わたしはわたし

文字数 5,880文字



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「お世話になりました」
「いや、こっちこそ長い間ありがとう、助かったよ、仕事、頑張ってな」
「ありがとうございます、ここが居心地よすぎたんで社会に出るのは不安ですけど」
「君なら大丈夫、太鼓判を押すよ……それじゃ、元気でな」
「大将こそいつまでもお元気で……女将さんも……旨い料理、一生忘れません」
「あたしのなんか年寄臭いのばっかりよ」
「いや、俺にとっての『おふくろの味』です」
「あたしも息子のように思ってたよ……身体に気を付けてね」
「はい……じゃ、行きます……」
 青年は対象とおかみさんの手を取り、4年間を過ごした『松の湯』を名残惜しそうに眺めた。
「うん……たまには電話してね、こっちの方に来ることがあったら寄って行ってね」
「必ず……お世話になりました……」
 青年は重そうなカートをガラガラと引っ張って、何度も振り返りながら駅の方角へと消えて行った。

「行っちゃったな……」
「寂しくなりますね……」
「ああ……でも寂しいだけじゃなくて……」
「ええ、そうですね……」
「この銭湯をこれからどうするか考えなくちゃならないな……」

 渡辺寛は妻の敏子を見ながらしみじみと言った。
 ここは東京に隣接する地方都市、寛は今では数少なくなった銭湯の二代目だ。
 今年78歳になる。
 生涯を通じて父から受け継いだ銭湯を守ってきたが、寄る年波には勝てない、ボイラー焚きはまだしも浴槽や洗い場のブラシ掛けは体力的にきつくなっている。
 敏子も75歳、脱衣所の掃除、備品の補充を担当し、番台にも座る。
 もちろん家事全般もしっかりやっているので、やはり体力的にかなり厳しい。

 青年の名は山本幸男、この近くの国立大学を卒業して、就職のため東京へと旅立って行った。
 今時珍しくなった苦学生で入学当初は新聞店に住み込んでいたが、寛が腰を痛めて松の湯がしばらく休業したのをきっかけに銭湯の仕事を手伝うようになり、しばらくすると住み込んで手伝うようになった。
 寛の腰の具合は今でもあまり芳しくない、幸男が居なくなるのは松の湯にとって大きすぎる痛手になる。
 
 先代が松の湯を開いた頃はと言えば、まだ内湯がある家は少なくて銭湯も大いに賑わったものだが、今時はこのあたりでも内湯がない家などほとんどない。
 割と近所に幸男も通っていた大学があり、昔は四畳半一間の下宿屋がごろごろしていたが、近ごろは小しゃれたワンルームアパートに建て替わっている。
 当然手足を伸ばして入れるような浴槽はついていないが、近ごろの若者はシャワーがあればそれで良いようだ。
 そんなわけで近年では年配の常連さんが通って来てくれるくらいになってしまった。
 それに加えてここ数年はコロナ禍、世界情勢による燃料高騰と、銭湯には厳しい状況が続いている。
 松の湯も幸男が居てくれたからこそ続けられたようなものだ。
 だが、本当の息子でもない幸男をこんな田舎町の銭湯に縛り付けておけるはずもない。
 寛と敏子は顔を見合わせて深いため息をついた。
 口に出さなくてもわかっている……(松の湯もこれまでだな)……その言葉を飲み込んだため息だった。

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「本当に済まない」
「いいの、わかってるから……仕方のないことだわ」
 隆に別れ話を切り出されたひろみは肩を落とすほかはなかった。
 二人には、と言うよりひろみには隆と一緒になれない事情がある、そのことはひろみ自身よくわかっている……わかっているがやはりつらい。
「わたし、まだしばらくここにいるから、一人で出て行って」
「……わかった……本当に済まない、俺もひろみを理解していたつもりではあったんだけど……」
「いいのよ、もう……一人にしてくれる?……」
 隆は黙って伝票を手にすると席を立った。
 ドアの音を背中に聞くと、ひろみの目から涙が零れ落ちた。
 いつかこうなることはわかっていた、わかった上で選んだ生き方だ、そのことに後悔はしないつもりだったが、心から愛した男との別れは何度経験してもつらい……。
 
▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 ひろみの父は中学校の校長、母も高校教師、厳格と言うほどではないがかなり厳しい家庭で育った。
 ひろみが自分の心と正面から向き合うようになったのは高校一年の時。
 それまで『聞き分けの良い優等生』を通して来たし、そんな自分に疑問を感じることもなかったのだが、初めて経験した恋が自分の本当の心を教えてくれた。
 でも、告白することはできなかった……できるはずもなかったのだ。
 悶々としながら高校時代を過ごした後、進学のために上京した。
 大学一年の時、二度目の恋を経験したがやはり告白さえできなかった。
 そしてひろみは本当の自分と正面から向き合うことを選択した。
 大学は中退した……親には告げずにひっそりと……もちろんアパートを移り携帯番号も変えた。
 厳しくて『常識的な』両親と決別したのだ……絶対に本当の自分を受け入れてくれないことはわかっていたから。
 
 そして夜の世界に飛び込んだ。
 いわゆる『おかまバー』。
 そう、今ではひらがなの『ひろみ』と名乗っているが本名は渡辺博己、出生時の性別は男、だが、高校の時の初恋相手は男子バスケ部のキャプテンだった。
 幼いころからうすうす自分の心が女子であることには気づいていた、だが『常識的』であることを絶対的価値とする両親のもとでそのことには向き合わないようにしていた。
 身体が成長して男性の特徴を色濃く備えるようになれば、自然と薄れて行くんじゃないかな? とも漠然と考えていた。
 だが、実際は違った。
 中学生になり、高校生になり、身体が男性として育って行けば行くほどに心の中の女性と乖離して行く、ひろみはそれに耐えられず女性として生きることを選んだ。
 おかまバーでのひろみは瞬く間に売れっ子になった、そしてお金が貯まると段階を踏むようにして女性の身体を手に入れて来た。
 何度となく恋も経験した。
 高校でも大学でも男性に恋心を告白することはできなかった、拒絶されることが怖かった、自分の中の女性を否定されるような気がして……。
 だが、おかまバーの客は男性の身体に女性の心を宿すひろみを受け入れてくれた。
 もちろん、ただ面白半分でやってくる客も多かったが、中には女性としてのひろみを愛してくれる男性もいたのだ。
 そして最後の手術を終え、少なくとも外見上は完全な女性となったひろみは、かつてない激しい恋に落ちた、その相手が隆だった。
 二人は同棲して愛し合った、ひろみは自分の心と身体を一致させただけでなく、女性としての幸せも手に入れたと思っていた。
 だが、隆は地方の旧家の長男、東京の企業で働いていたのはいわば修行のため、いずれは家業を継がなくてはならない、そのためには子をなせる本物の女性と結婚する必要があった、どんなにひろみを愛していてもひろみと生涯を共にすることはできない相談だったのだ。
 どれだけ外見を女性に近づけても、女性の心を持っていても子供を産むことはできない。
 ひろみにとっては厳しい現実、だが、それは受け入れられるとか受け入れられないと言う問題ではない、厳然とした自然の摂理、それに逆らうことは何人にも不可能なのだ。

 しばらく傷心の日々を過ごしていたひろみだったが、長く伸ばしていた髪をバッサリと切ると心も軽くなった気がした。
 それと共に女性であることへの強いこだわりも薄らいで来た。
(男だろうと女だろうとわたしはわたし)
 そう思えるようになったのだ。
 すると故郷が懐かしく思えるようになって来た。
 幼いころの自分は性別など気にならなかった、『わたしはわたし』素直にそう考えて、心のままに自然にふるまってきたはず……今の心境と同じだ。
 だがいまさら両親に会う勇気も湧かなかった、何しろ息子が娘に変わってしまっているのだから……ゴリゴリの常識人である両親がそのことを自然に受け入れてくれるとも思えない。
 せっかく自然な自分を取り戻せたと思うのに性転換をなじられたり冷たく接しられたりするのは耐えられない……。
 そんな日々の中で……。
(そうだ……)
 ひろみはふと思い立って故郷に向かう列車に乗った。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

「ホントに博己? ウソぉ……」
 銭湯を営む祖父母を訪ねると、祖母は目を丸くした。
 目の前にいるのはどこからどう見ても女性、それが男の子だったはずの孫の名前を名乗ったのだから当然の反応だ。
 でも……絶句したと言うほどではない、
「高校生の頃からずっと心と身体が合わないことに悩んでたの、心は変えられないってわかって身体の方をそれに合わせることにしたの……でも博己よ」
「……小さいころから女の子みたいに可愛い子だと思ってたけど……言われてみれば確かに博己だねぇ……」
「こんなわたしだけど……受け入れてくれる?」
「受け入れるも何も、博己なんでしょ? 私の孫であることに変わりはないよ、遠くまでよく来たね、さ、上がって上がって」

 銭湯の裏手にある祖父母の家は小さいころから変わっていなかった。
 懐かしい茶の間……じゅらく壁や天井のシミにも見覚えがある。
 そしてあめ色になった柱にはひろみの成長の跡が年ごとに刻まれている、博己は柱の傷を指でなぞりながら、故郷で過ごした日々を思い出していた。
「本当に博己なのか? こりゃおったまげた」
 祖父もなんだかちょっと古い言い回しで目を丸くした……が、祖母と同じで女性の姿に変わったひろみをそのまま受け入れてくれた。

「夕ご飯、食べてくだろ?」
「うん、久しぶりのおばあちゃんの味、楽しみ」
 そう言いながら、ひろみは気になっていたことを口にした。
「今日は銭湯お休みなの?」
「今日は、じゃなくて、ずっとだよ」
「まあ、貯金と言っても微々たるものだけどな、年金をやりくりしながら細々と暮らしてるよ」
「辞めちゃったんだ……」
「この3月まで近所の大学生が住み込みで働いてくれてたから何とかやっていけたんだけどね、就職して東京に行っちゃったからね……おじいさんと二人じゃやっていけないんだよ」
「まあ、俺もばあさんもいい加減身体にガタが来てるからな、ブラシ掛けなんかしちまったら2~3日腰が立たないよ」
 祖父は冗談めかしてなるべく軽く言ったつもりだろうが、それが実際のところなのだろう、言葉の端にさみしさも漂っている気がした……。
「あのさ……わたし、しばらくここにいてもいい?」
「いいけど……」
「銭湯、まだやりたいんでしょ?」
「そりゃまあ、古い常連さんから『もうやらないのかい?』とか言われると申し訳なくなるし、寂しくもあるけどな」
「わたし、手伝おうか……」
「え?」
「私が浴槽や洗い場にブラシかける、脱衣所の掃除もするし番台にも座る、だからもうちょっと頑張って銭湯続けようよ」
「…………」
「ねえ、銭湯の仕事、教えてよ、一緒にもう一度松の湯を繁盛させようよ」
「そりゃ、そうしてもらえるならこんな嬉しいことはないけど……」
「その大学生が住み込んでた部屋、まだそのままなんでしょ?」
「あ、ああ、確かに空いてるよ」
「だったら今度はわたしがそこに住み込む、銭湯の仕事をする代わりにそこに住んでおばあちゃんのご飯食べさせてよ」
「ブラシ掛け、結構つらいよ」
「こう見えてもね、元は男なんだよ、まあ、身体はなまってるかも知れないけど慣れれば大丈夫だよ」
「そうかい?……じゃ、試しにやってみようか……」

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

「いらっしゃい~」
 番台からひろみの明るい声が響く。
 いくら骨格は男のものと言っても肉体労働の経験はなく、華奢なひろみのこと、浴槽や洗い場のブラシ掛けはきつかった、でもしばらくの間筋肉痛に耐えて続けているうちに慣れた、腕はそれなりに太くなった気がするが、今のひろみには気にならない。
「お、看板娘、今日も元気だねぇ」
 常連のおじいさんたちはニコニコしながら湯銭を渡してくる。
「この別嬪さんが本当は男だとはねぇ」
「気色悪い?」
「いや、全然、むしろ反対だな、眼福だし素っ裸を見られてもまるで気にならないしな」
「ひろみちゃん、また来たよ」
「おばちゃん、いつもありがとう」
「なんだかねぇ、ひろみちゃんほど番台に向いてる娘はいないよねぇ」
「そう?」
「だって女でも男でもないわけでしょ? 逆に男でもあり、女でもあるんだから……」
「わたしはわたしよ、おばちゃん」
「そうだねぇ、確かにその通りだわねぇ……はら、なんて言ったっけ、近ごろよく聞くエルジーなんとか」
「LGBT?」
「そうそう、それそれ」
「わたしはTね、トランスジェンダーの略で性転換って意味」
「そう言うのかい? でもね、ひろみちゃんはああいう人たちとは違うよ」
「ああいう人たちって?」
「男なのに女風呂やトイレに入らせろとか言う輩よ」
「確かにねぇ、迷惑よね」
「そうそう、権利だかなんか知らないけどさ、考え方が常識外れなのにそれを押し付けてこようとする人たち、そりゃあんたたちにも権利はあるかもしれないけどさ、普通の人たちにもあるんだってわからないのかねぇ、自分のことばかり言ってお天道様に恥ずかしくないのかねぇ」
「わたしもそう思うわ、人様に迷惑かけないのが当たり前よね、あたしみたいに男から女になっちゃった人間から見ても迷惑、一緒にしてほしくないわ」
「そうだよねぇ……ひろみちゃんは違うよ、あんたはみんなに愛されてるんだから」

『みんなに愛されている』その言葉に、ひろみは内心ほろりとした。
 心の性と身体の性の不一致に悩んでいた自分、それを両親に言い出せなくて無理していた自分、好きになった人に告白するのをためらった自分、そして心から愛した人と一緒になれないことを受け入れざるを得なかった自分……。
 寂しい思い、悲しい思い、つらい思い……どうして自分は男性の身体に女性の心を持って生まれついてしまったんだろうと呪ったこともあった。
 でも、今、それを乗り越えられた気がする。
 ありのままの自分を受け入れ、愛してくれる人たちがいる、それでいい、それ以上何を望むの?……

「おばちゃん、ありがとう、これからも頑張るね」
「うん、うん、いつまでも松の湯を続けてね」
「うん、頑張る」
 ひろみはそう言いながらできるかぎりの笑顔を作った。
 嬉し涙をこらえていることを悟られないように……。
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