもわかってあげなさい、心配なんだよ、それだけ幸恵のことを大事に思っているってことさ】
 話に割り込んできた僕の手話を見て、お父さんが目を丸くした。
【だからって……あたしの気持ちはどうなるの?】
【それは僕が一番わかってるつもりだから大丈夫、幸恵も僕の気持ちはわかってくれてるだろう?】
【うん……】
【僕にはお父さんの気持ちもわかるよ、幸恵が傷つくようなことがあったらいたたまれない、そうなる可能性があるなら最初から排除してしまいたい……違いますか? お父さん】
 幸恵の父親はその質問には答えず、逆に質問を返して来た。
【いつ頃から手話を?】
【1年くらい前からです、幸恵さんと話がしたくて】
【たった1年……それでここまで?】
 幸恵が手話に割り込んで来ようとするのを、お父さんが留めた。
【どうやら私はあなたの気持ちをちゃんと理解していなかったようだ……】
 しばらく思いを巡らせるように手の動きを止め、しばらくして続けた。
【仰るとおり、いつかあなたが幸恵との暮らしに疲れてしまうのではないかと恐れました、耳が聞こえないというのは大きなハンデです、日常生活でも助けが必要なことも多い、父親の私でさえ時にはつらいと感じていました……そのつらさを分かち合えるのはやはり同じハンデを持っている人なのだろうと思っていました……でもそれは思い込みだったようですね】
 深々と頭を下げた。
【1年でここまで手話を自在に操れるようになるには相当の努力が必要だったはずです】
【いえ……別にそれほどでも……】
【いえ、相手のことを思いやれてこそできることです、努力を努力とも思わない……あなたの幸恵に対する愛情はそれだけ深くて大きいということです】
 そこまで伝えると、幸恵に向き直った。
【余計な心配だったようだ、水を差すような真似をしてすまなかったね、でももう私は心配などしていない、お前の方こそ彼を大事にしなさい、お前は彼の支えなしには暮らしていけない、その分彼の支えにもならなくちゃいけないよ】
 そして再び僕に向き直った。
【娘を……幸恵をよろしくお願いします……】

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

「あら! 幸恵ちゃん、その指輪!」
 吉田さんの一言で経理部が色めきだった。
「綺麗なダイヤね! 送り主は部長なんでしょ?」
 幸恵には聞こえなかったはずだが、雰囲気で何を言われているのかくらいわかる。
 幸恵がうなずくと今度は騒ぎの矛先が僕に向いた。
「そうだよ、僕が贈った、まだ式の場所とか日取りとかは決めてないけど、その時は招待させてもらうよ」
 そう言うと経理部はさらに沸き立った。
 どこそこの式場が良いとか、何が食べたいとか、そんなのは余計なお世話だと思ったけどね、幸恵の白いドレス姿が見たい、と言うのには全く同感だな。
 恥ずかしそうに立ちすくんでいる幸恵……僕は想像の中で彼女にウェディングドレスを着せてニンマリとほほ笑んだ……。
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