泣きボクロ
文字数 3,190文字
2015年7月の表紙絵に付けたストーリーです。
NATSUKA-NETは女性読者も多いとのことで、表紙は爽やかなイラストが多いのですが、今月はかなり冒険されたようで、妖艶な女性の大胆な水着、しかも背景は……(男性なら知ってますよね?)。
名塚さんによれば、私がストーリーを付け易いようにとわざと選んだそうで、ならば期待に応えねばなりますまい(笑)。
ストーリーの手がかりとしては、当然背景のプール、それと小さくてわかりにくいのですが、右目の下の小さな泣きボクロです。

プールサイドに腰掛けた蘭にディレクターの指示が飛ぶ。
「目線を下から上に、顎は引いたまま、もうちょっと引いて……目はもっとキッと睨む感じで……そうそう、いいね、じゃ、本番行こうか」
蘭が居住まいを直し、俺がカメラを構えるとスタートがかかった。
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『ダークサイドwith蘭』。
タイトなサウンドを叩き出す腕利き揃いのバンドに、蘭のハードでブルージーな歌声がマッチして、一年ほど前に大きなヒットを飛ばし、以後も安定した人気を保っている実力派ユニット。
今日はその新曲のプロモーションビデオの撮影だ。
バンド名を先に配しているが、紅一点でありボーカリストである蘭はユニットの顔、メディアへの露出は当然のように蘭が中心になる、だが、良い意味で『バンド馬鹿』であるダークサイドのメンバーはむしろその方が良いらしい。
プロモーションビデオもユニットとしての演奏シーンをベースとして蘭のイメージシーンがちりばめられるのがいつものパターンだ。
撮影場所は『例のプール』で通ってしまう有名なプール。
なぜ有名なのかって?
スケベな奴に聞いてみてくれ、おそらく知っていると思う。
ビルの最上階にあるから地上からは見通せない上に、屋根まで回り込むカーテンウォールは開閉式、温水プールなので水着の撮影にも通年使える……というより水着すらつけない撮影にぴったりなんだ、そして、プールのあるフロアは貸しスタジオだから一々許可を貰ったりする必要もない。
もっとも、そんな撮影ばかりじゃないよ、都内の便利な場所にあるからTVドラマなどにも良く使われている、プールのシーンを撮るのに遠くまでロケに行く必要がないんだ。
今回も蘭のスケジュールがタイトなのでここが選ばれただけのこと、蘭はプロポーションも抜群だから水着のシーンもあるが、過剰に色っぽいシーンがあるわけじゃない。
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しかし、実を言うと俺がここで蘭を撮るのは初めてじゃない。
蘭は長いことバンドに恵まれていなかった。
俺が蘭を撮ったと言うのは彼女が自前のバンドを率いていた頃のことだ。
そのバンドは、ライブハウスでは既に人気シンガーだった蘭の言いなりになる、いわば蘭専用のバックバンドだったが、お世辞にも上手いバンドではなかったし、メンバーの素行は輪をかけて良くなかった。
蘭と一緒に良い音楽を作ろうとか、売れてみせるぞ、という気概は決定的に欠けていた、言うなれば蘭に食わせてもらっていたようなものだ。
そして、バンドを維持するにはライブハウスの出演料だけでは到底足りなかった。
ここまで来れば察しがつくだろう? 蘭は生まれたままの姿で痴態を晒すビデオに出演することで不足分を補っていたんだ。
そして、まだ駆け出しだった俺はその手のビデオで蘭を何度か撮っている、そのうちの一回のロケ場所がここだったというわけだ。
蘭の右目の下にはホクロがある、いわゆる泣きボクロというやつだ。
そして男を誘うような表情や、感極まった表情を見せる時、その泣きボクロは蘭の顔や表情に色香を付け加えてくれる。
だからその頃は蘭の右側から撮ることが圧倒的に多かった、もちろん監督の指示もあったが、任されていたとしてもそうしていただろう。
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しかし、そんな献身もむなしく、蘭のバックバンドは程なく解散した……空中分解なんて華々しいものじゃない、複数のメンバーがドラッグで逮捕されて自然消滅、ヘナヘナとしぼんで消えてしまったのだ。
それから数年、固定したバンドを持たない蘭は幾つものバンドとライブ活動を続けた、必ずしも意に沿うバンドとの共演ばかりではなかったはずだが、むしろその経験が彼女のボーカルを磨き、そしてついにボーカリストを失ったばかりのダークサイドと出会った。
まさに化学反応だった。
タイトなサウンドが身上だったダークサイドは蘭のボーカルが加わることでグルーヴを得、ブルージーな味わいを持つ蘭のボーカルはダークサイドのタイトなサウンドに引き立てられる。
1+1が2じゃなくて、3にも4にもなる理想的な組み合わせだった。
『ダークサイドwith蘭』は初めて共演した時の暫定的な名称だったが、彼らはその化学反応を忘れないためにそれを正式なユニット名にして新たなスタートを切り、力強く運命を切り開いて行った。
苦しみ、もがいていた頃の蘭を知る俺としては、彼らがメジャーシーンに躍り出て来た時は思わず快哉を叫んだものだ。
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今日、『例のプール』で顔を合わせた時、おそらく俺を憶えていたのだろう、蘭は少し戸惑った表情を見せたが、俺は左胸を軽く叩いて下手なウインクをしてみせた。
(胸にしまっておくから安心しろ)というつもりで……蘭もそれを察したのか、柔らかな笑顔を見せてくれた……。
人間の顔は左右対称ではない。
顔の右半分は左脳が支配する余所行きの顔、左半分は右脳が支配する本音の顔だ。
だから、今日の撮影に当たって、俺は左側からのショットの多用を提案し、ディレクターも同意してくれた。
今の蘭には余所行きの顔は、まして泣きボクロは必要ないからね。
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最後に蘭が水に飛び込むシーンをカメラに収めて撮影は終了した。
俺はカメラを置いて蘭に手を差し伸べてやったが、蘭は逆に俺をプールに引っ張り込んだ。
「あははははは」
蘭は予想外のことに目を丸くしている俺の顔を見て、いかにも楽しそうに笑う。
「は……はは……はははははは」
俺もつられて笑い出し、その笑いはプールサイドにいた全員に広がって行った。
その時の蘭の屈託のない笑顔を俺は一生忘れないだろう。
もちろん左側からのね。
NATSUKA-NETは女性読者も多いとのことで、表紙は爽やかなイラストが多いのですが、今月はかなり冒険されたようで、妖艶な女性の大胆な水着、しかも背景は……(男性なら知ってますよね?)。
名塚さんによれば、私がストーリーを付け易いようにとわざと選んだそうで、ならば期待に応えねばなりますまい(笑)。
ストーリーの手がかりとしては、当然背景のプール、それと小さくてわかりにくいのですが、右目の下の小さな泣きボクロです。

プールサイドに腰掛けた蘭にディレクターの指示が飛ぶ。
「目線を下から上に、顎は引いたまま、もうちょっと引いて……目はもっとキッと睨む感じで……そうそう、いいね、じゃ、本番行こうか」
蘭が居住まいを直し、俺がカメラを構えるとスタートがかかった。
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『ダークサイドwith蘭』。
タイトなサウンドを叩き出す腕利き揃いのバンドに、蘭のハードでブルージーな歌声がマッチして、一年ほど前に大きなヒットを飛ばし、以後も安定した人気を保っている実力派ユニット。
今日はその新曲のプロモーションビデオの撮影だ。
バンド名を先に配しているが、紅一点でありボーカリストである蘭はユニットの顔、メディアへの露出は当然のように蘭が中心になる、だが、良い意味で『バンド馬鹿』であるダークサイドのメンバーはむしろその方が良いらしい。
プロモーションビデオもユニットとしての演奏シーンをベースとして蘭のイメージシーンがちりばめられるのがいつものパターンだ。
撮影場所は『例のプール』で通ってしまう有名なプール。
なぜ有名なのかって?
スケベな奴に聞いてみてくれ、おそらく知っていると思う。
ビルの最上階にあるから地上からは見通せない上に、屋根まで回り込むカーテンウォールは開閉式、温水プールなので水着の撮影にも通年使える……というより水着すらつけない撮影にぴったりなんだ、そして、プールのあるフロアは貸しスタジオだから一々許可を貰ったりする必要もない。
もっとも、そんな撮影ばかりじゃないよ、都内の便利な場所にあるからTVドラマなどにも良く使われている、プールのシーンを撮るのに遠くまでロケに行く必要がないんだ。
今回も蘭のスケジュールがタイトなのでここが選ばれただけのこと、蘭はプロポーションも抜群だから水着のシーンもあるが、過剰に色っぽいシーンがあるわけじゃない。
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しかし、実を言うと俺がここで蘭を撮るのは初めてじゃない。
蘭は長いことバンドに恵まれていなかった。
俺が蘭を撮ったと言うのは彼女が自前のバンドを率いていた頃のことだ。
そのバンドは、ライブハウスでは既に人気シンガーだった蘭の言いなりになる、いわば蘭専用のバックバンドだったが、お世辞にも上手いバンドではなかったし、メンバーの素行は輪をかけて良くなかった。
蘭と一緒に良い音楽を作ろうとか、売れてみせるぞ、という気概は決定的に欠けていた、言うなれば蘭に食わせてもらっていたようなものだ。
そして、バンドを維持するにはライブハウスの出演料だけでは到底足りなかった。
ここまで来れば察しがつくだろう? 蘭は生まれたままの姿で痴態を晒すビデオに出演することで不足分を補っていたんだ。
そして、まだ駆け出しだった俺はその手のビデオで蘭を何度か撮っている、そのうちの一回のロケ場所がここだったというわけだ。
蘭の右目の下にはホクロがある、いわゆる泣きボクロというやつだ。
そして男を誘うような表情や、感極まった表情を見せる時、その泣きボクロは蘭の顔や表情に色香を付け加えてくれる。
だからその頃は蘭の右側から撮ることが圧倒的に多かった、もちろん監督の指示もあったが、任されていたとしてもそうしていただろう。
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しかし、そんな献身もむなしく、蘭のバックバンドは程なく解散した……空中分解なんて華々しいものじゃない、複数のメンバーがドラッグで逮捕されて自然消滅、ヘナヘナとしぼんで消えてしまったのだ。
それから数年、固定したバンドを持たない蘭は幾つものバンドとライブ活動を続けた、必ずしも意に沿うバンドとの共演ばかりではなかったはずだが、むしろその経験が彼女のボーカルを磨き、そしてついにボーカリストを失ったばかりのダークサイドと出会った。
まさに化学反応だった。
タイトなサウンドが身上だったダークサイドは蘭のボーカルが加わることでグルーヴを得、ブルージーな味わいを持つ蘭のボーカルはダークサイドのタイトなサウンドに引き立てられる。
1+1が2じゃなくて、3にも4にもなる理想的な組み合わせだった。
『ダークサイドwith蘭』は初めて共演した時の暫定的な名称だったが、彼らはその化学反応を忘れないためにそれを正式なユニット名にして新たなスタートを切り、力強く運命を切り開いて行った。
苦しみ、もがいていた頃の蘭を知る俺としては、彼らがメジャーシーンに躍り出て来た時は思わず快哉を叫んだものだ。
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今日、『例のプール』で顔を合わせた時、おそらく俺を憶えていたのだろう、蘭は少し戸惑った表情を見せたが、俺は左胸を軽く叩いて下手なウインクをしてみせた。
(胸にしまっておくから安心しろ)というつもりで……蘭もそれを察したのか、柔らかな笑顔を見せてくれた……。
人間の顔は左右対称ではない。
顔の右半分は左脳が支配する余所行きの顔、左半分は右脳が支配する本音の顔だ。
だから、今日の撮影に当たって、俺は左側からのショットの多用を提案し、ディレクターも同意してくれた。
今の蘭には余所行きの顔は、まして泣きボクロは必要ないからね。
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最後に蘭が水に飛び込むシーンをカメラに収めて撮影は終了した。
俺はカメラを置いて蘭に手を差し伸べてやったが、蘭は逆に俺をプールに引っ張り込んだ。
「あははははは」
蘭は予想外のことに目を丸くしている俺の顔を見て、いかにも楽しそうに笑う。
「は……はは……はははははは」
俺もつられて笑い出し、その笑いはプールサイドにいた全員に広がって行った。
その時の蘭の屈託のない笑顔を俺は一生忘れないだろう。
もちろん左側からのね。