背中に手を回して……バレンタイン

文字数 1,660文字




「吉田君……」
 時刻は午後四時半、まあ、定時に上がれる日などめったにないが、今日はあと一時間くらいで仕事を終えられそうだなと考えていると、坂本先輩が声をかけて来た。
 今日は二月十四日、そう、バレンタインデーだ。
 そんな日に背中に手を回して何か隠していればチョコじゃないかと思うのが普通だろ?
 坂本先輩……フルネームは坂本良美さん、職場では二年先輩。
 面倒見の良い快活な女性で、クリっとした大きな瞳が印象的な、年上ながら可愛らしい女性だ、仕事ぶりもてきぱきしていて、いつも明るく振舞って周囲を笑顔にしてくれる。
 まあ、ここまで褒めればお察しだと思うけど、僕は先輩に恋しちゃってるんだ。
(え? 義理チョコなら今朝みんなに配ってたから、僕にだけ特別に? もしかして本命チョコ?)と思ってもまんざらうぬぼれと言うわけでもないだろう?
 だけど……。
「この仕事、お手伝いしてもらえないかなぁ? 引き受けちゃったのは良いんだけど、思ったより時間がかかって…独りでやってたら九時ごろになっちゃいそうなんだ」
 彼女の背中から出て来たのは一冊のファイルだった。
 もちろん引き受けたさ、だってうら若き女性が遅くなるのは可哀そうだし、二人きりになって、途中までだけど一緒に帰れるかもしれないからね。
 
 時刻は午後七時半。
 十分くらい前だけど、残業していた最後の一人も席を立って、オフィスには僕と彼女の二人きり。
「先輩、こっちの分は終わりましたよ」
「ありがとう! あたしの方もあと五分くらいで終わるから待っててくれる?」
「もちろん、手伝いましょうか?」
「ううん、もうこれが最後のページだから」
「そうですか?」
 僕はそう言って、椅子をちょっと引くと一つ伸びをして、そのまま背もたれに寄り掛かった。
 そうやって少し後ろへ下がっていれば、彼女をチラチラと見ていても気づかれないかと思ってさ。

「さ、終わった……待っててくれてありがとう……でね……」
 彼女は引き出しから小さな奇麗な包みを取り出した。
「これ、受け取ってくれる?」
「え?」
「バレンタインだから……」
「僕だけに?」
「うん……みんなの前だとちょっと恥ずかしいから、わざと仕事押し付けて残ってもらったの、ごめんね」
「そんなこと……」
 本当にそんなことはお安い御用だ、わざわざ二人きりになってからくれるチョコって……。
「いいんですか? 僕なんかが貰っちゃって」
「それはこっちの台詞、あたしなんかのチョコで良ければ……あんまり出来は良くないかもしれないけど」
「……と言うことは手作り?」
「うん、夕べ作ったの、思ったより時間かかっちゃった……つくづく不器用だと思う」
「開けてみても?」
「うん、ちょっと恥ずかしいけど、開けてみて」
 包みの中から現れたのは、確かにちょっといびつな形のチョコ、だが、彼女がこれを作るのが大変なのは察しが付く。
「ちょっとくらいいびつでも全然構いませんよ、心のこもったチョコだから」
「そう言ってくれるの?」
「だって……僕も先輩のことが……好きですから」
「……本当に?」
「神に誓って」
「こんなあたしでも、いいの?」
「『こんな』なんて言わないで下さいよ、先輩は優しくて、明るくて、一緒に居ると幸せな気持ちになれるんですよ……それに、可愛らしいし……先輩とお付き合い出来たら良いなって思ってました」
「本当?」
「もちろん」
「だったらね……先輩って呼ぶのはやめて、仕事の時はそれでも良いけど、二人っきりの時は良美って呼んでくれる?」
「ええ……ちょっと照れ臭いけど……良美、好きだよ……」
「あたしも……」

 そして僕は腰をかがめて彼女を……良美を抱きしめたんだ、背中にしっかりと腕を回してね……。
 良美も少し前かがみになって応じてくれたよ、そうでないと車いすごと抱きしめることになっちゃうからね。
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