新しいキャンバス

文字数 2,602文字



「あら、千絵ちゃん、お絵かき上手ね」
「お母さんからの遺伝かしらね」
 幼稚園児の頃から千絵は絵を描くたびに褒められていた。
 幼稚園児が人物を描く時、そのほとんどは丸に目鼻と髪の毛を描いて顔とし、楕円形の胴体から蚊のように細い手足が伸びている、と言う程度のもの。
 だが千絵の描く人物にはきちんと首があり、腰は括れていて手足には一定の太さがあり、関節があることも見て取れた。 四つ足の動物を描けば、彼らが常につま先立ちで歩いていることまでは知らずとも、前脚の肘は前に曲がり、後ろ脚にはかかとが描かれていた。
 モノを見る観察眼とそれを紙の上で再現する能力に長けていたのだ。
「お母さんからの遺伝」、それも正しい。
 千絵の母親は美大のグラフィック科を卒業し、デザイン事務所に勤めたプロだったのだ。
 千絵が生まれ、数年後に弟が生まれてからは仕事を辞めて育児に専念したが、幼稚園や学校の行事などでは請われて良くポスターなどを描いた、そして今でも水彩画を趣味にしている。
『千絵』と言う名前は母の希望で名づけられたものだ。

 千絵本人も絵を描くのが大好き、それを褒めてもらえることが嬉しくて一層夢中になった。
 小学生では絵画教室に通い、中学、高校では美術部に所属し、大学も美大に進学した。
 大学でも千絵の技量は際立っていた。
 しかし……。
 コンクールなどの結果は思わしくなかった、技量は確かなので佳作や努力賞などには選ばれるのだが、最優秀賞はおろか優秀賞に選ばれることはなかった。
 自分に何が足りないのか……千絵には痛いほどわかっていた。
 際立った個性、卓越したアイデア、大胆な構成……そう言ったものが希薄なのだ。
 千絵の絵を見た誰しもが『上手いな』と言う第一印象を持つ、つぶさに見て行けばその技量が卓越したものであることもわかる、だが、沢山の作品を並べて見た時に『これ』と手が伸びる輝きを放ってはいないのだ。
 千絵は足掻いた……意図して荒いタッチで描いてみたり、奇抜な構図を取ってみたり、普通は絵に描かれないようなものを題材にしてみたり。
 しかし、それらは千絵の絵が持つポテンシャルを損なうものでしかなかった……。

 大学は優秀な成績で卒業した。
 デザイン事務所などからの引き合いも一つや二つではなかった、だが、千絵はやはり絵一本で行きたい、画家として生きて行きたい、と考えていた。
 そして、絵が全く売れないわけでもない。
 号いくら、などと言う相場が付けられるレベルには及ばないが、小さめの絵が数万で売れることが時々ある、買ってくれるのはほとんどがレストランや喫茶店のオーナー、万人に上手いと思わせる千絵の絵は店の壁面を彩るのに好適なのだ。
 その事実が千絵に画家の夢をあきらめさせない、金額はさておいても、自分の絵を欲して、対価を払ってくれる人がいる、そしてその絵は多くの人の目に触れて楽しませることができるのだから……。
 さりとて年収が数十万ではとても『画家』は名乗れない、裕福でなくても良いが、絵一本で生活できないならば、それは『自称画家』に過ぎないと千絵は考えている。
 両親は『千絵のやりたいようにすれば良い』と言ってくれるし、実家で暮らしていれば小遣い程度の収入でも暮らしていけないことはない、だが生活全般に堅実な考え方をする千絵は心苦しく思う。

 千絵は駅前のレストランでアルバイトをすることにした。
 駅前と言っても大きな駅ではない、駅前商店街を抜ければ住宅地が広がっている、その程度の駅だ、そして店の規模もオーナーシェフが家族経営する程度、住民が「ちょっと外食しようか」と言う時に思い浮かぶ店だ、だが、オーナーシェフは料理の腕前だけでなく遊び心も備えた人で、地元では「隠れた名店だよな」と認識されている、そんな店だ。
 昼間は絵を描き、夕方のディナータイムからウエイトレスに入る……そのバイト代を実家に入れようと考えたのだ。
 そして、そこで千絵はラテアートに出会った。
「千絵ちゃんは美大出だったよね、ラテアートやってみる?」
 オーナーシェフの一言が千絵に新しいキャンバスを与えてくれたのだ。

 もとより技量では人後に落ちない千絵の事、一月も経たないうちにオーナーシェフの腕前を超えた。
 直径十センチにも満たない小さな画面に、コーヒーとミルクの濃淡だけで画かれるラテアート、その制約の中では技量が大きく物を言う。
 そして、その制約があることで、却って千絵にもイマジネーションが湧く。
 元々、オーナーシェフがお客さんの目の前で描くラテアートも売りのひとつだったカジュアルなレストラン、そのラテアートが格段にレベルアップしたのだ、それは評判を呼び、『インスタ映え』を求めて若者が押し寄せ、、雑誌やテレビの取材も詰めかけるようになった。
 そして、ラテアートによって、千絵の名も知られるようになり、本業の絵の方の売れ行きが良くなって値も付くようになった。
 千絵は有名とまでは言えないにせよ、堂々と画家と名乗れるようになったのだ。

 だが、千絵は今もそのレストランでラテアートの腕を奮っている。
 オーナーとラテアートに対する『恩返し』、それももちろんある。
 しかし、千絵にとってラテアートはもう単に収入を得るためのものではない。
 十センチに満たないコーヒーカップ、鑑賞され、写真に収められれば飲まれて消えてしまう儚いアート。
 千絵はそこに自分を生かす道を見つけた。
 自分が持つ技量をどうしたら最大限に生かせるかを考える……それが画家としての自分を生かす道だと悟ったのだ、そしてラテアートはそれを教えてくれる大切なものであり、ある意味習作でもある。
 
 一時は押し寄せた人々や取材も、今はひと段落して落ち着いている。
 だが店への確かな評価は定着し、常連も増えた。

「やあ、千絵ちゃん、今日は何を描いてくれるのかな」
「何が良いですか? リクエストにお応えしますよ」
 今日も千絵は常連との会話を楽しんでいる、そして彼らのリクエストに応えることで、画家としてのスキルまでも磨いている……多分、これからもずっと。


           (終)
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