幸福の連鎖
文字数 8,858文字
海辺で女性が微笑んでこちらを見ているイラスト……視線のこちら側にいるのがカレシだと設定するとラブストーリーにしかなりません。
このイラストのシリーズ、当初は臆面もなくラブストーリーを書いていたんですが、この頃からそれでは飽き足らなくなりまして……。
シチュエーションは写真を撮ろうとしているところ、そしてカメラのファインダーを覗いているのは……と言うところから発想しました。

『幸せの連鎖』
「あ、今、もしかして見えちゃった?」
「いやいや」
「ホント?」
「ああ、一瞬だったんで良く見えなかった」
「あ~! ちょっとは見えちゃったんだ、でも、ま、いいか、親子だもんね」
家族旅行の最中、海辺で写真を撮っている時、風がちょっとした悪戯を仕掛けてきた。
友香子は風にはためくスカートを押さえながら、そう言って笑った。
(本当に申し分のない娘に育ってくれたな……)
紀生はそう思いながらシャッターを切った。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
友香子は紀生と幸子夫妻の養子だ。
養子には特別養子と普通養子があり、特別養子は六歳未満に限られる、友香子が紀生夫妻の養子になったのは九歳の時だったから、当然普通養子になる。
特別養子の場合、産みの親と完全に縁を切って最初から養父母の子供であったかのように扱われる、実際には六歳なら親の記憶はあるだろうから大抵の場合はもっと幼い内に養子に迎え、実の子として育てる、戸籍を見ても嫡出子と記載されているから、養父母が真実を明かさない限り子供の側からは養子とは知らずに大人になることも少なくない。
それに対して普通養子は年齢に制限はない、戸籍上も養父母と養子と記載され、その事実を双方が納得の上で養子縁組するのだ、産みの親の名前も記載され、完全に縁を切るわけではない。
かつて、紀生と妻の幸子の間には一人娘の愛美がいた。
結婚して十年目、不妊治療の末にようやく授かった子供だったのだが、七歳の時に公園の遊具から転落すると言う不慮の事故で亡くなってしまったのだ。
交通事故なら加害者を恨むことで、病気なら出来る限りの手を尽くすことで、幾分かは気持ちも和らぐ。
しかし、自分で足を滑らせて転落したのでは誰も恨めない。
その日の内に亡くなってしまったのでは手を尽くしたと言う実感も持てない。
責めるとすればその事故を防げなかった幸子自身しかないのだ。
だが、普通七歳の子供であれば近所の公園になら一人で出かけて行く、いちいち付いて行く親などいない。
『その日』も、愛美はいつものように息せきって学校から戻ると、『ミルク頂戴』とキッチンに駆け込んで来て、一気飲み干すと『公園で○○ちゃんと遊んでくるっ』と玄関に駆け出して行った。
その背中に『車に気をつけるのよ』と声をかけたが、まさか公園で、などとは夢にも思わなかった。
愛美が新しいスニーカーを履いているのは見た、ディズニーアニメのキャラクターが描かれているもので、成長の早い子供のこと、ワンサイズ大きめのものを買い与えた、少しブカブカなのは気付いていたが、それが重大な事故に結びつくなどとは夢にも思わなかったのだ。
だが、報せを受けて公園に駆けつけた時、今まさに救急車に乗せられようとしている愛美の足には片一方しかスニーカーがなかった。
事故を目撃した、小さな子供たちの母親の証言によれば、愛美は脱げかけたスニーカーを履き直そうとして屈み、バランスを失って頭から落下したのだと言う。
大人なら不安定な足場の上でスニーカーを履き直そうなどとは考えない、だがお気に入りのキャラクターが描かれた新しいスニーカーは愛美にとっては宝物、落としたくなかったのだろう。
だが成長期の子供にワンサイズ上のスニーカーを与えるのはごく普通のことだ、幸子が自分を責める理由などない筈なのだが、熱望し、苦労してようやく授かって大事に育てて来た娘だ。
(もしあたしがピッタリのスニーカーを買ってやっていれば……)
そう思うといたたまれない、そんな気持が幸子を自責の闇へと押しやって行った。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「養子を?」
「そう、考えてみないか?」
愛美が亡くなってから一年が経とうとしているのにまだ闇の中から這い上がることが出ずに塞ぎこんでいる幸子を見かねて、紀生はそう切り出した。
「だめ……愛美の代わりなんてどこにもいないわ」
「代わりと言うわけじゃない、愛美がいてくれたおかげで俺たちは子供の成長を楽しみに見守ると言う幸せを得られただろう? もちろん苦労も多かったが他の何にも代え難い喜びだった……違うかい?」
「ううん、確かにそうだったわ」
「俺は突然途絶えてしまったその喜びを復活させてくれる存在が欲しい、そういう気持なんだ、その意味では代役と言えないこともないかもしれないけど、決して愛美の代わりを求めてるわけじゃないんだ」
「……やっぱり無理、もし申し分のない子が見つかったとしても、きっと愛美みたいには愛せないわ」
「愛美と同じように愛する必要はないさ、その子をその子として愛せば良い」
「……愛美の事を忘れちゃったら、あの子が可哀想……」
「忘れる必要はないさ、俺だって忘れられっこない、でもこれは男女間の愛情とは違うよ、俺たちには子供は一人しか出来なかったけど、愛美にきょうだいがいたらきっと愛美と同じように愛したんじゃないかな」
「……それは……確かにそうかもしれないわね……」
「まだどこかに相談したわけでもないんだ、もし、そんな風に愛せそうな子がいたらってことだけどね……幸子が良ければ役所にでも相談してみるけど」
「……あなたに任せるわ……」
まだ少し投げやりな様子ではあるものの、幸子は嵐の中で小さな灯りを見つけた小船くらいの希望は見出せたように見えた。
その灯りが灯台のものなのか、それとも同じように嵐の海にもまれる小舟のものなのかはまだわからない、だが、どんなに小さな灯りでも、進むべき方向だけは見いだせたのだ。
「お気持は伺いました、ありがたいことです、で、そういうことでしたらご希望に沿えそうな児童に心当たりはあります」
「本当ですか?」
「ええ、この子なんですが……」
児童相談書の職員が一枚の書類を紀生に差し出した。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
友香子もやはり一年前、八歳の時に両親を交通事故で一度に亡くしていた。
両親は共に施設育ち、同じような境遇である事を知って惹かれ合い、愛し合い、結婚して友香子を授かった。
地道に、そして幸せに暮らしていた親子だったが、知人の葬儀に二人で赴いた際に大きな事故に巻き込まれて亡くなってしまったのだ。
二人とも施設育ちだったと言うことは、頼るべき祖父母や親戚はないと言うこと、友香子もまた両親と同じように施設で暮して行く他はなかった。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
二度目の児童相談所、今度は幸子も一緒だ。
「この子ですか……ご両親をいっぺんに亡くすなんて可哀想……さぞ淋しいでしょうね」
「俺たちがこの子の支えになってやれたら……この子が俺たちの支えになってくれたら、どちらも幸せになれると思わないか?」
「ええ……あの、この子に会うことはできますか?」
「もちろんです、ご主人からお話は伺いましたし、失礼ながら調査もさせていただきました、あなた方は里親候補として申し分ないですからね」
幸子は話を聞いて写真を見ただけでかなり心を動かされた様子だった。
友香子が愛美に似ていたなどというわけではない、紀夫夫妻と友香子の間の共通点は同じ時期に大事な家族を失ったということだけ、少しだが年齢だって違う。
だが、友香子の写真を見たとたん、幸子には感じるものがあった。
この子には守り、慈しんでくれる存在が必要なのだと。
そして、自分がその存在になりうるならば、それは自分にとっても幸せなことに違いないと……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
ほどなく、友香子にもこの話が持ちかけられた。
説明を聞かされ、夫妻の写真も見せてもらった。
素直に『嬉しい』と思った、自分を欲しいと言ってくれる人がいることは嬉しくもあり、自分にも愛してくれる大人が必要だ。
だが、だからと言って素直にまっすぐ飛び込んで行けるものでもなかった。
友香子の中ではまだ両親は生きている。
何度も何度も夢に出て来た、夢の中で幸せな時間を過ごし、目覚めた時にその不在を思い知らされる、何度も枕を涙で濡らした。
それでも夢に出てきてくれる限り忘れてしまうわけには行かない、自分が忘れてしまったら両親は本当にこの世からいなくなってしまう、両親が生きた証が消えてしまう……そんな風に思えてならないのだ。
だが、九歳なりに現実も見えている。
九歳の子供を養子に迎えようなどと言う夫妻は決して多くない。
施設の仲間を見ていればそれはわかる、まだ物心つかない小さな子達には養子の話も舞い込み、しばしば成立して行く。
そんな子達の中には、温かい家庭、愛し、慈しんでくれる親のイメージはぼんやり残っているとしても、親の顔、声、手の温もりまでは残っていない、一度は失われたそれが再び戻ってきた時、ぼんやりしたイメージは書き変えられる、最初の内は小さな違和感があるかもしれないが、それは時間が解決してくれる程度のものだ。
しかし、友香子には両親の顔、声、手の温もりが鮮明に残っている、それを書き変えることなど出来はしないし、したくもない。
それゆえに六歳を過ぎた子に養子の話はまず持ち上がらない、そのまま施設で育ち、そこから社会へ出て行くことになるのだが……。
(それって、良くないことなの?)
そう自問することもある。
友香子の両親は共に施設で育ち、社会に出て、出会い、愛し合い、自分を産んでくれた、自分を愛し、慈しんで育ててくれた。
施設育ちだからといって人間として何かが欠けていたなんて思えない、むしろ自慢したくなる両親だった。
自分だってそうなれるんじゃないか、それで良いんじゃないかとも思う。
それにここだって悪いことばかりじゃない、家庭の温もりはないけれど幼稚園児から高校生までのたくさんの仲間がいる、毎日が修学旅行みたいで……楽しいじゃないの……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「あなたが友香子ちゃんね、初めまして」
「初めまして……」
紀生、幸子と友香子の面会の日がやって来た。
最初はぎこちなく……しかし、次第に打ち解けて行って、会話も弾んだ。
そして、面会時間も終わりに近づいた時、にこにこと笑って聞き役に回る事が多かった紀生が居住まいを正した。
友香子も思わず背筋が伸びた。
「知ってると思うけど、私たちには娘がいた、愛美と言ってね、去年亡くなってしまった、生きていれば友香子ちゃんの一つ下だ、私たち夫婦はあの子を忘れることなんか出来ないんだ……だから、友香子ちゃんを愛美の代わりにしたいなんて思ってないんだよ、私たちの心の中でまだ愛美は生きているし決して消えてしまう事はないと思う、友香子ちゃんは愛美の代わりにはならないんだ……でもね、子供を慈しんで育てて、その成長を楽しみに、生き甲斐にして行く喜びも知っている、でも愛情をそそいて育てて来た愛美はもうこの世にいないんだ、だから友香子ちゃんが欲しい、私たちの娘になって欲しい、一緒に生きて欲しい、愛情を注いで成長を見守らせて欲しい……そう思っているんだよ……」
「……はい……」
「友香子ちゃんもお父さんやお母さんのこと、忘れられないだろう? それでいいんだ、私たちは友香子ちゃんのお父さん、お母さんの代わりにはなれない、違う人間なんだよ、それでも良いから一緒に暮らしたいと思えたら家に来て欲しいんだ……今すぐ決めなくて良いよ、良く考えて、自分の気持を良く確かめて、それからでいいからね」
「…………」
友香子が押し黙ってしまうと、幸子が続けた。
「そうよ、友香子ちゃんの気持ちに素直になって決めてね……でもね、なんだか初めて会ったような気がしないの……あたしも大事な娘を亡くしたし、あなたも大事なご両親を亡くした……子を亡くした親と親を亡くした子は、どこかで惹き合うものがあるのかもしれないわね、もしかしたら出会うべくして出会った、めぐり会うべくしてめぐり会ったのかもしれない……今、そんな風に感じているのよ」
「……はい……」
友香子はそれだけ言うのが精一杯だった、友香子も同じように感じていたから……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「嫌でなかったらでいいんだよ」
友香子が家にやって来た時、紀生はそう言って愛美の仏壇に視線を送った。
友香子がやって来ると決まって、それまでどうにも捨てる気にならなかった愛美のランドセルや洋服、玩具、自転車などを身を切るような思いで処分した。
愛美の思い出を消そうとは思わない、だが、養子を迎えると決めた以上、それにすがりついてはいけないと思ったから。
しかし、仏壇だけは処分できるようなものでもなければ、もちろんそんな気にもなれなかったのだ。
「はい」
友香子は素直に仏壇に向って手を合わせた。
夫妻の気持は聞かせてもらった、そして自分も同じ気持だと納得して友香子はこの家にやって来た。
しかし……。
さすがに愛美の遺影と相対すると、自分はこの人たちの本当の子供ではないのだと実感せずにはいられない。
(この人たちの気に入るようにしないと……)
友香子はそう思いながら、心の中で密かに実の両親に詫びた。
(あたし、この人たちの子供になれるようにがんばる、赦してね……)
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
親子の関係を結んだ紀生、幸子と友香子だったが、最初から実の親子として打ち解けるまでは行かなかった、それは当然のことだ。
最初の内、お互いに少し遠慮があり、お互いに相手に気に入られたいと、多少なり無理をすることもあった。
友香子はピーマンが苦手だったが、それを言い出せずに我慢して食べていた、でも、ピーマンの肉詰めを出された時、それを食べることが出来なかった。
それ以後、幸子が買い物籠にピーマンを入れる事はなくなった。
会社から早く帰れた日、紀生は愛美と一緒に風呂に入っていたし、友香子と実父もそうだったが、お互いにそれを言い出すことが出来ないままにその機会を失ってしまった。
やがて友香子は中学生に。
俗に『中二病』と呼ばれる時期は誰にでもやってくる。
雛は親鳥が飛ぶ姿を見て自分にも翼があることに気付き、飛ぼうとする、しかし親鳥は雛にまだその力がないことを知っているから巣に押し留めようとする、そして雛にはそれが何故だかわからない。
その葛藤が親と子の間に摩擦を生むのだ。
もちろん、友香子にもそんな精神的に不安定な時期は訪れた、しかし、友香子は他の子のように反抗的にはなれない、養父母が自分の親であろうとして自分を心配してくれるのがわかっているから……。
初恋も経験した。
クラスメートの中にはカップルとなっておおっぴらにいちゃつく子もいる。
しかし、友香子はプラトニックな片思いのまま初恋に幕を引いた、中学生同士の男女交際は親に心配をかけるものだとわかっていたから。
高校生になるとボーイフレンドも出来た、クラスメートの中にはボーイフレンドと肉体関係まで持ってしまう者もいたが、友香子は慎重にそれを避けてキスも許してあげられなかった、彼には申し訳なく感じたが、養父母に心配をかけるわけには行かないから。
そして、そこそこの大学に行ける学力はあり、養父母もそれを勧めてくれたのだが、友香子は福祉関係の専門学校を選んだ。
『少しでも早く社会福祉士になって、困っている人の力になりたいから』と言って。
福祉なら大学でも学べる、だが、大学の四年間にかかる費用を考えると、そこまで負担を掛けたくないと思ってしまうのも事実だった。
お互いに相手を思いやって自分を少し抑える……傍目には理想的な家族関係に見えるが、それはある意味衝突を避けようとするネガティブな態度でもある。
紀生、幸子と友香子は九年間を共に過ごしてなお、まだ本当の親子にはなり得ていなかったのだ。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
専門学校を卒業し、福祉の現場で働くようになって三年が経った頃、友香子は養父母の前で正座した。
「会って欲しい人がいるの……」
なんとも落ち着かない気持でその日を迎えた紀生と幸子だったが、友香子に紹介された青年を見て、思わず固まってしまった。
彼は車椅子に乗っていたのだ。
彼は障害があるからと言って社会に庇護されているわけではなかった、市役所の職員として、健常者に混じって普通に働いている。
社会の一線で働いている障害者として意見や経験を福祉事務所に提供する、そんな係わり合いから深く知り合うようになったのだと言う。
紀生も幸子も障害者への理解はある方のつもりだった。
しかし、現実に娘の交際相手だとすると、無条件で受け入れる事は出来なかったのだ。
「障害を逃げの理由にしないで頑張っているのは立派だと思う……だけど、友香子、彼はお前を幸せにできるのかな……」
彼が帰った後、紀生は友香子を座らせてそう意見した。
友香子の将来を心配するが故の苦言だった、しかし、紀生の言葉に友香子は激しく反発した。
養子に入って十二年間、押さえ続けて来たものが一度にあふれ出したのだ。
「彼は立派に働いてる、確かに足は不自由だけど体は他にどこも悪くないわ、ハンディを理由にしない姿勢は尊敬できるものよ、お父さんはもっと理解のある人だと思ってた!」
友香子はそのまま家を飛び出して行ってしまった。
紀夫と幸子は眠れない夜を過ごしたが、友香子は朝になっても帰らず、帰って来たのは翌日の仕事を終えてからのことだった。
そして、それっきり友香子は口を利いてくれなくなった。
そんな日々が一週間も続くと紀生は耐え切れなくなり、半休を取って彼の仕事ぶりをそっと見に行った。
友香子の言うとおり、彼はハンディを抱えている事を理由に特別扱いなどされていなかったし、それを望んでいないことも見て取れた。
窓口での対応もてきぱきと明快、同僚とも明るく談笑し、後輩の面倒見も細やかな様子……。
紀生はそれを見届けると、そのままそっと役所を出た。
「友香子、今日、役所に行ってこっそり彼の仕事ぶりを見てきたよ」
その日、仕事から帰った友香子、いつものようにぷいっと部屋に籠ろうとする背中に紀夫は言葉を掛けた。
「え……?」
しばらく振りに聴く友香子の声だった。
「俺が間違ってたよ、彼は立派な男のようだ、色眼鏡で見てしまって悪かった……」
「お父さん……」
「お前の為を思ったつもりだったが、お前の気持がわかってなかったな……お前は人の気持ちを思いやれる娘だ、お前を信じきっていればあんな事は言わなかった筈だ、すまなかったな」
「あたしの方こそ……あたしの為を思ってくれてることはわかってたのに、どうしても納得いかなくて辛く当ってごめんなさい」
「ははは、お互いにもうちょっと言いたいように言っていれば良かったかも知れないな、これからはたまには喧嘩もしような」
「……うん……」
友香子は少し涙ぐんで、しかし笑顔を見せてくれた。
心からの笑顔を……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
それから一年あまり、友香子は三ヵ月後に挙式を控えている、相手はもちろん車椅子の彼だ。
そして姓が変わる前に、と三人での旅行に誘ってくれたのだ。
「さあ……もうそろそろ行かないと列車に間に合わなくなるぞ」
「うん……今度は友香子の旦那さんとも一緒にね」
「ああ、いいね」
「でも、本当はもっと一緒に旅行したい人がいるのよね」
幸子が悪戯っぽく言うと、友香子は怪訝そうな顔をした。
「え? 誰?」
「まだこの世に生を受けてないけどね……孫よ」
「お母さん、気が早いわよ……」
友香子がそう言って笑った。
「母さんはこう言ってるけどな、何も焦る事はないんだぞ」
そう言ってくれる父の気持は良くわかるし、ありがたい気持で一杯になる。
「うん、わかってる、授かりものだしね」
友香子はそう言って笑ったが、父が、母が孫を抱く姿を思い浮かべていた。
きっとそれは幸せな光景になるのだろう。
両親にとっても、自分にとっても、夫となる人にとっても、そして、とりわけまだ見ぬわが子にとっても……。
幸せの連鎖……一度は途切れてしまったかのように見えたその鎖だが、紀夫と幸子、そして友香子は自分たちでそれを再び繋ぐことができた。
そして、三人は三人それぞれ心の中でその連鎖がこの先もずっと続いて行くように願わずにはいられなかった……。
(終)
このイラストのシリーズ、当初は臆面もなくラブストーリーを書いていたんですが、この頃からそれでは飽き足らなくなりまして……。
シチュエーションは写真を撮ろうとしているところ、そしてカメラのファインダーを覗いているのは……と言うところから発想しました。

『幸せの連鎖』
「あ、今、もしかして見えちゃった?」
「いやいや」
「ホント?」
「ああ、一瞬だったんで良く見えなかった」
「あ~! ちょっとは見えちゃったんだ、でも、ま、いいか、親子だもんね」
家族旅行の最中、海辺で写真を撮っている時、風がちょっとした悪戯を仕掛けてきた。
友香子は風にはためくスカートを押さえながら、そう言って笑った。
(本当に申し分のない娘に育ってくれたな……)
紀生はそう思いながらシャッターを切った。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
友香子は紀生と幸子夫妻の養子だ。
養子には特別養子と普通養子があり、特別養子は六歳未満に限られる、友香子が紀生夫妻の養子になったのは九歳の時だったから、当然普通養子になる。
特別養子の場合、産みの親と完全に縁を切って最初から養父母の子供であったかのように扱われる、実際には六歳なら親の記憶はあるだろうから大抵の場合はもっと幼い内に養子に迎え、実の子として育てる、戸籍を見ても嫡出子と記載されているから、養父母が真実を明かさない限り子供の側からは養子とは知らずに大人になることも少なくない。
それに対して普通養子は年齢に制限はない、戸籍上も養父母と養子と記載され、その事実を双方が納得の上で養子縁組するのだ、産みの親の名前も記載され、完全に縁を切るわけではない。
かつて、紀生と妻の幸子の間には一人娘の愛美がいた。
結婚して十年目、不妊治療の末にようやく授かった子供だったのだが、七歳の時に公園の遊具から転落すると言う不慮の事故で亡くなってしまったのだ。
交通事故なら加害者を恨むことで、病気なら出来る限りの手を尽くすことで、幾分かは気持ちも和らぐ。
しかし、自分で足を滑らせて転落したのでは誰も恨めない。
その日の内に亡くなってしまったのでは手を尽くしたと言う実感も持てない。
責めるとすればその事故を防げなかった幸子自身しかないのだ。
だが、普通七歳の子供であれば近所の公園になら一人で出かけて行く、いちいち付いて行く親などいない。
『その日』も、愛美はいつものように息せきって学校から戻ると、『ミルク頂戴』とキッチンに駆け込んで来て、一気飲み干すと『公園で○○ちゃんと遊んでくるっ』と玄関に駆け出して行った。
その背中に『車に気をつけるのよ』と声をかけたが、まさか公園で、などとは夢にも思わなかった。
愛美が新しいスニーカーを履いているのは見た、ディズニーアニメのキャラクターが描かれているもので、成長の早い子供のこと、ワンサイズ大きめのものを買い与えた、少しブカブカなのは気付いていたが、それが重大な事故に結びつくなどとは夢にも思わなかったのだ。
だが、報せを受けて公園に駆けつけた時、今まさに救急車に乗せられようとしている愛美の足には片一方しかスニーカーがなかった。
事故を目撃した、小さな子供たちの母親の証言によれば、愛美は脱げかけたスニーカーを履き直そうとして屈み、バランスを失って頭から落下したのだと言う。
大人なら不安定な足場の上でスニーカーを履き直そうなどとは考えない、だがお気に入りのキャラクターが描かれた新しいスニーカーは愛美にとっては宝物、落としたくなかったのだろう。
だが成長期の子供にワンサイズ上のスニーカーを与えるのはごく普通のことだ、幸子が自分を責める理由などない筈なのだが、熱望し、苦労してようやく授かって大事に育てて来た娘だ。
(もしあたしがピッタリのスニーカーを買ってやっていれば……)
そう思うといたたまれない、そんな気持が幸子を自責の闇へと押しやって行った。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「養子を?」
「そう、考えてみないか?」
愛美が亡くなってから一年が経とうとしているのにまだ闇の中から這い上がることが出ずに塞ぎこんでいる幸子を見かねて、紀生はそう切り出した。
「だめ……愛美の代わりなんてどこにもいないわ」
「代わりと言うわけじゃない、愛美がいてくれたおかげで俺たちは子供の成長を楽しみに見守ると言う幸せを得られただろう? もちろん苦労も多かったが他の何にも代え難い喜びだった……違うかい?」
「ううん、確かにそうだったわ」
「俺は突然途絶えてしまったその喜びを復活させてくれる存在が欲しい、そういう気持なんだ、その意味では代役と言えないこともないかもしれないけど、決して愛美の代わりを求めてるわけじゃないんだ」
「……やっぱり無理、もし申し分のない子が見つかったとしても、きっと愛美みたいには愛せないわ」
「愛美と同じように愛する必要はないさ、その子をその子として愛せば良い」
「……愛美の事を忘れちゃったら、あの子が可哀想……」
「忘れる必要はないさ、俺だって忘れられっこない、でもこれは男女間の愛情とは違うよ、俺たちには子供は一人しか出来なかったけど、愛美にきょうだいがいたらきっと愛美と同じように愛したんじゃないかな」
「……それは……確かにそうかもしれないわね……」
「まだどこかに相談したわけでもないんだ、もし、そんな風に愛せそうな子がいたらってことだけどね……幸子が良ければ役所にでも相談してみるけど」
「……あなたに任せるわ……」
まだ少し投げやりな様子ではあるものの、幸子は嵐の中で小さな灯りを見つけた小船くらいの希望は見出せたように見えた。
その灯りが灯台のものなのか、それとも同じように嵐の海にもまれる小舟のものなのかはまだわからない、だが、どんなに小さな灯りでも、進むべき方向だけは見いだせたのだ。
「お気持は伺いました、ありがたいことです、で、そういうことでしたらご希望に沿えそうな児童に心当たりはあります」
「本当ですか?」
「ええ、この子なんですが……」
児童相談書の職員が一枚の書類を紀生に差し出した。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
友香子もやはり一年前、八歳の時に両親を交通事故で一度に亡くしていた。
両親は共に施設育ち、同じような境遇である事を知って惹かれ合い、愛し合い、結婚して友香子を授かった。
地道に、そして幸せに暮らしていた親子だったが、知人の葬儀に二人で赴いた際に大きな事故に巻き込まれて亡くなってしまったのだ。
二人とも施設育ちだったと言うことは、頼るべき祖父母や親戚はないと言うこと、友香子もまた両親と同じように施設で暮して行く他はなかった。
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二度目の児童相談所、今度は幸子も一緒だ。
「この子ですか……ご両親をいっぺんに亡くすなんて可哀想……さぞ淋しいでしょうね」
「俺たちがこの子の支えになってやれたら……この子が俺たちの支えになってくれたら、どちらも幸せになれると思わないか?」
「ええ……あの、この子に会うことはできますか?」
「もちろんです、ご主人からお話は伺いましたし、失礼ながら調査もさせていただきました、あなた方は里親候補として申し分ないですからね」
幸子は話を聞いて写真を見ただけでかなり心を動かされた様子だった。
友香子が愛美に似ていたなどというわけではない、紀夫夫妻と友香子の間の共通点は同じ時期に大事な家族を失ったということだけ、少しだが年齢だって違う。
だが、友香子の写真を見たとたん、幸子には感じるものがあった。
この子には守り、慈しんでくれる存在が必要なのだと。
そして、自分がその存在になりうるならば、それは自分にとっても幸せなことに違いないと……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
ほどなく、友香子にもこの話が持ちかけられた。
説明を聞かされ、夫妻の写真も見せてもらった。
素直に『嬉しい』と思った、自分を欲しいと言ってくれる人がいることは嬉しくもあり、自分にも愛してくれる大人が必要だ。
だが、だからと言って素直にまっすぐ飛び込んで行けるものでもなかった。
友香子の中ではまだ両親は生きている。
何度も何度も夢に出て来た、夢の中で幸せな時間を過ごし、目覚めた時にその不在を思い知らされる、何度も枕を涙で濡らした。
それでも夢に出てきてくれる限り忘れてしまうわけには行かない、自分が忘れてしまったら両親は本当にこの世からいなくなってしまう、両親が生きた証が消えてしまう……そんな風に思えてならないのだ。
だが、九歳なりに現実も見えている。
九歳の子供を養子に迎えようなどと言う夫妻は決して多くない。
施設の仲間を見ていればそれはわかる、まだ物心つかない小さな子達には養子の話も舞い込み、しばしば成立して行く。
そんな子達の中には、温かい家庭、愛し、慈しんでくれる親のイメージはぼんやり残っているとしても、親の顔、声、手の温もりまでは残っていない、一度は失われたそれが再び戻ってきた時、ぼんやりしたイメージは書き変えられる、最初の内は小さな違和感があるかもしれないが、それは時間が解決してくれる程度のものだ。
しかし、友香子には両親の顔、声、手の温もりが鮮明に残っている、それを書き変えることなど出来はしないし、したくもない。
それゆえに六歳を過ぎた子に養子の話はまず持ち上がらない、そのまま施設で育ち、そこから社会へ出て行くことになるのだが……。
(それって、良くないことなの?)
そう自問することもある。
友香子の両親は共に施設で育ち、社会に出て、出会い、愛し合い、自分を産んでくれた、自分を愛し、慈しんで育ててくれた。
施設育ちだからといって人間として何かが欠けていたなんて思えない、むしろ自慢したくなる両親だった。
自分だってそうなれるんじゃないか、それで良いんじゃないかとも思う。
それにここだって悪いことばかりじゃない、家庭の温もりはないけれど幼稚園児から高校生までのたくさんの仲間がいる、毎日が修学旅行みたいで……楽しいじゃないの……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「あなたが友香子ちゃんね、初めまして」
「初めまして……」
紀生、幸子と友香子の面会の日がやって来た。
最初はぎこちなく……しかし、次第に打ち解けて行って、会話も弾んだ。
そして、面会時間も終わりに近づいた時、にこにこと笑って聞き役に回る事が多かった紀生が居住まいを正した。
友香子も思わず背筋が伸びた。
「知ってると思うけど、私たちには娘がいた、愛美と言ってね、去年亡くなってしまった、生きていれば友香子ちゃんの一つ下だ、私たち夫婦はあの子を忘れることなんか出来ないんだ……だから、友香子ちゃんを愛美の代わりにしたいなんて思ってないんだよ、私たちの心の中でまだ愛美は生きているし決して消えてしまう事はないと思う、友香子ちゃんは愛美の代わりにはならないんだ……でもね、子供を慈しんで育てて、その成長を楽しみに、生き甲斐にして行く喜びも知っている、でも愛情をそそいて育てて来た愛美はもうこの世にいないんだ、だから友香子ちゃんが欲しい、私たちの娘になって欲しい、一緒に生きて欲しい、愛情を注いで成長を見守らせて欲しい……そう思っているんだよ……」
「……はい……」
「友香子ちゃんもお父さんやお母さんのこと、忘れられないだろう? それでいいんだ、私たちは友香子ちゃんのお父さん、お母さんの代わりにはなれない、違う人間なんだよ、それでも良いから一緒に暮らしたいと思えたら家に来て欲しいんだ……今すぐ決めなくて良いよ、良く考えて、自分の気持を良く確かめて、それからでいいからね」
「…………」
友香子が押し黙ってしまうと、幸子が続けた。
「そうよ、友香子ちゃんの気持ちに素直になって決めてね……でもね、なんだか初めて会ったような気がしないの……あたしも大事な娘を亡くしたし、あなたも大事なご両親を亡くした……子を亡くした親と親を亡くした子は、どこかで惹き合うものがあるのかもしれないわね、もしかしたら出会うべくして出会った、めぐり会うべくしてめぐり会ったのかもしれない……今、そんな風に感じているのよ」
「……はい……」
友香子はそれだけ言うのが精一杯だった、友香子も同じように感じていたから……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「嫌でなかったらでいいんだよ」
友香子が家にやって来た時、紀生はそう言って愛美の仏壇に視線を送った。
友香子がやって来ると決まって、それまでどうにも捨てる気にならなかった愛美のランドセルや洋服、玩具、自転車などを身を切るような思いで処分した。
愛美の思い出を消そうとは思わない、だが、養子を迎えると決めた以上、それにすがりついてはいけないと思ったから。
しかし、仏壇だけは処分できるようなものでもなければ、もちろんそんな気にもなれなかったのだ。
「はい」
友香子は素直に仏壇に向って手を合わせた。
夫妻の気持は聞かせてもらった、そして自分も同じ気持だと納得して友香子はこの家にやって来た。
しかし……。
さすがに愛美の遺影と相対すると、自分はこの人たちの本当の子供ではないのだと実感せずにはいられない。
(この人たちの気に入るようにしないと……)
友香子はそう思いながら、心の中で密かに実の両親に詫びた。
(あたし、この人たちの子供になれるようにがんばる、赦してね……)
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親子の関係を結んだ紀生、幸子と友香子だったが、最初から実の親子として打ち解けるまでは行かなかった、それは当然のことだ。
最初の内、お互いに少し遠慮があり、お互いに相手に気に入られたいと、多少なり無理をすることもあった。
友香子はピーマンが苦手だったが、それを言い出せずに我慢して食べていた、でも、ピーマンの肉詰めを出された時、それを食べることが出来なかった。
それ以後、幸子が買い物籠にピーマンを入れる事はなくなった。
会社から早く帰れた日、紀生は愛美と一緒に風呂に入っていたし、友香子と実父もそうだったが、お互いにそれを言い出すことが出来ないままにその機会を失ってしまった。
やがて友香子は中学生に。
俗に『中二病』と呼ばれる時期は誰にでもやってくる。
雛は親鳥が飛ぶ姿を見て自分にも翼があることに気付き、飛ぼうとする、しかし親鳥は雛にまだその力がないことを知っているから巣に押し留めようとする、そして雛にはそれが何故だかわからない。
その葛藤が親と子の間に摩擦を生むのだ。
もちろん、友香子にもそんな精神的に不安定な時期は訪れた、しかし、友香子は他の子のように反抗的にはなれない、養父母が自分の親であろうとして自分を心配してくれるのがわかっているから……。
初恋も経験した。
クラスメートの中にはカップルとなっておおっぴらにいちゃつく子もいる。
しかし、友香子はプラトニックな片思いのまま初恋に幕を引いた、中学生同士の男女交際は親に心配をかけるものだとわかっていたから。
高校生になるとボーイフレンドも出来た、クラスメートの中にはボーイフレンドと肉体関係まで持ってしまう者もいたが、友香子は慎重にそれを避けてキスも許してあげられなかった、彼には申し訳なく感じたが、養父母に心配をかけるわけには行かないから。
そして、そこそこの大学に行ける学力はあり、養父母もそれを勧めてくれたのだが、友香子は福祉関係の専門学校を選んだ。
『少しでも早く社会福祉士になって、困っている人の力になりたいから』と言って。
福祉なら大学でも学べる、だが、大学の四年間にかかる費用を考えると、そこまで負担を掛けたくないと思ってしまうのも事実だった。
お互いに相手を思いやって自分を少し抑える……傍目には理想的な家族関係に見えるが、それはある意味衝突を避けようとするネガティブな態度でもある。
紀生、幸子と友香子は九年間を共に過ごしてなお、まだ本当の親子にはなり得ていなかったのだ。
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専門学校を卒業し、福祉の現場で働くようになって三年が経った頃、友香子は養父母の前で正座した。
「会って欲しい人がいるの……」
なんとも落ち着かない気持でその日を迎えた紀生と幸子だったが、友香子に紹介された青年を見て、思わず固まってしまった。
彼は車椅子に乗っていたのだ。
彼は障害があるからと言って社会に庇護されているわけではなかった、市役所の職員として、健常者に混じって普通に働いている。
社会の一線で働いている障害者として意見や経験を福祉事務所に提供する、そんな係わり合いから深く知り合うようになったのだと言う。
紀生も幸子も障害者への理解はある方のつもりだった。
しかし、現実に娘の交際相手だとすると、無条件で受け入れる事は出来なかったのだ。
「障害を逃げの理由にしないで頑張っているのは立派だと思う……だけど、友香子、彼はお前を幸せにできるのかな……」
彼が帰った後、紀生は友香子を座らせてそう意見した。
友香子の将来を心配するが故の苦言だった、しかし、紀生の言葉に友香子は激しく反発した。
養子に入って十二年間、押さえ続けて来たものが一度にあふれ出したのだ。
「彼は立派に働いてる、確かに足は不自由だけど体は他にどこも悪くないわ、ハンディを理由にしない姿勢は尊敬できるものよ、お父さんはもっと理解のある人だと思ってた!」
友香子はそのまま家を飛び出して行ってしまった。
紀夫と幸子は眠れない夜を過ごしたが、友香子は朝になっても帰らず、帰って来たのは翌日の仕事を終えてからのことだった。
そして、それっきり友香子は口を利いてくれなくなった。
そんな日々が一週間も続くと紀生は耐え切れなくなり、半休を取って彼の仕事ぶりをそっと見に行った。
友香子の言うとおり、彼はハンディを抱えている事を理由に特別扱いなどされていなかったし、それを望んでいないことも見て取れた。
窓口での対応もてきぱきと明快、同僚とも明るく談笑し、後輩の面倒見も細やかな様子……。
紀生はそれを見届けると、そのままそっと役所を出た。
「友香子、今日、役所に行ってこっそり彼の仕事ぶりを見てきたよ」
その日、仕事から帰った友香子、いつものようにぷいっと部屋に籠ろうとする背中に紀夫は言葉を掛けた。
「え……?」
しばらく振りに聴く友香子の声だった。
「俺が間違ってたよ、彼は立派な男のようだ、色眼鏡で見てしまって悪かった……」
「お父さん……」
「お前の為を思ったつもりだったが、お前の気持がわかってなかったな……お前は人の気持ちを思いやれる娘だ、お前を信じきっていればあんな事は言わなかった筈だ、すまなかったな」
「あたしの方こそ……あたしの為を思ってくれてることはわかってたのに、どうしても納得いかなくて辛く当ってごめんなさい」
「ははは、お互いにもうちょっと言いたいように言っていれば良かったかも知れないな、これからはたまには喧嘩もしような」
「……うん……」
友香子は少し涙ぐんで、しかし笑顔を見せてくれた。
心からの笑顔を……。
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それから一年あまり、友香子は三ヵ月後に挙式を控えている、相手はもちろん車椅子の彼だ。
そして姓が変わる前に、と三人での旅行に誘ってくれたのだ。
「さあ……もうそろそろ行かないと列車に間に合わなくなるぞ」
「うん……今度は友香子の旦那さんとも一緒にね」
「ああ、いいね」
「でも、本当はもっと一緒に旅行したい人がいるのよね」
幸子が悪戯っぽく言うと、友香子は怪訝そうな顔をした。
「え? 誰?」
「まだこの世に生を受けてないけどね……孫よ」
「お母さん、気が早いわよ……」
友香子がそう言って笑った。
「母さんはこう言ってるけどな、何も焦る事はないんだぞ」
そう言ってくれる父の気持は良くわかるし、ありがたい気持で一杯になる。
「うん、わかってる、授かりものだしね」
友香子はそう言って笑ったが、父が、母が孫を抱く姿を思い浮かべていた。
きっとそれは幸せな光景になるのだろう。
両親にとっても、自分にとっても、夫となる人にとっても、そして、とりわけまだ見ぬわが子にとっても……。
幸せの連鎖……一度は途切れてしまったかのように見えたその鎖だが、紀夫と幸子、そして友香子は自分たちでそれを再び繋ぐことができた。
そして、三人は三人それぞれ心の中でその連鎖がこの先もずっと続いて行くように願わずにはいられなかった……。
(終)