七つの海へ

文字数 2,436文字

 


 七海にとって最初の海の記憶は、静かな湾を見下ろす高台にある水族館だった。
 大きな水槽の中を泳ぐさまざまな魚たち、楽しい芸を見せてくれるイルカやアシカたち、七海は海の生き物たちに夢中になった。
 そして海を見下ろす庭園で、父は七海を抱き上げて海を見つめていた。
 その時の父は、優しさと厳しさが入り混じったような凛とした表情。
 七海はそんな父を心底カッコいいと思い、父が見つめている海の彼方、水平線を父と一緒に飽かずに眺めていた。
 父がその先に見ているものを、自分も見てみたくて……。

 七海の父は外航船員、コンテナを満載した船に乗り込んで世界中を旅してまわっていた。
 一度航海に出れば数か月は会えない、それはとても寂しかったが、帰ってくればしばらくは休暇、七海と遊ぶのを楽しみにしてくれていた。
 七海は会えなかった日々を思い切り取り戻すように、思い切り父に甘えた。

 そんな父が海から帰らなかったのは、七海が中学生だった時のことだ。
 太平洋の真ん中で急病となり、充分な手当ても受けられないまま帰らぬ人となってしまったのだ。
 横浜に戻って来た父の遺体と対面した時、父は穏やかな表情をしていた。
『海で死ねたら本望だよ』
 かつて父はそんなことを言っていた。
 その時は(そんなこと言わないでよ)と悲しく思ったものだったが、本当に本望だったのかも知れない……七海は父の死に顔を心に刻み込んだ。

「商船高等専門学校に行きたい」
 そう切り出した時、母に猛反対された。
 父が見て来た景色を自分も見たい、父が愛した海で自分も生きてみたい。
 そう思ってのことだったが、母の気持ちもわからないわけではない。
 やはり母としては、夫を海に奪われたと言う気持ちが強い、娘まで海に奪われたくはない。
 そう考えるのは自然なことだと思い、七海は普通高校に進学した。

 卒業後は調理師専門学校に通い、調理師免許も取得した。
 そしてしばらくデパートの大食堂で働いたのち、とある病院に勤務した、もちろん調理師として。

 七海は夢を捨てていなかったのだ。
 航海士になるには商船高等専門学校か海洋学部のある大学に通うほかはない。
 それはどちらも母が許してくれそうにないし、反対する理由を考えれば無理に振り切ることもできない。
 だが、船に乗り込む道は他にもある。
 陸から遠く離れた海の真ん中で船員たちが楽しみにしているものと言えば食事だ。
 船員たちの健康を守るのもまた食事。
 そして、その食事を提供するのは船舶料理士、その仕事は船を安全に航行させる仕事の一つだとも言えるのではないか?
 七海はそう考えて調理師となり、和洋中いずれも扱える大食堂に就職し、栄養面や体調に合わせたメニューを考え、提供しなければならない病院の調理室に勤めて来たのだ。

 だが、船舶料理士になるには、一年以上船舶での勤務を経験しなければならない。
 どうしても母の許しを得る必要がある。

「お母さん……」
「何? 改まって」
「あたし、やっぱり船に乗りたいの……船舶料理士になって世界中を回って、お父さんが見て来た景色を同じように見てみたい」
「えっ?……」
 母は目を丸くした、七海はその後の口論を覚悟したが……。
 だが、母は怒りはしなかった、しばらく天井を見つめ、何かを飲み込んだように大きく息をつくと穏やかに言った。
「……ずいぶんと遠大な計画だったのね……中学生の時、商船専門学校に行きたいって……あの時はあたしの気持ちを慮ってくれたのね……高校を卒業した時も、大学に行こうと思えば行けたのに調理師になって、おしゃれな店じゃなくて何でも作る大食堂に就職して、最後は病院の調理師だものね……それって、全部海に出るための準備だったわけね……今初めて気づいたわ」
「……うん……」
「わかったわ……あなたの人生だもの、あなたが生きたいように生きなさい……でも、これだけはお願い、海で死なないで、必ず戻って来て……」
「……うん……」
「九年前はあたしもまだ気持ちの整理がついていなかったけど、今なら大丈夫よ……七海が九年間も持ち続けて来た夢だもの、あたしがそれを奪う権利なんてない……お父さんが生きていればきっと大喜びしたわ、今もきっと天国で大喜びしてるはず、あたしがそれを止めたら、あたしがあの人の所に行った時、怒られちゃうわね、きっと……」
 そう言って母は微笑んでくれた……その目からは涙がこぼれそうになっていたが……その涙の意味はきっと一つじゃない……七海はそう思って母の顔を心に刻み込んだ。

「身体に気を付けてね」
「うん、わかってる、お父さんのお墓の前でもそう約束したもの」
「そう……元気で帰ってきてね」
「きっと」

 一年間内航船に勤務したのち、七海は試験にも合格して晴れて船舶料理士となった。
 そして今日は初めての外航路への船出、母は港まで見送りに来てくれた。
 クルーの一員ではあるが、船舶料理士には制服はない、強いて言うならば白衣が制服なのだ。
 だが、七海は真新しい制服に身を包んでいた。
 母がこっそり誂えてくれていて、今朝リビングに吊り下げられていたのだ。
 
「行ってらっしゃい! 身体に気を付けるのよ!」
 船が岸壁から離れる時、母はありったけの声を張り上げ、ちぎれるほどに手を振ってくれた。
 無理にでも笑顔を作ろうとしたが出来なかった……夫を海で亡くし、今また娘を海に送り出そうとしている母の気持ち、今日の船出に晴れの服を用意してくれた母の気持ち、そしてこの先数か月、心配しながら待っていてくれるであろう母の気持ち……それらがずんと胸に重く響いていたのだ。
 だが、甲板の手すりを握りしめていた手を誰かに取られたような気がした。
 振り返っても誰もそこにいるはずはない……自分の手を取ったのは、きっと父だ……。
 七海は父に促されるままに母に手を振り返し、そして心の中でつぶやいた。
(きっと無事で帰るから……いつまでも……何度でも……だから……心配しないで待っててね……)
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